〜日本書紀神代上第七段 一書第三より引用〜
日神の、天石窟(あまのいはや)に閉(こも)り居(ま)すに至りて、諸の神、中臣連の遠祖興台産霊(こごとむすひ)が兒天兒屋命(あまのこやねのみこと)を遣(まだ)して祈(の)ましむ。是に、天兒屋命、天香山の真坂木(まさかき)を掘(ねこじに)して、上枝には、鏡作の遠祖天抜戸(あまのぬかと)が兒石凝戸辺(いしこりとべ)が作れる八咫鏡(やたのかがみ)を懸け、中枝には、玉作の遠祖伊奘諾尊(いざなぎのみこと)の兒天明玉(あまのあかるたま)が作れる八坂瓊(やさかに)の曲玉を懸け、下枝には粟国(あはのくに)の忌部(いみべ)の遠祖天日鷲(あまのひわし)が作(は)ける木綿を懸(とりし)でて、乃ち忌部の首(おびと)の遠祖太玉命(ふとたまのみこと)をして執り取(も)たしめて、広く厚く称辞(たたへごと)をへて祈(の)み啓(まう)さしむ。(岩波書店 日本古典文学大系 日本書紀 上 による訓読)
この文によると、粟国の忌部氏(天日鷲を祀る)の上に、ご本家の忌部氏(太玉命を祀る)があり、それを更に中臣氏(天兒屋命を祖神とする)が束ねているように読める。
この場面は、伝承した氏族によって微妙に書き方が違っている部分である。天日鷲は、日本書紀の一書と先代旧事本紀にのみ登場し、阿波の忌部の祖である。
「日本書紀」の本文では、思兼命が指揮を執り、天太玉命と天兒屋命に命じて御幣を作らせて、相共に祈祷したことになっている。
「古事記」では、思金神(思兼命)が発案して神々が準備した御幣(みかぐら)を、布刀玉命(太玉命)が持って、天児屋命が詔戸(祝詞)したことになっている。
忌部氏が平城天皇に撰上した「古語拾遺」によると、思兼命が指揮を執り、天太玉命が諸神を率いて和幣(にぎて)を作らせ、天太玉命と天兒屋命(神皇産霊神の兒となっている)が一緒に祈祷したことになっている。
物部氏と関連が深いと言われる「先代旧事本紀」では、思兼命が発案し、天太玉命は諸神を率いて御幣を作り、天太玉命と天児屋命が一緒に祈祷したことになっており、その際、阿波の忌部の祖天日鷲神は木綿を作ったことになっている。途中で、天児屋命が天太玉命に命じて占いをさせたとあるので、中臣氏は忌部氏より格が上か?
「古語拾遺」によると、天日鷲は太玉命に従う四柱の神のうちの1柱である。太玉命の孫天富命が、天日鷲の孫(阿波忌部氏系図では由布津主命)を率いて、阿波の国(徳島県)、更に総の国(千葉県)を開拓したとある。阿波忌部氏の系図によると、天日鷲命は太玉命の義理の兄弟で、天富命と由布津主命の娘は夫婦である。尚、四柱の神とは以下の通りである。
天日鷲命(アメノヒワシノミコト/阿波国忌部の祖)、
手置帆負命(テオキホオイノミコト/讃岐国忌部の祖)、
彦狭知命(ヒコサシリノミコト/紀伊国忌部の祖)、
櫛明玉命(クシアカルタマノミコト/出雲国忌部の玉作りの祖)
ちなみに、中臣氏の系譜をたどると、その子孫は藤原氏や卜部氏(吉田氏)につながっていく。また「古語拾遺」には、思兼命が命じて、手置帆負・彦狭知の二神に天御量(アメノミハカリ)を作らせたとあり、思兼命が曲尺を作ったとする伝承の原型かとも思われる。 (文責 さんま)
→ 『愛郷探史録』 栗矢の産土神由来
→ 「阿智の産土神」(さんまのメモ書き) 栗矢八幡社