とぴっくす5
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目次
§大阪城 
§お初天神と近くの神社 
§大谷観音(足利) 
§坂戸城跡(新潟県六日町) 
§八王子城跡 
§足利学校と鎫阿寺(ばんなじ)  
§織姫神社と機神山古墳 
§足利フラワーパーク  
§ふじみ野市権現山古墳群 
§金沢文庫「運慶展」
§慈光寺(ときがわ町) 
§太田天神山古墳と女体山古墳
§金山城跡(太田市)
§鉢形城跡(寄居町)
§秩父鉱山
§細川庭園と永青文庫 
§運慶
§クローン文化財展「素心伝心」
§鹿島神宮
§菅谷館跡(嵐山町)・小倉城跡(ときがわ町)
§杉山城跡(嵐山町)
§榛名神社
§東松山市の古墳Ⅱ 
§将軍塚古墳・吉見百穴・安楽寺 
§上毛野はにわの里公園
§横須賀軍港クルーズ 
§横濱と開港記念会館 
§埼玉県の三偉人 
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大阪城 
大手口右手の南外堀。屈曲した石垣は横からの攻撃が可能。六番櫓、五番櫓、四番櫓が見える。 大手口から大手門(右端)へ。大手門は城の正門。左が千貫櫓(国史跡)、中央に多門櫓が見える。  大手門は高麗門(↑)と櫓門から成る。高麗門は建築様式の名。江戸時代に盛んになった。 枡形左手の櫓門。門上に乗る渡櫓と鍵型に曲がった続櫓と土塀で枡形虎口を形成している。 枡形虎口の巨石。左から大手二番石23畳、大手見附石29畳、大手三番石22畳という大きさ。 
石段は雁木(攻撃時に兵が登る)。四角い穴は鉄砲狭間で、ここから、枡形に侵攻した敵を攻撃する  石垣用の石を割る為には直列に穴をあけ、楔を入れて割る。その矢穴が残る石が置かれている。  本丸に向かう桜門。正面は天守閣。寛永3年創建の門は維新時焼失したが明治20年に再建された。 本来枡形を形成していた桜門内にある大阪城最大の巨石「蛸石」。36畳あり、重さは108㌧の花崗岩。  小天守台の金明水井戸。秀吉が毒抜きのため金塊を沈めたという伝説があるが、これは徳川のもの。 
天守は昭和6年に再建された。徳川期の位置や形を踏襲しているが、最上層は秀吉のイメージで黒壁に金の虎を描いたものに。 天守から北側の山里丸方面の眺望。下方に青屋門の枡形と極楽橋が見える。その先はクリスタルタワー、右端の屋根は大阪城ホール  二の丸の豊国神社。秀吉、秀頼、秀長の三人を祀っている。 大阪ではやはり太閤さんが人気。この像は外国人観光客にも人気。 本丸の南西隅櫓台と空掘。大手から桜門への道を見通す防御に重要な場所。石垣の角は算木積みと呼ばれる積み方。  元和6年に創建された千貫櫓は国の重要文化財。大手口を守る重要な櫓である。工事責任者は茶人でもある小堀遠州。 
千貫櫓付近から西外堀。幅の広い堀は防御力が高い。石垣の勾配のラインが美しい。  坤(ひつじさる=南西)櫓跡。西の丸の南西にある。維新時には焼け残ったが第二次世界大戦で焼失 乾櫓も元和6年創建の重要文化財。西の丸の戌亥(西北)にある。L字型の総二階造りの櫓は珍しい  硝煙蔵は火薬保管庫。花崗岩で作られている。重文現在、多門櫓、千貫櫓と共に土日に内部を公開中  西の丸庭園は公園として整備され、春や秋は遠足の幼稚園児や小学生が芝生を駆け回る 
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 お初天神と近くの神社
 
ぜひ訪ねたかった曽根崎の露天神社。元禄16年天満屋の遊女お初と平野屋手代徳兵衛が境内で情死する事件があり、⇗ それを基に近松門左衛門が書いた「曽根崎心中」が大ヒット。この神社は「お初天神」と呼ばれるようになりました。 お初徳兵衛は心中に終わる悲恋なのですが、近松の浄瑠璃に「恋の手本」とあり、恋愛成就を祈願する神社になっています  露天神の名の由来はこの「露ノ井」。浪花の七名井の一つとされ、ゆたかな清水でした。今は水量が減っているそうです。
「曽根崎心中」:堂島新地天満屋のお初と醤油屋の手代徳兵衛は将来を言い交す仲だったが、徳兵衛の叔父が店を継がせようと縁談を持ち込む。徳兵衛は断るが継母が勝手に結納金を受け取ってしまう。徳兵衛は必死にそれを取り戻すが、その金は騙し取られてしまう。切羽詰まった徳兵衛はお初と、露天神の森へ死出の道行となる。「この世のなごり夜もなごり死にゆく身をたとふればあだしが原の道の霜」という近松の名文は有名。
 お初天神の近くに小さなお社発見。鳥居から覗くと「神明社跡」。神社跡の石碑をお祀りしてありました。 昭和初め、不動寺の住職がご託宣をうけ土中から地蔵を掘り出して祀ったら災厄が止んだ、その「ごて地蔵」は梅田にあります もと曽根崎川にかかっていた浄正橋たもとの福島天神。すぐ近くに「福沢諭吉生誕之地」の石碑があります。 ここは堂島川玉江橋。四天王寺の五重塔を望む名勝で「浪花百景」にも描かれる。大名の蔵屋敷が立ち並んでいた辺りです  
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大谷観音 
 
大谷の川には毒蛇が住み毒水が流れていたが弘法大師が岩壁に千手観音を彫刻し里人の憂を除いた、というのが大谷寺縁起。 最初は岩に彫刻した表面に朱や金箔がほどこされていた。バーミヤン石仏との類似点からアフガニスタンの僧の彫刻と推理される  脇堂には釈迦三尊、薬師三尊、阿弥陀三尊の石仏が彫られている。平安中期~鎌倉時代にかけてのものと推定されています。 ここ大谷の特産大谷石は軽く柔らかくて加工しやすい。従って浸食も受けやすく「天狗の投石」と名付けられた↑のような奇岩も。
  
お寺のお隣大谷公園には高さ27mの平和観音。太平洋戦争の戦没者供養と平和を祈ってS29に建造されました。優しいお顔です 平和観音の肩口の高台から大谷寺を見るとこんな感じ。覆いかぶさるように突き出た岩の下の建物が大谷寺です。  大谷石は軽石凝灰岩。海中火山の火山灰や砂礫が凝固したもので加工しやすく火に強いので、住宅の塀や蔵などに多用された。 
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坂戸城址 
 
 坂戸城は、坂戸山(標高634m)頂上に実城、少し下に広めの郭、西麓に居住区がある
築城は長尾房長。房長の子政景は越後国主上杉謙信の姉を正室に迎え、手を結んだ。謙信没後に養子となった政景の子景勝が跡を継いで、坂戸城は越後の要衝となった。↑は西麓にある家臣屋敷跡。 ↑S.54本格的中世山城であるとして国指定史跡となる。秀吉の命で景勝は会津に国替え、その後越後国主となった堀秀治の家臣堀直竒が城主となったが1610年信濃に転封となり、坂戸城は廃城となった 直江兼続は坂戸城下の生まれであると言われており、上杉景勝が春日山城主時代には坂戸城を託された。↑は直江兼続伝世館。長尾家、上杉家、直江兼続、堀家などの所縁の品が展示されている 兼続と景勝の強い結びつきはNHK大河ドラマで有名になった。隣接する銭淵公園には喜平治(景勝)と与六(兼続)の像が建つ。綺麗に整備された公園の背後は坂戸山が借景。 
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  八王子城址   
 今回は思い立って急に行ったため、時間も覚悟も不足。籠城のための詰めの城である本丸跡まで登りましたが、普段の居住区である、門や石垣が復元されている御主殿跡や御主殿の滝は見逃しました。
 先ずガイダンスセンターで勉強。八王子城は16C末に北条氏照が豊臣秀吉の攻撃に備えて築いた山城。 標高470mの本丸まで約40分と書いてあります。八王子神社と本丸をめざして 山道を登り始めます。  ここは金子三郎右衛門が整備した子丸という郭跡。そろそろ足に来るころですが先は長い  右隅の人物を見ると急峻な山道を登ってきたのがわかります。この辺りは柵門跡。 
 9合目を過ぎて暫くすると視界が開けます。関東平野を一望できます 八王子神社。八王子とは牛頭天王の8人の王子のこと。   やっと頂上です。「本丸跡」の石碑のたつ郭はあまり広くありません。 御主殿跡に向かう途中の公園のジオラマ。水色が現在地、黄色が本丸跡です 
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足利学校と鑁阿寺 
足利学校 
足利学校は日本最古の学校。フランシスコザビエルも「坂東には日本で最大にして最も有名なアカデミーがある」と紹介しています。 この地には諸国から学徒が集まり、感化された一般人も漢詩を口ずさむ風雅の一都会でした。入園券は「足利学校入学証」  創建については分っておらず、奈良時代説、平安時代の小野篁説、鎌倉時代の足利義兼説など。文献に現れるのは室町時代。 寛文8に作られた足利学校のシンボル 「学校門」。左の「入徳門」は裏門を移築したものですが、額は江戸時代のもの。 孔子廟。寛文8年の造営。御茶ノ水の湯島の聖堂などと同じ明時代の聖廟を模したもの。孔子像と小野篁像が安置されています 
字降(カナフリ)松。読めない字や言葉を紙に書きこの松の枝に結んでおくと師がふり仮名や注釈を書いておいてくれたそうです  庫裡・書院・方丈の入口。講義や学校行事、接客などは方丈で行われました。現代では「日曜論語素読体験」を受けられます  これは「宥座の器」。空では傾き丁度良い量の水で安定するが越えると全てこぼれてしまう。孔子の言う「中庸」を表わしています。  青木文夫先生の講義と素読体験。先生に倣って「子曰、巧言令色鮮矣仁」等と素読。「恕」とは「思いやり」のこと。「中庸」とは・・。  発掘調査と江戸時代の図絵から、庭園も復元されています。↑は築山泉水の北庭園。南庭園は夜間のライトアップがあるそうです
   鑁阿寺(ばんなじ)
中国山東省の孔子の墓に孔子の弟子子貢が植えたことから、孔子と縁が深いとされる「楷の木」。遺蹟図書館の横にあります。 鑁阿寺は元々は足利氏の邸。周囲は土塁と堀、四方に門のある典型的な鎌倉武士の館。本堂(↑)は国宝に指定されています。  真言宗大日派の総本山です。宝塔としては我が国最大(もっと大きいものは大塔)の多宝塔は国の重要文化財(↑)。  校倉造のこの建物は宝蔵として使用されていたもの。右奥は大鳥神社。広い敷地にはこの他、経堂や霊屋が建っています。 足利義兼の正室時子を祀る蛭子堂。時子は夫の留守に腹が膨れ、不貞を疑われて自刃したが妊娠では無かったと伝えられる 
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 足利織姫神社と機神山古墳
 フラワーパークから東に車で20分。機神山中腹にある織姫神社。  商売繁盛と縁結びの神様で、「愛の鐘」があり、右下には「恋人の聖地」の字 足利の街が一望できます。こちら側には「足利学校」が見えます。   この藤棚の藤はフラワーパークから奉納された「大藤」のこどもだそうです
 神社の上に登ると「機神山古墳」があります。全長36mの前方後円墳。M26に発掘調査が行われましたが出土品は行方不明  この辺りも隆起によってできた山。チャートと呼ばれる岩石で出来ています。古墳は形状などから6世紀後半のものと推定されます。 石室が発見されていますが、H23.3.11の地震で側壁の一部が転落、天井石もずれたため、土嚢等で保護しており、入れません   眺望は抜群。足利の街と眼下に流れる渡良瀬川、お隣の群馬県も。
 
 足利フラワーパーク
今藤の花が盛りの足利フラワーパーク。4月1日に両毛線足利フラワーパーク駅が開業したばかり。 花の咲き具合で入園料が異なります。今日は最高料金\1700だけあって、藤も他の花も見ごろです  これは色の薄いうす紅の藤。白い藤や黄ばな藤もあり、種類によって咲く時期も異なります。 手前のハナミズキも盛り。池の向こうは白藤の滝になるはずの棚。でも周囲に花壇があり、どこも綺麗 
園内のいたるところで 躑躅も満開でした。 大藤の棚の下は人でいっぱい。   栃木県指定天然記念物。最初50畳→600畳の広さに これからはシャクナケの季節。白藤も咲き始めていまず
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 権現山古墳群
 上福岡(ふじみ野市)にある権現山古墳群史跡の森。ここでは古墳時代のごく初期のものと思われる、12基の古墳が発見されています。  2号墳が一番大きく、大小二つの方墳がくっついた、「前方後方墳」です。高さはあまりありませんが、発掘から、全長32mあることがわかります こんもりと盛り上がっているのが7号墳。この墳丘が一番原型に近い形で残っています。
一帯は公園として整備されています。 
「権現山古墳」の名の由来は、江戸時代、東照大権現家康公が、鷹狩に訪れた際、墳墓とは知らず休憩をとったことからなのだそうです  墳墓のある辺りから、すぐそばを流れる新河岸川が見えます。福岡河岸は江戸~明治時代にかけて流通の要として栄えたところです。 
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金沢文庫「運慶展」 
北条実時が創設し蔵書や中国の印刷物を収めた金沢文庫。隣接して北条氏の菩提寺称名寺があります。↑は山門 称名寺の庭園は広くはありませんが、美しい浄土庭園。ここには多くの仏像や中世文化財美術品も残されています。 「金沢八景」は三浦浄心が中国の瀟湘(ショウショウ)八景に準えて名付けたことから、浮世絵等にも描かれる名勝。↑は広重画  ↑は称名寺と文庫を結ぶ隧道。金沢が栄えたのは良い港の無かった鎌倉に、六浦に着いた船から物資が運ばれたから 「運慶展」は、運慶と鎌倉幕府との関係や、この時代の運慶仏への信仰に注目した関連作品を中心とした展示です 
 
ポスターにも使われた愛知県滝山寺の梵天立像は運慶湛慶合作。右の大威徳明王像は胎内文書から運慶作であることが明らかになった。称名寺塔頭光明院蔵。共に重文 左の慈光寺阿弥陀仏がきっかけでこの展示に来ました。右はやはり埼玉県川口市の地蔵院の不動明王。剣を肩に担ぎ、前髪が風になびく独特の形。慶派の仏師の作と思われます。  左の阿弥陀如来は宗慶作。埼玉加須市保寧寺蔵、脇侍も一緒でした。右の大日如来は静岡の修禅寺蔵。108cmほど。実慶作。どちらも国の重要文化財に指定されています。  左の大日如来は31cmほど。栃木の光得寺蔵ですが、もとは足利氏所縁の樺﨑八幡宮にあったもの。右は横須賀曺源寺の十二神将。巳(写真)は他の像よりひとまわり大きい。重文 鎌倉の光蝕寺蔵の秘仏阿弥陀如来立像(伝運慶作)、及び頬焼阿弥陀縁起絵巻。運慶の姿が描かれた絵巻では最古のもので、共に国の重要文化財です。
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慈光寺
ときがわ町の慈光寺は坂東9番観音霊場。673年観音霊場として開基。奈良時代になって慈光寺が建てられました  871年に寄贈された600巻の「大般若経」(重文)、鎌倉時代に寄贈された国宝の「慈光寺經」を所蔵しています。  「慈光寺経」は藤原兼実一門が結縁のため書写した法華経の一品経。精巧なレプリカが作られ、公開されています 慈光山は今も本堂の他、開山堂、女人堂、心経堂、観音堂等の建物が建てられている大きなお寺です
観音堂。H.8に修復なった県指定文化財十一面観音さまは子供をおんぶすることを顕現して左手掌が後ろを向いています。(甘露手)  慶派のものと伝えられる宝冠阿弥陀如来像は金沢文庫「運慶展」に出品中と聞き、がっかりしたらご住職が招待券を下さいました。 開山塔は珍しい木造一重の宝塔で国の重要文化財。写真は覆屋。塔本体のレプリカが「埼玉歴史と民俗資料館」に展示されています。 鎌倉時代には慈光山に栄西の高弟が臨済宗の霊山院を建てて禅道場を開きました。75坊が建てられ、全盛を誇った名残がこの板碑群です。
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太田天神山古墳と女体山古墳  
群馬県太田市には今でも多くの古墳が残っています。長さ210mの天神古墳は関東で最大の前方後円墳。周囲には二重の堀の跡があります。 発掘された埴輪等から5世紀中頃のもので、毛野(ケヌ)国の首長の墓と推定されます。 写真は前方部・後円部の間の祠につづく鳥居。  高さ17mの後円部頂上からは太田の街が一望できます。北東方向には陪塚も作られています。また、別名「男体山古墳」とも呼ばれます。  天神山古墳から300mほど東にある女体山古墳は、円丘部に方形の造り出し部を付けた「帆立貝形古墳」(右上) 。全長は106mほど。 女体山古墳からも円筒形埴輪等が発掘されており、天神山古墳と向きや時期が近いことから、埋葬者に強い関連があると推定されます 
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 金山城址
金山城も日本百名城の一つ。築城は新田一族の岩松家純(1469)。16世紀に入り、由良氏の支配となり、上杉や武田に再三攻められたが難攻の城で落ちたことはありません。しかし後に台頭してきた小田原北条氏に降伏して1584年金山城を開城しました。北条氏が秀吉軍に屈した後は金山周辺は徳川家の支配となり、城は廃城、金山は徳川将軍家の御用林となりました。明治の初めに、もと本丸(実城:ミジョウ)の場所にに新田神社が建てられました。
金山は標高239m。左の↓が駐車場。右上が本丸跡の新田神社。典型的な山城です 城周囲には敵の侵入を防ぐ堀。↑は西櫓台下堀切。現在は通路になっています。 馬場下通路。手前の土橋を渡ってから、石積の奥は通路を曲げ、先を見せないような工夫をしています。 金山は山頂を中心に溶結凝灰岩を含む金山流紋岩で出来ており、ところどころ柱状節理が見られます。 
 馬場下通路では木橋で進路を狭め、それを渡ってくる敵を監視し、その先の土塁石積から攻撃する等工夫があります 城周囲の敵の動向を見張るための物見台。晴れた日には日光男体山や浅間山まで見渡すことができます。  上下二段の石垣で囲まれた正円形の月ノ池。城の中心部への入り口脇にあり、訪れる者に水の豊富さを見せます 大手虎口は実城へ向かう通路を守る一大防御拠点。高く積まれた石垣は敵を威圧し、城の威厳を示します。
関東の城には珍しく石垣で土塁を築いている金山城。雨害等で崩れることもあったらしく何度も改修した跡があります  日ノ池も石垣で囲い、粘土質の底に水を貯めたもの。勝利の祝や雨乞いなどの儀式が行われていたと考えられます 金山の実城域にある市指定天然記念物の大ケヤキ。樹齢800年と推定され、樹高17m,目通り6.79m,枝張40m   天守曲輪(最高位の郭)にある、新田義貞をご祭神とする新田神社。「本丸跡」の石碑があります。
 
 鉢形城址
 埼玉県寄居の鉢形城は日本百名城のひとつ。1476年長尾景春の乱の拠点となった城です。太田道灌がこの乱を制した後、山内扇谷両上杉の争いとなり、16世紀半ばには北条氏の支配下となります。 現在の城址のような整備を行ったのは北条氏那と思われます。三ノ曲輪の辺り(↑)は池が作られ、発掘された食器などから大名の接待などに使われたと考えられます。四阿が復元されています。  荒川と深沢川という天然の要害に囲まれた鉢形城。北関東や甲州信州攻略の拠点として重要な位置にあり、織田、北条、武田、上杉らの争いの場となりますが、天正18年秀吉軍に包囲され開城しました。 翌月小田原城も開城。氏那は出家して前田利家に預けられ金沢で死去しました。鉢形城は廃城となり、鉢形周辺は徳川の家臣日下部氏と成瀬氏の直轄地となりました。↑は城山稲荷。 
 鉢形城は昭和7年に国指定史跡となり、平成に入ってから発掘調査や整備が行われ、平成16年から鉢形城址公園として公開されています。↑は復元された井戸 発掘調査の結果、石積土塁、6か所の馬出、池の遺構、掘立柱建物跡のほか、柵列、土坑、溝などが確認されました。検出された礎石と石階段から四脚門を復元(写真①) 二の曲輪の発掘は平成9年に行われ、溝、土坑のほか、土中から鉄捎やフイゴの一部が出土したことから、鍛冶工房があったと推定されています。  外曲輪南西部の鉢形城歴史館。平成16年鉢形城址公園開設と共に建てられました。内部には櫓門が復元され、鉢形城の構造や歴史を解説するワープステーシ等がありまず。
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秩父鉱山ー140種の鉱物のきらめきー 
 
 鉱床の形成過程にはスカルン化、気成、珪化、熱水の4つの作用が関係します。
 上長瀞の埼玉自然の博物館。現在の展示は「秩父鉱山ー140種の鉱物のきらめきー」です。知らなかったことばかり  地底のマグマが吹上げ、石灰岩に接触して変成作用により生まれる鉱床を「スカルン鉱床」といいます。マグマの熱水の量や石灰岩の質により出来る鉱物は異なります。秩父の鉱床は種類が多く、結晶形の整った鉱物が多いことで有名です。
 黄鉄鉱は早期のスカルン化、後期には熱水作用により形成される鉱物です。秩父鉱山ではこのような6面体や8面体の結晶が多く産出されます。 黄銅鉱も同様のスカルン鉱物。マグマ中の金属が石灰石のCaイオンと反応して置き換えられる時に金や銅が沈殿するのだそうです。 ↑のベスブ石やザクロ石は早期スカルン化作用の産物。マグマ近傍の石灰岩中に産出されます。大きさや色調、結晶性は多様です。 犬牙状の方解石。方解石は石灰岩が主成分をなす鉱物でスカルン鉱床で最も多い炭酸塩鉱物です。Mnを含むと↑のようにピンク色を帯びます 
 
京都大付属図書館蔵の火浣布。
右はクリソタイル
 
 石膏はCaと硫酸からなる鉱物。鉱石の空隙に種々の形態の結晶を形成したものです。更に美しい結晶性をもつ水晶も見つかることがあります 自然金(糸金)。天正年間に採取したという言い伝えや、慶長13年秩父市桃の久保で金の鉱脈に当たり採掘が行われたという記録があります。  平賀源内も秩父で金の採掘を試みましたが、大きな鉱脈には当たらず、その後鉄山として開発を試みましたが上手くいきませんでした。 初めに源内が秩父に来た目的は燃えない布「火浣布」の原料石綿の採取です。長瀞付近で産出されるクリソタイルという石綿が原料と思われます。

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 細川庭園と永青文庫
「長谷川等伯障壁画展:南禅寺天授庵と細川幽斎」という展示です。長谷川等伯は豊臣秀吉や千利休に重用された桃山時代の絵師で、智積院の障壁画などが有名です。細川藤孝は初め足利に仕えていましたが後に織田の家来となり、丹後宮津を治めます。本能寺の変以降は剃髪し幽斎家督を忠興に譲ります。(忠興の内室はご存知明智光秀の娘ガラシャ夫人。幽斎の妻も洗礼名マリアというキリシタンでした。)武人ながら、書画や茶道に造詣が深く、和歌や連歌も読み、能や雅楽にも通じた茶人です。今回の展示には幽斎が愛した笛もありました。
 
 永青文庫には都電荒川線の早稲田駅から歩いて行きました。子供の頃は良く乗った都電、久しぶりです。 新目白通りから神田川を渡ります。今年3月の乙未会のお花見散歩と重なるコース。今は落ち葉の季節です。  細川庭園は肥後熊本藩細川家の下屋敷。明治からは細川家の本邸となり、一時西武鉄道の所有となりましたが→  昭和34年東京都に買収され、現在は文京区に移管されています。もみじが色づきはじめていました。  この建物は明治期に、細川の学問所として建てられた松聲閣。3月の乙未散歩で中を見学しました。
 
 
 庭園の築山を登ったところにひっそりと立つ洋館が永青文庫美術館。細川公爵家のコレクションが展示されています。  H.29.9.30~11.26は長谷川等伯の襖絵の展示です。肥後熊本藩の祖、細川藤孝(幽斎)所縁の寺、長岡京の南禅寺塔頭天授庵の障壁画が公開されています。↑は前期公開の「禅宗祖師図」。私が拝観したのは後期公開の「商山四皓図」、「松鶴図」など。いずれも重要文化財に指定されています。 左は日通上人筆の「等伯画説」。等伯が雪舟五代目を名乗った根拠がここにあります。右は等伯筆「玉甫紹琮像」。 帰路は庭園を通らず、神田川まで、「胸突き坂」を下りました。名前の通り急峻な坂道で、手摺り付きの歩道です。 
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                           運慶 ー興福寺中金堂再建記念特別展ー
2017秋、天才仏師の傑作、集結。運慶の魅力に惹かれ、台風接近で大雨の中上野に出かけました。 
   
東京国立博物館平成館で開催されている運慶展。国宝と重文が殆どという展示。 平安時代末期に慶派仏師康慶の息子に生まれ、鎌倉時代にかけて活躍した運慶。尤も有名な仏師ですが、彼の作と判っている仏像は30体あまりしかありません。そのうち22体が今回結集しました。 運慶の仏像はそれまでにない写実性を持ち、彼以降の慶派では水晶を用いた玉眼、非対称の顔のつくりやがとても人間的。同時に四天王や天燈鬼などは、迫力のある誇張された筋肉が効果的です。  興福寺の仏頭は、2006年ある僧の記録文書から運慶作であることが判明しました。   阿弥陀如来坐像および両脇侍立像。横須賀浄楽寺所蔵。文治5年(1189)運慶作。胸や頬の厚みには重量感がありますが、衣の襞は軽やかな印象でした
 
     
奈良円城寺の国宝大日如来坐像。運慶のデビュー作で、台座に運慶の署名があります。国宝。 ポスターにある無著菩薩像。小さな目、丸めた背中や首、手の甲の皺。生きているお姿のようです。 八大童子のうち制多迦童子。小さな像ですが玉眼の視線を感じてドキッとするほどリアル。  京都六波羅蜜寺の地蔵菩薩坐像。整ったお顔立ちと流れるような衣のひだが美しい仏さまです。  明治期に修復された美しい聖観音菩薩像。体内には頼朝の歯と頭髪が納められているそうです 毘沙門天立像。伊豆願成就院蔵。体内に五輪塔型の銘札が納められています。国宝。 運慶学園をクリックしてみて下さい。みうらじゅん氏主催の「運慶学園」に飛びます。入学試験を受けてみて下さい。「運慶展」に行った方なら全問正解できます。「校歌」も面白いですよ。
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クローン文化財展「素心伝心」~失われた刻の再生~
シルクロード特別企画展 東京芸術大学美術館

お経の声とお香の香りが漂う・・
 これは文化財を蘇らせ未来に継承する技術です  3Dプリンターを使ってレジンでクローンを造り、ロウに置き換えて胴で鋳造された釈迦三尊像。仕上げは人の手で行います 昭和24年に焼失した法隆寺の壁画は、現在昭和40年に模写されたもので復元されていますが、今回は焼失前の写真からの復元です。 やはり3Dプリンターによる、アフガニスタン、パキスタンの仏陀像頭部いずれも3~4世紀のものです。 
 
バーミヤン遺跡はタリバンにより2001年に破壊されました。 京都大調査隊が1970年代に撮影した写真とドイツの調査団のデータから画像を合成し、バーミヤン洞窟天井壁画は3次元の復元となりました  中国ウィグル 自治区のキジル石窟壁画はナチスドイツが剥ぎ取って持ち去り、第2次世界大戦中空爆で一部が破壊されました。今回ドイツの研究書の写真から壁画の復元が行われました。 これがそキジル石窟航海者窟の壁画。現存するものと焼失したもの二つの壁画を復元し、現地に残された壁画を背景として再現されています。
 
 展示物の殆どは「さわれる文化財」です。 タジキスタンのペンジケント遺跡の壁画は赤土に漆喰を乗せた上に書かれており、保存が困難ですが、芸大チームの技術で保存が可能となりました。  世界三大仏教遺跡のひとつミャンマーのバガン遺跡の壁画。保存の為一般公開が難しいものでも、クローン技術があれば、皆が当時の文化に触れることができるのです 会場にはこんな遊び心も。左は自分の顔を仏像に映すインタラクティブコンテンツ。
右の2枚の写真は手前のポロンちゃん人形を動かすと右のような仏像や光背の画像が後ろのスクリーンの下から飛び出して天に昇って行きます。 
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鹿島神宮 
 
ずっと行きたかった常陸国一之宮 鹿島神宮。
ご祭神は武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)。建国の神さまです。
寛永11年徳川頼房公が家光公の病気平癒に際して奉納した楼門は日本三大楼門のひとつ 。重要文化財。 本殿は本殿、拝殿、石間、幣殿の4棟からなります。元和5年徳川秀忠公により寄進されました。重要文化財。 20万坪もある鹿島神宮の森は天然記念物に指定されています。800種以上の草木が繁茂。照葉樹林の北限でもあります。  
 奥参道の先にある奥宮。慶長10年家康公が本殿として奉納されたもの。元和の本殿造営の際にこちらに移された。 鹿島神宮の神様は地震を起こす大鯰の頭を抑えています。尻尾の部分は千葉香取神宮で抑えています。だから神無月に地震が!  頭頂部だけがわずかに露出している、大鯰を抑える「要石」は埋まっている部分が大きい。光圀公が掘らせたが掘りきれなかった。 鹿島神宮にしかない「帯占い」左の△から出ている紐を2本ずつ結び、右のように1つの輪になれば願い事が叶うのです。 
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菅谷館跡と県立嵐山(らんざん)史跡の資料館 
菅谷館は鎌倉時代に畠山重忠が居住した館。但し現在の郭や土塁等の遺構は戦国時代に確立したものと思われます。 上空からの菅谷館跡。1205年重忠がこの館から出陣したと「吾妻鏡」に記録がある。また山内扇谷両上杉の合戦があったのもこの付近。  三ノ郭には県立嵐山史跡の資料館があります。現在の企画展は「比企のタイムカプセル」。発掘調査でわかる比企郡周辺の遺跡の展示です。 二ノ郭への口に建つ畠山重忠像。近くの寺院跡から重忠の曽祖父秩父重綱の経筒が出土。古くから畠山氏の拠点であったことがわかります。  本郭は空堀と高い土塁によって守られ、さらに凸型に突き出た出枡形の土塁を築くことにより、敵の侵入を横からも攻撃して防御します
 小倉(おぐら)城跡
 小槻川が大きく蛇行する内側の丘陵に建てられ、川が天然の要害となっている難攻の城です 復元図。城主は、後北条氏の重臣遠山氏とする説と、松山城主上田氏とする説があります。築城は16c初頭 大福寺と言うお寺の横から、100mほどの高低差の山道を登ります。結構急峻な道で、20分ほどかかりました。  この年代の関東の山城としては珍しく、石垣が築かれています。現在も随所に野面積みの石積みが残っています 本郭跡は木を伐り、平らにして手入れされています。土塁の上には「小倉城址」の石碑が建っていました。 
 
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 杉山城址
杉山城は戦国時代の山城。およそ10の郭があり、高度な築城技術は「築城の教科書」と評価されています。 大手(出郭)跡。虎口(郭の出入り口)には侵入方向の横からも矢を射かける「横矢掛」が設置されていました。   南三の郭周囲の切岸(きりぎし)。斜面を人工的に削り、内側に杭や逆木を打ったりして敵の侵入を防ぎました 築城の記録は無く、H.14からの発掘調査により、15~16世紀前半、山内上杉氏の築城であることがわかりました。  出郭付近から東南方向。眼下には積善寺。その先市野川が天然の外濠のように城郭を囲んでいます。 
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榛名神社 
   
 延喜式(927年)に既にその名が記されている由緒ある榛名神社。神仏融合により天海僧正が復興、光明寺とも呼ばれたそうです 随神門。江戸後期建立。お寺の時代には仁王門であったと伝えらる。維新の廃仏毀釈政策により、仏教関連の名称は廃された。 本殿に向かうには山道を登ります。眼下に渓流が流れ、「鞍架け岩」(黒線で囲ったところ)のような奇岩もある素晴らしい景観です これは塩原太助が江戸に出る際に成功を祈願し、達成されたお礼に、文化5年(1808)他の崇拝者と共に奉納した玉垣だそうです。 こんな大きな岩がせり出している洞門も通りました。右下は哲雄先生です。 
     
 
左写真の三重塔は維新の時再建中で、取り壊されるはずでしたが明治2年に竣工しています。真中は「矢立杉」。武田信玄が矢を立てて祈願した巨木。右は「瓶子(みすず)の滝」両側の岩を瓶子に見立ててそう呼ばれます。樹木や滝のパワーみなぎる参道です。 安政2年竣工。左右の扉の表裏に龍の彫刻があることから「双竜門」と呼ばれます。天井の龍は高崎藩士矢島群芳の彫刻。  本殿。この左に拝殿と幣殿があります。文化3年竣工のもので国指定重要文化財。さらに左にある国祖殿と額殿も豪華です。  本殿背部に寄り添うように人型の奇岩があります。 この「御姿岩」の岩奥にご神体をお祀りしてあるそうです。
 
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 東松山市の古墳Ⅱ
 若宮八幡古墳・御嶽山古墳(下唐子古墳群)・富士浅間神社古墳(諏訪山古墳群)
 
この古墳も 円墳の頂上に若宮八幡神社が建っています。 6世紀末頃のものと推定される。明和の頃村民により発掘されたという記録あり 平成22,23年に調査が行われました。入れませんが、照明で中が見られます。   石室は加工した石を組んで積むなど当時の高い技術が窺われる貴重な古墳 
御嶽山古墳には鳥居。御嶽神社なのかな?   墳頂には祠などはなく、「御嶽大神」「三笠山大神」などと刻まれた石碑が。 地図に依れば富士浅間神社の鳥居の奥にも前方後円墳があるとのこと  未調査で詳細はわからない。伝承で前方後円墳と言われているとのこと
高坂古墳群:1号墳(高済寺)と高坂館跡 
 高済寺の境内にある古墳。これも伝承で前方後円墳と言われている これは加賀爪氏代々の墓で、県の指定史跡。この向うに館があったらしい  この一帯に高坂城が築かれていたと思われます。「城山稲荷」 もあるので。 高坂館跡。立札等はありませんが高済寺裏の地形は土塁と濠の跡にみえる

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将軍塚古墳・吉見百穴・安楽寺 
東松山市・将軍塚古墳
 
将軍塚古墳は、全長110m。埼玉では行田の古墳群に匹敵する大きさです 前方後円墳です。後円部には利仁神社、前方部には忠魂碑が建っています 未発掘で造成年代も不明ですが、2017年3月には早稲田大学の協力で地中レーダーによる調査が行われています。間もなく年代も明らかに なるでしょう 
 吉見町・吉見百穴(ひゃくあな)と埋蔵文化センター
江戸時代は「不思議な穴」明治期には横穴住居と思われていましたが、石蓋があるところから、墓であったと推測されます。 2,3の穴では「ヒカリゴケ」が生息しているのが見られます。↑ではわかりにくいですが、左上の白っぽい所です。蛍光を発しています。  埋蔵文化財センターには吉見町の遺跡からの出土品や、百穴調査についての文献などが展示されています。  明治20年代に坪井博士による発掘が行われ、玉類、土器等が発見されました7世紀、古墳時代後期のものと考えられています。 
安楽寺(吉見観音) 
 1300年前行基菩薩が巌窟に安置した観音像が始まり。山門・本堂・三重塔は県指定有形文化財です。 山門前の石段の下からまっすぐに のびた参道は、安楽寺の門前町を彷彿させます。 天文年間、松山城陥落の際に焼失した伽藍群や三重塔は寛文元年(1673)に再建されました。  建物は江戸時代前期の様式です。本堂の欄間には、伝左甚五郎作「野荒しの虎」の彫刻があります。
 
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 上毛野はにわの里公園
上毛野はにわの里公園にある、かみつけの里博物館には榛名山麓周辺の遺跡や出土した埴輪が展示されています 公園内には伊渡田古墳群があります。ここには上の地図に示したように古墳時代の遺跡が沢山あります。 はにわ棺のレプリカ。円筒埴輪を二つ組み合わせた棺。骨になってから入れたのか?子供の埋葬に使用したのか?  これは6世紀後半の遺跡から、石を使った小さな墓のレプリカ。 
かなり大きな集落を形成していたと思われるこの地域は榛名山の噴火で火砕流に襲われ、移動を余儀なくされました。上越新幹線の工事の時に発掘が行われ、↑の八幡塚古墳等が復元されました。 八幡塚古墳の発掘調査で埴輪の置かれていた位置から、王を中心とした儀式の様子がわかります。冠を被った王が巫女から盃を受け、周囲に兵隊、後方には猟師や力士、馬の埴輪が並んでいます 墳丘長102m、後円部の径は56m。大きな前方後円墳です。後円部から前方墳部を眺めたところです。
☆上毛野(かみつけの)とは上野(こうずけ)の古称だそうです。
八幡塚古墳のお隣にある二子山古墳。墳丘長108m、高さ10mの前方後円墳です。周囲に濠があり、やはり、鳥、家などをかたどった埴輪が多数出土しています。 
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 横須賀軍港クルーズ
米軍と自衛隊の基地のある横須賀の港には軍艦がいっぱい。「シーフレンド7」に乗って、軍港めぐりをしました。
ガイドさんの説明は分り易くて面白くて、軍艦のことを何も知らない私にもとても楽しいクルーズでした。
先ず目に入ったのは潜水艦。これは「そうりゅう型」。X舵の上部が見えます。 もう一隻横方向から見えた潜水艦は十字舵なので「おやしお型」2隻見られてラッキー!  艦番号4003は輸送艦「くにさき」。船尾のハッチが開いていました。水陸両用戦車出入り用かな。  これは91番迎賓艇「はしだて」白いスマートな船艇の内部は豪華なインテリアで「海上の迎賓館」だそうです 名前だけは良く聞くイージス艦。前後方4面に貼りつけられた八角形のレーダー が360°カバーしています。
この日は私達が乗船したころから晴れ始めて、千葉まで見えました。これは中国COSCO社の貨物船  沿岸の大きな建造物。上は住友重工。船も造ります。下は日産の工場 手前に沢山自動車が並んでいます 日産工場のお隣にあるこの宮殿のような建物は?ごみ焼却場なのだそうです。日本一美しいごみ処理場。 艦番号483敷設艦「むろと」は海中ケーブルの敷設を行う艦船。海洋調査に関る機器も搭載しているそうです  艦番号も名前もない、引退したばかりの木造船は機雷を処理する掃海艇です。機雷処理は鉄船にはできないのです。 
後継ぎの掃海艇は艦番号304「あわじ」。大型の木造船造船技術者の高齢化で今は強化プラスチック製 艦番号463掃海母艦「うらが」 。機雷敷設機能を持っていて、目的地点に向かって機雷を発射します。 艦番号4304多用途支援艦「えんしゅう」。各種救助、消火などに使われ、災害派遣 で活躍しています。 艦番号152・153「やまぎり」「ゆうぎり」は同型船。「姉妹艦」と呼ばれます。護衛艦で正面に大砲が見えます。  艦番号423「ときわ」は補給艦。無数の黒いホースは、海上で他鑑に給油を行うための給油管です。 
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横濱と開港記念会館  
   
 
江戸検仲間の仲良しさんと、横浜に出かけました。「弁天橋」は 明治4年、横浜港と東海道を結ぶ近道として架けられました。橋柱にヨットの帆が付いています。 以前にもご紹介した歯の博物館 は神奈川県歯科医師会館の中にあり、予約をすれば誰でも見学できます。江戸検のお友達の質問にはたじたじ・・。 馬車道通りの「ル・サロン・ド・レギューム」という、小さいけれどちょいとしゃれたお店で食事。  \1500で、平日限定のコースランチが食べられます。野菜をたっぷり使った料理です。 
この後他の施設も見学することにしました。
開港記念会館。商工会議所発祥の地です
   
ボランティアさんにガイドして頂きました。この建物は大正2年に作られ、関東大震災では内部は被害を受けたものの、外壁と時計塔は壊れなかったそうです。時計塔は「ジャックの塔」と呼ばれます。他にキング(県庁)とクイーン(横浜税関)があります。  美しいステンドグラスは関東大震災で壊れましたが、設計図も、技術者もまだ健在だったために、昭和2年再建の時に同じものを作ることが出来ました。右は駕籠で街道を行く外国人、左は水路をゆく人々。猿まわしの姿も。  日米修好通商条約締結後、横浜開港に伴い、横浜村名主石川徳右衛門が町用にあたり、運上所脇のこの地に町会所(商工会議所)を作りました。ここで生まれたのが後の岡倉天心。だから「岡倉天心誕生の地」でもあります。 縦3m横1.5mの大きなステンドグラスはペリー来航の図。蒸気船には星条旗が翻っています。戦時中、誰かが布を掛けて隠していた為に、星条旗を理由に破壊されることを免れたのです。戦後接収した進駐軍の兵士も驚いたそうです。 鉄板の入った外壁構造がエレベーター設置時に明らかになりました。
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 埼玉県の三偉人
 埼玉県の偉人といえば、塙保己一・渋沢栄一・荻野吟子です。 
 塙保己一 
現在の本庄市児玉郡保木野村に生まれた保己一。7歳で失明し、15歳で江戸に出て雨富検校に弟子入りし、修業をしながら、萩原宗固、賀茂真淵らに国学を学びました。 34歳の時、古書の散逸を防ぐ為「群書類従」の編纂を決意。「群書類従」は神祇・律令・和歌・遊戯・飲食・合戦等25部からなる正編666冊の大叢書(資料集)。完成に40年以上かかりました。 48歳の時、麹町に和学の研究、教育機関である「和学講談所」を設立。多くの学者を育て、「群書類従」を完成させました。幕府の援助を受け、また、幕府の依頼で国学の調査も行いました。 群書類従編纂成就を祈願して「般若心経」を百万回唱える誓いを立てました。上の写真左はその記録帳。右は保己一が大事にしていた天神様の像です。 灯火が消えて戸惑う弟子に「目明きは不自由なもの」と語った逸話は有名です。 
 渋沢栄一 
 
渋沢栄一は現在の深谷市 血洗島の農家に生まれました。いとこの尾高淳忠から論語などを学ぶとともに攘夷思想に走り、その後波乱万丈の人生をおくります。 栄一の業績はとてもここには書ききれません。実業家として数々の民間事業の設立に関りましたが、経営が軌道に乗るとトップの座を降りるのが常でした。 実家の藍玉取引や、徳川昭武公子に随行して暮らしたフランスで、商売の感覚を養った栄一。明治20年にはドイツから技術者を招き煉瓦製造所を設立しました  従来から瓦の生産が盛んで、利根川の水運に恵まれたこの地で東京駅や富岡製糸場の煉瓦が焼かれました。今も残るホフマン6号窯は祝祭日に見学できます  明治39年蒸気から電動に切り替えられました。↑は変電室 
 荻野吟子 
 
日本最初の女医荻野吟子は武州俵瀬村(現在の熊谷市)で生まれ、18歳で結婚しましたが2年後夫から病気を移され離婚。医者になる決心をします。 女子師範学校を卒業後、私立医学校好寿院で学び優秀な成績で卒業しましたが、女子には医術開業試験の受験資格がありませんでした。  そこで!塙保己一の出番です。「前例がないから」とする内務省に群書類従「令義解」に「女醫」の記述があることを訴えて受験し、見事女医第一号となったのです  35歳の吟子は本郷三組町に「産婦人科荻野医院」を開業。翌年キリスト教の洗礼を受けます。キリスト教婦人会で参政権や衛生普及の活動を行いました。  吟子がモデルの舞台「命燃えて」で主演三田佳子が着た衣装