栗矢の産土神由来
〜 以下は要旨です (文責さんま) 〜
伍和栗矢の八幡社(旧村社)は、覆屋の中に社殿が2棟あり、東が八幡様、西が天日鷲命(あめのひわしのみこと)である。天日鷲命は上下伊那に例を見ない祭神であるが、江戸時代には「結城大明神」と呼ばれていた。明治維新後、神道の立場から「天日鷲命」と改名されたのである。
ところが、大山田神社(下條村)の神官であった従五位下鎮西清浜(1734〜1808)が栗矢八幡社の由来記を残しており(鎮西清浜遺稿)、安永2年(1773)の棟札をもとに次のように記している。おそらく、清浜は栗矢八幡社の宮司を兼ねていたのだろう。
(概略) 栗矢村に昔から鎮座している結城大明神は天太玉命(あめのふとだまのみこと)であろうか。平安初期の「古語拾遺」に、天富命(あめのとみのみこと)が阿波の忌部(いんべ)氏から分かれて東国に移住し、良い麻ができたのでその地を「総(ふさ)の国」、穀物の実りがよいので「結城郡」といった。天富命はその地に祖神の天太玉命を祀ったとある。その神社から迎えたのではないかと思うが、その伝承は既に失われてしまった。(原文と通訳は、『愛郷探史録』を参照)
天太玉命は古事記の「天の岩屋戸ごもり」に登場するほか、日本書紀には「忌部の遠祖」「忌部神」として登場する。天日鷲命については、日本書紀の中で「一書に曰く」として次の記述があるが、2神の関係が分からない。
「粟の国の遠祖天日鷲命が作(は)ける木綿を懸(とりし)でて、乃(すなわ)ち忌部の首(おびと)の遠祖太玉命をして執り取(も)たしめて・・・」
天日鷲命は「麻植(おえ)の神」と呼ばれるが、栗矢のように水利に恵まれない畑作の村は他にもあるのに栗矢以外に祀られていない。また、「古語拾遺」にある太玉命社とは、千葉県館山市の元官幣大社安房神社と思われるが、なぜこの地に祀られているのだろうか。
房総の千葉氏は享徳の乱(1454)で一族分散し、一部がこの地に定着した。家系図によると、下条家没落後の天正15年(1587)に小松原から栗矢に住み着いたが、それ以前からこの地を知行していたという。千葉氏がかつての祖神を勧請して祭祀したと仮説を立ててみた。それが「天日鷲命」だったのか「天太玉命」だったのかによって、本来の祭神が決定するのではないだろうか。