続・江戸文化歴史検定
 
目次 
2017.7.2 乙未の会 品川散歩 
2017.6.18 ”発掘された日本列島2017”から
2017.6.8 横須賀ヴェルニー記念館とヴェルニー公園
2017.6.4 お台場と品川散歩 
2017.5.3 小千谷慈眼寺と河井継之助  
2017.4.13 これぞ暁斎!ゴールドマンコレクション 
2017.3.26 乙未の会 お花見散歩 
2017.3.20  江戸楽アカデミー  
2017.3.5  江戸楽アカデミー  
2017.2.23 乙未の会 歌舞伎鑑賞会 
2017.2.11 徳川将軍家の婚礼 
2017.1.22 乙未の会 新年会 
2016.12.25 第11回江戸文化歴史検定一級合格祝賀会  
2016.11.27 乙未の会+2 草加散歩 
2016.11.13 乙未の会 佐原散歩 
2016.10.23 日本の自然を世界に開いたシーボルト 
2016.10.6 よみがえれ!シーボルトの日本博物館 
2016.9.25 乙未の会 江戸城登城 
2016.8.21 江戸楽アカデミー 
2016.8141 河鍋暁斎の動物たち・中山道蕨宿
2016.8.7 宇宙と芸術展:うつろ船
2016.7.24 大妖怪展  
2016.7.3 静嘉堂文庫美術館
2016.6.12 河鍋暁斎記念美術館
2016.5.1 乙未の会発足
2016.4.29 若冲展
2016.4.17 久しぶりの江戸楽アカデミーと国立公文書館 
2016.4.10 適塾 
2016.3.21 「勝川春章と肉筆美人画」展
2016.2.28 江戸検10周年感謝の集い
2016.2.13 「歴史をつなぐ天璋院の用箪笥」
2016.1.24 「渋川春海と江戸時代の天文学者たち」展 
新たな目標 
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乙未の会 品川散歩 2017.7.2  
   
  品川歴史散策問題

慶安4年7月宝蔵院流槍術の名手丸橋忠弥は密告により捕縛され、鈴ヶ森初の磔刑(実際はもう死後)に処せられました。
さて、この丸橋忠弥を奉行所はどのような方法で捕縛したでしょう?

い)与力同心のうち槍の名手を先頭に踏み込んで捕縛した。

ろ)与力同心のうち小太刀の名手を先頭に踏み込んで捕縛した

は)密告した弟子に槍を隠すよう指示し、その後踏み込んで捕縛した。

に)「火事だ火事だ」と捕り手に叫ばせ、本人が無防備に出て来たところで捕縛した。

(ガイド役のお仲間が皆に配ったテストです)
 京急大森海岸駅集合。この日は山手線・京浜東北線がストップして集合が遅れました。女性陣は一緒にランチしたので早めに到着して男性陣を待ちました。 先ずは鈴ヶ森処刑場跡へ。髭文字の南無妙法蓮華経の石碑と、右は磔台の礎石。最初の処刑者は慶安の変で捕えられた丸橋忠弥でした。  次に向かったのはモース博士で有名な大森貝塚。この石碑は京浜東北線からよく見えます。考古学も学べる「貝塚公園」になっています。  それから品川歴史資料館へ。 品川宿の資料が充実しており、床には東海道沿いの両側の店名、横には模型があって、旅人気分で歩きます。
 
 上は北品川宿にあった本陣の模型、下は徒歩新宿の土蔵相模の模型。相模屋は旅籠というよりむしろ妓楼で、客は引き手茶屋から相模に上がった。 この後、土佐藩屋敷跡の坂本竜馬像などを見る予定でしたが、佐幕派で伊達贔屓のM女史の不思議な力で、何故か伊達味噌屋敷跡と仙台坂に。  青物横丁から新馬場へ。荏原神社では茅の輪くぐりを。この後寄木神社本陣跡御殿山下台場利田神社土蔵相模跡に行き、青物横丁でめでたく宴会 寄木神社の本殿の扉には名人伊豆の長八のこて絵(漆喰細工)。左は天鈿女命、右は猿田彦。これはパンフの写真ですが、本殿のガラス越しに拝観できます。 
 
 
江戸博企画展”発掘された日本列島2017” から 
 「発掘された日本列島2017」は考古学の最近の動向と、近年発掘された遺跡や出土品の展示を主としていますが、その中には水中遺跡の発掘も含まれています。幕末、箱館戦争の折に江差沖で座礁沈没した「開陽丸」の遺物品が展示されていました。
新発見考古速報、東日本大震災の復興と文化財保護、発掘された水中遺跡 などがテーマ。 幕府がオランダヒップス造船所に発注して製造された開陽丸は最大級の木造軍艦として活躍する筈でした 榎本武揚はオランダで開陽丸の建造を見守りつつ、西洋式の砲術や国際法、船舶について学びました。  ピストルや日本刀ばかりではなく、食器類や生活用品なども発掘されました。海軍生活の一端を示します  砲弾と右に見えるのは火薬入れ。新政府軍は主戦力となる開陽丸の沈没を知って攻撃を開始しました 
”速報”四谷一丁目遺跡~麹生産に見る江戸・東京~ という展示もされていました。
     
JR四ツ谷駅そばの外堀沿いの遺跡。 今回、旧塩町1丁目と麹町1・2丁目が調査されました。 元禄5年塩町の人別書き上げに味噌渡世を生業とする地主があり、江戸初期から四谷で糀造りが行われていたことがわかります 発掘された曲物容器の蓋には「カツホのたたき(塩辛のこと)」「志ゆんけいミそ」「醤(ひしお)」などと墨書されています。 この図は神田明神参道の甘酒屋「天野屋」に貼ってあるのでお分かりでしょう。現在も残る糀室です。   今回の調査では3町屋敷から合わせて100もの糀室が発掘されました。隣り合った室が重ならないような形になっています。
 
横須賀ヴェルニー記念館とヴェルニー公園 2017.6.8
 幕臣で、外国奉行、海軍奉行並、軍艦奉行、勘定奉行等を歴任し、通貨交換比率是正の為ポウハタン号で渡米経験もある小栗上野介。彼も海防の必要性を説き、開国後は日本も自国で軍艦の建造ができなければならない、と、フランスと交渉しフランス海軍の若き技術者ヴェルニーと力を合わせ、横須賀に造船所(=製鉄所)設立を図ります。完成する前に幕府は瓦解し、造船所は明治政府の手に渡りますが、後の日本海軍の興隆はこの造船所あってのこと。また、関東各地の多くの主要な建物はここ横須賀で精錬された鉄が使われ、以後の日本の発展におおいに貢献しました。
 ヴェルニー記念館は仏ブルターニュ地方の建築様式。二人の業績や育てた人物の他、明治期に活躍したスチームハンマーの展示もありますがHPアップはNGだそうです。 左が小栗上野介忠順、右がフランソワ・ヴェルニー。言葉も習慣も異なる日仏の技術者がスムーズに作業を進められるよう、勤務体制や給与等、様々な試みが行われました。  小栗は徳川幕府瓦解後、自分の領地である上野権田村(群馬県)に越して静かな余生を過ごす筈でしたが、新政府軍に捕縛され惨殺されました。その現場の石がありました。  この後横須賀軍港めぐりの船に乗りました。小栗、ヴェルニーが築いたドライドック跡は何も残っていませんが、明治期の地図と見比べるとおそらくこの辺りのはず。  ヴェルニー公園は、彼の母国フランスの庭園をイメージして作られています。噴水や欧風のあずまや(ガゼボ)が置かれており、この季節は色とりどりのバラが美しく咲いています。 
   
 明治21年浦賀や横須賀~鎌倉を訪れた正岡子規が残した「横須賀や只帆檣の冬木立」の句碑 左上:海軍の碑、
右上:軍艦長門碑、
左下:軍艦山城之碑、
右下:軍艦沖島之碑 
戦艦陸奥の主砲。全長18,1m、重さ102t。今年の3月に設置されたばかり。 逸見(へみ)波止場衛門は、旧横須賀軍港逸見門の衛兵詰所。明治末か大正初期の建築物  横須賀名物は「海軍カレー」。JR横須賀駅ではカモメの 「スカレー」君がカレーをささげ持っていました。
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お台場と品川散歩 2017.6.4
今に残る台場と台場跡 
ペリー来航後、海防政策を迫られた幕府は江戸湾の警備の為、品川沖に砲台場設置をを計画しました。
当初12基計画された台場は、翌年、思いがけず早くペリー再来し、6基のみが作られました。
今残っている台場は第3.第6台場のみ。今回は第3台場を歩き、第4台場跡と御殿山下台場跡に行きました。
 日の出桟橋から水上バス「ホタルナ」でお台場に向かいました。 第6台場は上陸不可。水上バス/レインボーブリッジからしか見られません 第3台場は台場公園として整備され、歩いて渡ることができます。  建設当時とは大分様子が違うようですが、周囲の石垣はそのままです  第3台場全容。周囲の土手から昆虫採集の少年と中央の凹を見たところ
陣屋の柱の礎石が残っています。砲台とかまどは最近のもの。  火薬庫跡。これは江戸時代のものだと思います。  この日は品川の3神社のお祭、お台場では海中渡御が行われました。  第4台場は天王洲アイルのシーフォートスクエアの先端辺りにありました。  御殿山下台場にはその後品川灯台が出来ました。台場小学校に、その模型と説明板があります
品川宿散策 
利田神社→寄木神社→荏原神社→品川神社→品川宿本陣跡→一心寺→法禅寺→善福寺→土蔵相模跡
利田(かがた)神社は、江戸時代には「州崎弁天」とも言われ、浮世絵や絵草子にも登場します。 1798年品川沖で大鯨が捕獲されました。評判となり、将軍にも上覧されました。↑骨を集めた塚  寄木神社。本殿蔵扉には有名な「伊豆の長八」のこて絵があります。ガラス越しに拝観。 荏原神社。先ほど見た海中渡御は荏原神社の神輿。正面にご神面がついた立派なものでした。 品川・荏原・寄木のうち最も古い荏原神社。社殿の彫刻も見事です。 
 品川神社は階段の上。大祭中、お神楽が奉納され、参道には色々な露店が並びます。 品川神社には富士塚があります。↑は2合目辺りにある食行弥勒の洞窟  この日は品川神社、荏原神社、寄木神社の大祭で、山車も。旧東海道は大変な人出でした。  品川宿の本陣は北品川にありました。現在は「聖跡公園」 となり、標識があるばかりです。 一心寺は安政2年、井伊直弼が建てたお寺。日本の和平を願ってのことでしょう。 
 法禅寺門前には区内最古の品川小学校跡の碑。また、鎌倉~戦国時代にかけての板碑や宝塔が残されています 鎌倉時代後期に開かれた善福寺は時宗のお寺。ここにも伊豆の長八のこて絵が残されています。 こて絵は右壁面の龍のこて絵と左壁面のこて絵(上の写真)ですが、長い間の風雪や地震で崩れて絵が分らなくなっています。  品川の宿場、特に歩行(かち)新宿と言われる辺りは女郎を置く旅籠で賑わっていました。「土蔵相模」跡はコンビニのお隣 なまこ壁があったことで「土蔵相模」と呼ばれた相模屋は東禅寺(英大使館)焼き討ちを図った浪士たちが直前に集まったところ
 
 小千谷慈眼寺と河井継之助 2017.5.3
北越戊辰戦争で主な戦地となったのは会津と長岡。あくまで中立であろうとした長岡藩ですが交渉は決裂。奥州連合軍に加わり、新政府軍を苦しめます。 長岡藩家老河井継之助は藩主からの親書を携え、小千谷慈眼寺で新政府軍側と会談を行いました。慈眼寺は2004年の中越地震で大きな被害を受けたお寺。 地震後、ご住職は再建を断念しようかと思ったそうですが、各地からの支援で本堂を修復。河井と土佐藩士岩村軍艦の「小千谷談判」が行われた部屋も復元。  41歳の河井は落ち着いた態度で会談に臨んだが、若い岩村は河井の話に耳を貸さず嘆願書も読まず、宣戦を布告するのみだったといいます。
チケットにはガトリング砲の写真 
下は継之助「民者国之本吏者民之雇」の書
河井継之助の甥根岸錬次郎の会見記録が残っています。談判決裂後の戦闘で、一度は新政府軍に奪われた長岡城を取り戻します 河井継之助の指揮下、長岡藩士は果敢に戦いますが、新発田藩の寝返りで他藩の援軍も得られず、数日後再び陥落しました。  長岡駅の近く、河井継之助の住居跡にたてられた「河井継之助記念館」。使用した軍扇、直筆の書簡などが展示されています
長岡の町の東側、蒼紫(あおし)神社のある悠久山公園に長岡市郷土資料館があります。  公園内の「河井継之助の碑」。継之助は戦闘中被弾し、長岡城陥落後会津に向かう途中、傷が悪化して 只見で死亡します。 蒼紫神社には長岡藩主牧野家代々の霊廟があります。もとは長岡城の東端に3代忠辰を祀った神社。後にここに移転しました。 長岡城は現在のJR長岡駅周辺にありましたが、悠久山に郷土資料館を建設する際、お城を偲ぶためにこの形にしたそうです。 
   
 山本帯刀は河井継之助を援けて勇敢に戦った軍総督。壮絶な戦いの末捕縛され、24歳の生涯を終えました。山本五十六はこの山本家の養嫡子です。 左は継之助の揮毫。「一忍可以支百勇一静可以百動」は北宋の文人の言。右は継之助の号「蒼龍」の印と本人が使用していたという提灯  「長岡まつり」で使ったガトリング砲が展示されていました。継之助は、有事に備え、早い時期からアームストロング砲やガトリング砲を購入していました。   実際の長岡城は平城で天守閣は無く、「お三階」という建物がシンボルだったそうです。資料館の天守からは長岡の町と、その先に弥彦山が見えます
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これぞ暁斎!ゴールドマンコレクション 2017.4.13
 
4月16日までの展示。チケットを買ったのを忘れていて慌てて行きました。 序章・暁斎との出会い。「象とたぬき」。この絵がきっかけで暁斎のコレクションを始めたゴールドマン。  「烏瓜に二羽の烏」暁斎のカラスはあまりに有名。 躍動する命・動物たちの世界
「動物の曲芸」では猫、鼠、蝙蝠などの動物が綱渡りや梯子乗りといった曲芸を披露している
百鬼繚乱・「地獄太夫と一休」地獄模様の打掛の遊女と骸骨達と踊る一休 
     
 
 
 
上は「名鏡倭魂新版」鏡の光が悪魔外道を追い払う絵なのですが、左端には暁斎の知人の英国人が! 
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そして下は百鬼夜行図屏風」彼独特のユーモラスな妖怪たち。六曲一双の大きな作品
 仏と神仙、先人への尊崇・「達磨」仏画も数多く描いています。これは弟子J.コンドルが所有していた作品 ↑の「鍾馗と鬼」は正統派の鍾馗ですが、 「戯れる・福と笑いをもたらす守り神」のコーナーには、思わず吹き出してしまうような戯画が 東急文化村は若者にも人気ですが平日の昼間はデパート時代を知る中高年で混んでいます 
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 乙未の会 お花見散歩 2017.3.26
   
あいにくの小雨の中、江戸川橋駅集合。神田川沿いに江戸橋公園を歩き、神田上水の跡を見学するコース。椿山荘や関口芭蕉庵なども目的の一つ。 「神田上水は日本最古の都市水道です。・・・・」と書かれた標識 は交差点の隅にひっそり。字がかすれてあとは読めません。 左は、かつて度々洪水を起こしていた江戸川(神田川)の治水をした大井玄洞の銅像。右は「みなもと118.6キロすみだがわ16.0キロ」の標識 神田川のこの辺りは見事な桜並木です。お花見の予定が、今年は寒くてまだ殆ど桜が咲いていませんでした。お蔭でどこも空いていました。 
神田上水は関口大洗堰で水位を上げて水戸上屋敷方面へ。大洗堰の取水口にあった、流量調節のための石柱が一部復元されています。周辺の石垣はその時の石です。  椿山荘庭園散策。ここは久留里藩黒田氏の下屋敷を明治11年山縣有朋が購入して作った庭園。その後藤田財閥が譲り受け、戦後はホテルに。現在はフォーシーズンズH椿山荘。 園内には広島県の円通閣から移築した三重塔、鎌倉時代の石灯籠や石塔、手水石、八福神など見どころが沢山。椿を初め花も多い。美しく咲いていたケイオウ桜の横で記念写真  なんと、ここの庭園には、京都石峯寺にあったはずの、若冲デザインの五百羅漢が20体ほど置かれていました。若冲ファンの院長興奮、若冲大ファンのA氏大興奮! 
椿山荘に隣接する関口芭蕉庵。松尾芭蕉が江戸川の治水工事に関った際に住んだ水番屋「龍隠庵」跡に芭蕉や弟子たちの像を祭る芭蕉堂が建てられました。 芭蕉の33回忌に建てられた建物や庭園は戦災で焼失し、戦後再建されました。園内には芭蕉堂や「五月雨にかくれぬものや瀬田の橋」の短冊を埋めた「さみだれ塚」等があります。 目白台周辺およそ3万坪は熊本の細川様の下屋敷でした。ここ「松聲閣」は細川家の学問所として使われていた建物だそうです。お抹茶を頂けるカフェがあり、庭や御座敷を見学できます。  夜は信州出身のリーダーT氏のお世話で信州料理の居酒屋で宴会。イナゴも「こねつけ」というおにぎりも美味!気の合う仲間との散策は雨でも咲いていない桜のお花見でも楽しかった。 
 
 江戸楽アカデミー 2017.3.20 
  ○松下家歴代当主とその家族のエピソード
○「伊賀者」というのはいわば役職名であること、どんな職種・身分なのか?
○松下家の家格は最初は無羽織袴の足軽格、職種は明屋敷番など
○地方(ジカタ)伊賀者・無地方伊賀者
○羽織袴の役職に出世して松下家の家格を高めた5代目菊蔵
○幕末の松下家に英ビクトリア女王から何とメダル授与されていた!
今日のタイトルは「伊賀者の江戸時代」。ナニナニ?と思いますよね。お馴染み高尾善希先生の講座です。 高尾先生のワンコイン講座の生徒さんに伊賀者の末裔の方がいらして、古文書資料の提供があり、右のような著書の執筆をなさったそうです。  もと伊賀者(≠伊賀出身)松下家の系譜や職務等の記録から江戸時代が見えてくる 何と偶然!松下家周辺は最近発掘調査が行われたところ。ここは数年前「四谷歩き」で訪れた須賀神社や戒行寺の近くです。 
 
 江戸楽アカデミー2017.3.5
御三家尾張徳川家の幕末維新
高須松平家4兄弟。父松平義建公の17回忌に撮影された有名な写真.。左から定敬氏(33)容保氏(44)茂徳氏(48)慶勝氏(55)
8男松平定敬氏は桑名松平家13代藩主。一会桑の「桑」です。箱舘まで行って戦ったが死罪一等を免ぜられた。
7男会津容保公。固辞していた京都守護職を引き受け、「朝敵」と呼ばれ・・。慶勝のとりなしで死罪を免ぜられた。
5男徳川茂徳(後に茂栄)氏は高須松平家11代、尾張徳川家15代、一ツ橋徳川家10代藩主と変遷。
2男徳川慶勝氏は尾張14・17代藩主。戊辰戦争では新政府軍につき、弟たちの助命を。
今日の講師は徳川美術館学芸員の原史彦先生。
「尾張徳川家の幕末維新」ですが サブタイトルは「知られざる尾張徳川のお家事情」。いろんな文献から面白い裏事情を教えていただきました。
御三家筆頭のはずの尾張からは将軍が一人も出ていません。 4代藩主までは順調だったのに以後早世の藩主が続き、それでも9代目までは一族からの養子でしたが、その後は一ツ橋、田安からの養子藩主が続きます。7代宗春公はご存知の通り8代将軍吉宗公の政策に逆らって贅沢しすぎて、隠居、謹慎を命じられますが、8代、9代の藩主は財政立て直しを行います。9代宗睦公は後継ぎも作るのですが、不運なことにみな若死に。親戚からの養子も10歳以下で亡くなってしまう。止む無く11代将軍家斉公の親戚筋から養子を頂くようになり、尾張徳川家は一ツ橋家、田安家の血筋で占められていきます。   
ところでいくつか裏話を紹介しますと、
○宗春公は徳川本家に睨まれて隠居謹慎を命じられたと言われていますが、実情は尾張の家臣たちが増大する借金にこまって、幕府に願い出たものだそうです。
○10代斉朝は子だくさんの家斉公の甥なのですが、女性嫌い。無理にナントカしようとした側室に怒って暴れたとか。 
○11代斉温は大のハト好きで数百羽も鳩を飼っていたが家臣に言われて放鳥しました。この方は少々軟弱で水練の時にお湯を入れさせたそうです。
○なぜ尾張の分家からの養子を摂らなかったか?それは将軍家とのつながりがあることで、悪化した藩の財政を少しでも回復させたかったから。(現に近江の豊かな商業地域を拝領することができました)
○付家老の画策。尾張徳川家に対する忠誠心も薄れ、財政困難を乗り切れるかが不安になった付家老たちの造反。犬山城主の成瀬氏と美濃今尾の竹腰氏は文化13年単独で登城します。他家の付家老が単独の登城を許されるばかりか、老中に抜擢されているのを羨んだのでしょうか。不穏な動きを察した幕府は宗春の謹慎を解き、尾張徳川の内紛を防ごうとしました。
 
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 乙未の会 歌舞伎鑑賞会 2017.2.23
  
二月大歌舞伎は、故勘三郎の孫2人の初舞台とあって大人気。 初午の恒例「地口行燈」が飾られています。 
乙未きっての歌舞伎通「滅紫(けしむらさき)さんが企画して切符を確保して下さいました。彼女は中央区観光協会の特派員ブロガーです。今回の歌舞伎についても「『四千両小判梅葉』と小伝馬町牢屋敷」(平成29年2月28日版)というタイトルのブログをアップしていらっしゃいます。 お昼は二回目の幕間。
3階「花籠」の幕の内弁当。 
実は私は急な用事で今回の乙未イベントに不参加。代わりに昨年の合格者Yさんに歌舞伎座に行っていただきました。以下は彼女の歌舞伎レポです。
 歌舞伎座で「猿若祭二月大歌舞伎」昼の部を観てきました。
 演目の最初は「猿若江戸の初櫓」。猿若勘三郎が幕府の許しを得て江戸の中橋に猿若座(のちの中村座)を建てるまでのお話です。猿若祭にふさわしい、おめでたい作品。
 次は「大商蛭子島」。「おおあきないひるがこじま」と読みます。主人公は源頼朝です。蛭子島は源頼朝の伊豆での流刑地ということになっていますが、本当にそんな場所があったのかは不明。で、頼朝ですが、名前を隠して流刑地で手習いの師匠(寺子屋の先生)をしてる設定で、なぜか弟子はきれいな女の子ばっかり。お師匠様の頼朝は根っからの女好きでおさわりしまくりで習字を教えてる!格好もぜんぜん武士らしくない遊び人風でチャラチャラしてます。そんなこんなで()実は源氏の棟梁頼朝と名乗り、いざ平家を討つぞおー!おおうーと終わりは勇ましい、といういかにも天明期の何も考えずにとにかく楽しめばいい作品でした。そんなバカな、とか言ってはいけない。その「バカ」を楽しむのですね。
 その次は河竹黙阿弥「四千両小判梅葉」。明治18年初演の実録もの。安政2年(1855年)に江戸城の御金蔵から四千両盗まれた実際の事件を芝居化してます。盗みそのものより、伝馬町牢屋場面がメイン。ここがかなりダーティーなムードで東映ヤクザ映画を観てるようです。牢屋ってこんな風に点呼されるのね!歌舞伎なのにきれいな女方が全然出てこないよ~!・・・
と若干重苦しい気分なところへ、最後は踊り「扇獅子」で華やかに終わりました。ホッ。

本当に楽しい歌舞伎座体験でした!

 
徳川将軍家の婚礼 2017.2.11
    
江戸東京博物館の企画展示「徳川将軍家の婚礼」に行きました。展示終了1週間前でした。  1.婚礼の行列、
2.婚礼の格式ー皇女和宮の婚礼道具
3.婚礼と粧いー篤姫の婚礼化粧道具 
皇女和宮の紋である葉菊紋が金泥で描かれている黒塗桜蝶唐草蒔絵貝桶  村梨地葵葉菊紋散花桐唐草蒔絵の湯桶と手洗
 篤姫のお道具も立派でしたが、和宮さまの婚礼道具の豪華さには目を見張りました。幕末、もう決して財政が豊かではなかった
徳川幕府が、これだけの支度金を出し、また、中山道を何kmもの婚礼行列を仕立て、警備や宿泊に巨額の経費を継ぎこんだと
いうことからも、「公武合体」に徳川のピンチを救う道を見出そうとしていたことがわかります。

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 乙未の会 新年会は両国で2017.1.22
 新しく開館した「すみだ北斎美術館」に集合。こんなモダンな建物なんですね。  関東大震災で焼けてしまったものを白黒写真から復元したという、北斎の大絵馬「須佐之男命厄病退治之図」  常設展示室は狭く、観たことのある浮世絵も多いのですが、貴重な肉筆画も置いてあり、わかりやすい展示 でした ロビーは明るくて広い。でも人気のある企画展示のある時は大混雑らしいです。  
  それから両国周辺を散策しました。以前に歩いた時にはなかった立札がいっぱい  野美宿禰神社や、忠臣蔵ゆかりの史跡吉良邸跡なども歩きました。  以前は勝海舟の碑だけだった両国公園もすっかり様変わりし、幕末の展示が沢山!   そして、「江戸沢」でまた、わいわいと江戸のおしゃべりをしながらちゃんこを頂きました 
 
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第11回江戸文化歴史検定一級獏塾生合格祝賀会2016.12.25
バクさん(ブログ「気ままに江戸♪」)のセミナーや江戸歩きに参加し、江戸検一級を目指している、
「獏塾」塾生の合格祝い兼慰労会、来年頑張ろう会が開かれました。 
平成28年12月25日
新橋で行われた合格祝賀会兼慰労会に出席しました。SLの運転席にはサンタさん。
「さくら水産」はすごくリーゾナブルな居酒屋。おしゃべりに夢中であんまり食べなかった。  「一級合格宣言」をした門下生には、お守りと「必勝」の鉢巻をプレゼント、試験場入口には横断幕を掲げて応援!  今年の合格者は21人。獏塾からは11人が合格。それってすごくない?「江戸検の東進ハイスクール」です。
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 乙未の会+2 草加散歩2016.11.27
 
乙未の初代リーダー福本氏が地元草加市と共同で立ち上げた「江戸文化を楽しむ会」の企画で「美人の里草加・明和のアイドル笠森お仙」の講演をされるので、乙未の仲間が駆けつけました。  講演は午後から。折角なので午前中、草加宿の街歩きをすることにしました。リーダー轟氏が草加宿のガイドさんを手配、今年の合格者2名も加わって朝、草加駅に集合しました。 さて、日光街道を歩きます。道と店との境界線に注目。右側の店の玄関のラインは道と並行ではありません。街道をゆく旅人の方を向いているのです。  ガイドさんは幅広い知識を持っていて↑道標の説明中。「問屋場」ってわかりますか?今日の参加者は皆わかります。宿継をするところ。右は本陣跡の石標 
 
草加市歴史民俗資料館はもと小学校。草加市で初めての鉄筋コンクリ造りの小学校だそうです。  これは埼玉で出土した中で最大の丸木舟。完全な形で出土したのですが、風化が進んでしまった、残念。  この博物館の売り物の一つ、エジソン型スタンダード蓄音機。まだ音が出るのは珍しい。手回しで演奏を聴きました。  紅葉のおせん茶屋。草加せんべいの伝承上の創始者おせんに因んだ小さな広場。投句箱が設置してありました。 
 
東福寺は慶長11年創建の天台宗のお寺。山門は市の指定文化財。弘法大師の唐での修行の彫刻があります。  本堂内部欄間の彫刻も有名らしい。ここには「三鈷の松」があり、松葉を財布に入れておくと財をなすとか。  神明宮はもとはこの地域の名主の屋敷の邸内社だったそうです。正徳3年には草加の総鎮守となり、大変賑わったとのこと。  この神社の旧鳥居の台座に、前回乙未で行った江戸城で見たのと同じ「不」の刻印を見つけて、メンバー騒然
煎餅焼き体験。「志免屋」さんでできます。3秒に1回ひっくり返し、凸凹が出来てきたら丸いコテで平らにします。 ここはおせん公園。平たい石は煎餅、長い石は箸、右下の四角い石は焼き網を表わす「草加煎餅発祥の地」の碑  芭蕉は「奥の細道」で、「やっと草加に着いた」と書いています。千住を振り返る芭蕉の像と追う様に手を上げる曾良の像  草加は海抜が低く、水害に何度も見舞われました。放水路や田畑を守る為に作られた水路が沢山あります。
       
綾瀬川は放水路としてのみならず、流通の為の運河でもあります。階段状の河岸が復元されていました。 草加宿を過ぎると松並木。「日本の道100選」にも選ばれた美しい遊歩道を綾瀬川を眺めながら歩きました 「奥の細道」冒頭の「月日は百代の過客にして・・」に因んで「百代橋」と名付けられた歩道橋。左下はこの文章の石碑  本日の本来の目的「美人の里草加・・笠森お仙」の講演は松原団地駅前の中央図書館で行われました。講演の模様や展示物は撮影不可です。 
 
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乙未の会・佐原散歩 2016.11.13
昨年合格者の集い「乙未の会」のメンバーで佐原に出かけました。佐原の駅はとても風情があります。東京近辺組は高速バス、千葉県組は成田線で。  駅から5分ほど歩いた諏訪公園に伊能忠敬の銅像があります。脇に立っているのは杖先方位盤(方位磁石)。磁石部分は杖が傾いても水平を保つ構造です。  良いお天気。小野川沿いを歩き、観光案内所へ。さすが江戸好きのお仲間は、半被を着て算盤を持つと、もうすっかり江戸人です。  私のガイドは中途半端で間が持たない。でも、みんなと沢山おしゃべりをして、さらに交流が深まりました。小野川と佐原宿の説明板の横で記念撮影。 
     
 
この山は何か?お仲間が聞きに行ってくれました。参拝客持ち帰り用のお浄めの塩なのだそうです 
 
この石は地震を起こすナマズを抑え込んでいる「要石」。 
佐原で一番人気のお店「山田うなぎ」でうなぎを食べました。席の他に注文も予約しておいたのですが、入店して鰻が出るまで50分という本格ぶり。お蔭で話が弾みました。  伊能忠敬の旧宅と、伊能忠敬記念館へ。記念館では時間が無くなってきて、測量や天文に興味を持つお仲間は次の香取神宮をパスして展示の見学を続行。柔軟性があるでしょ?私達。  バスで香取神宮へ。境内を歩いていたら、自衛艦「かとり」の碇が展示してありました。なんとお仲間の一人はもと海自。「かとり」で世界一周をしたとのこと!
 
国立科学博物館企画展示「日本の自然を世界に開いたシーボルト」展 
  
 
シーボルトの 交友関係の図。妻のお滝さんや、塾の弟子高野長英や岡研介、伊能図事件の高橋景保は勿論、岩崎灌園、宇田川榕庵ら植物学者とも親しく交流していたことがわかります。
    
 
上野の国立科学博物館で行われている、「日本の自然を世界に開いたシーボルト」という企画展に行きました。シーボルトは日本の動植物、鉱物もひろく蒐集し、ヨーロッパに送りました。オランダ、ドイツ等に残るスケッチや標本が数多く展示されています。  会場に、何やら外国人を囲んで活発が会話が交わされています。この背の高い方は?!!!なんとシーボルトの玄孫さんが見えていました。英語とドイツ語の混じった会話に聞き耳を立てると、「この植物は我が家の庭にあります。祖父は・・・」などの言葉が。 
    
シーボルトの
生い立ちと時代背景 
 シーボルトの
植物
コレクション
日本の植物で
ヨーロッパの
庭を変えた
シーボルト 
 シーボルト
動物
コレクション
の行方
植物学者
としての
シーボルト 
未完に
終わった 
ファウナ
ヤポニカ
海藻も
コレクション
シーボルト 
動物学に
おける
シーボルトの
素養 
シーボルトと
幻の
日本鉱物誌
上の9章についての展示でした。企画展の会場は広くないのですが、標本の保存状態のよいものも多く、とても中身の濃い展示で興味深かったです。
 
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江戸東京博物館特別展:よみがえれ!シーボルトの日本博物館 
   
   
 
「日本人より日本好き ・よみがえれ!シーボルトの日本博物館」と題した展示を見に江戸東京博物館へ。彼の蒐集品など300点近くが展示されていました。 陶器や着物、絵、日用品以外に鳴滝塾の模型や、日本についての著作、日本人の書いた論文、没収前にトレースした日本地図の展示もありました。
左はシーボルトのお抱え絵師河原慶賀が、シーボルトの要請で書いた市井の江戸人109人の「人物画帳」。右は「オタクサ」のマグネット  アムステルダムでの日本資料展覧会のスケッチが残っています。その絵のクリアファイルを購入 
         
右上の展覧会の上部中央に置かれていたのはこの「花鳥図衝立」です
愛妻家のシーボルトは発見したアジサイに「オタクサ」(お滝さん)と命名 
シーボルトは河原慶賀に、景色や身近な人の肖像の他、一般の日本人の風俗を伝える絵を描かせました。これは「川越人足」
 
有田焼の「赤絵染付諌鼓鶏香炉」。精巧な彫刻で鶏の羽が再現されています。
 この灯篭は、なんと漆塗りの弁当箱です。覗き込むと梨地の蒔絵の本体の中にやはり漆の皿が数枚入っていました。
  
これらは皆、日本を紹介するためにシーボルトが持ち帰った品々。シーボルトはオランダに民族学博物館を作ることを考えていましたが、資金の関係で、その構想はミュンヘンでの設立となります。これらの品はミュンヘン五大陸博物館及び、フォン・ブランデンシュタイン(ツェッペリン家)所蔵となっています。
(写真は無料パンフから))  
 
 これはシーボルトが誤って「鮪」と伝えた、カツオの、「置物」ではなくて、刺身鉢です。エラから尾の付け根までは蓋で、赤い身の皿に刺身を盛り付けるようになっていました。
 シーボルトが非常に興味をもっていたのが「長崎くんち」これは子供用のくんちの衣装。豪華な金糸の刺繍のある半被。
 
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 乙未の会 江戸城登城 2016.9.25
東京駅丸の内北口集合。この辺りは松平丹波守はじめ大名屋敷のあったところ。ガイドは乙未の会を率いる轟さん 日本工業会館のビルの区画にあったのは、評定所、伝奏屋敷。みんな手元の地図とにらめっこ。 皆一級取得者なので「伝奏屋敷とは何か?」なんて説明は不要。入口の向きとか評定所に詰めていた奉行の話題を。 そして大手門から登城しました。枡形や高麗門も、みんな知ってる。なぜ右回りの枡形が多いのかわかる? 
 
門を入ったところで「どこかでみた顔ばかりだなあ」の声。!なんと高尾善希先生に遭遇。「僕はお金稼ぎのガイドに来たの」と彼独特の言い回しで笑いを誘う。
左は轟さんが持っていた「江戸城の今と昔」
皆売店で争って購入 
江戸時代に一度だけあった、江戸城御金蔵破り。歌舞伎に詳しい清野さんが、これを題材にした歌舞伎を紹介する資料を下さいました。 竹橋横のお濠、石垣を覗き込むと「南無阿弥陀仏」と書かれた石が! 1人で歩いた時とはひと味違う 江戸城散歩でした。
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 江戸楽アカデミー
     
大好きな中村先生のセミナー
「小噺でみる江戸の災害・続編」 
今日は浅草寺縁起から浅草寺の火災や震災の記録を、そしてそれに関する小咄、川柳、狂歌などを紹介してくださいました。
「江戸小噺は随分下ネタが多いですよね。女性の先生にはやりにくいのでは?」と質問しちゃいました。「はい、私、それは苦手なんです」と 照れて笑う顔がカワイイ! 浅草寺といえば雷門。風神雷神や、雷に関する小噺が沢山あります。そして、7月9日10日は四万六千日。この日には特別「雷除け」のお守りがいただけます。中村先生が見せて下さいました。
落語ファンの方へ、教えていただいた雷小咄を ひとつサービス
 雷の子、吉原へ女郎かひにゆき、三日四日いつゞけをして内へかへり、おや雷に大きにしかられ、「おふかたつれがあろふ。だれがつれていつた、はやくいへ」
「アイ、たいこがつれていきやした」   
・・太鼓と幇間、分りますよね?
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 河鍋暁斎の動物たち・中山道蕨宿
   
 8月25日までは、暁斎の動物たちをテーマにした展示でした。ネコ、虎、象、猿など、忠実な写生と彼独特の表現が面白い 暁斎は小さい時から蛙が 大好きだったそうです。「柄が地味だなあ」とおもったけど、やっぱり見たら欲しくなったのでお扇子を買いました。 ハスの葉の車輪の人力車(蛙力車?)に乗る、ちょっとえらい蛙なんですかねえ。 
     
河鍋暁斎記念美術館のある蕨市は中山道の宿場として栄えたところ。  旧中山道にある「一里塚の跡」。
街道沿いには形を整えた松が。 
火の見櫓の形のからくり時計台 
 
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宇宙と芸術展:うつろ船 
 享和3年(1803)、常陸国原舎濱(茨城県大洗の浜?)に不思議な形の船が漂着。中には異国の美しい女が乗っており、言葉は全く通じない。船の上部はガラスの窓、下部は上等な鉄製。○△×のような文字。船の中には敷物と、何か練った食べ物や干した肉があった。女は四角い箱を抱えており、誰にも触らせず、中身を見せたがらなかった。・・・・・これは外国船なのでしょうか?宇宙人を乗せたUFOなのでしょうか?タイムマシンかも?
 
六本木ヒルズ森美術館の「宇宙と芸術展」は宇宙に関するいろいろな芸術の展示。私が興味を持ったのは→
   
 
「うつろ船の蛮女」 (「弘賢随筆」より) 瓦版「常陸国京舎濱漂流船」 
   
アメリカの絵本の火星人、チャレンジャー号の模型、若田さんの動画も。  「小笠原越中守知行所着舟」(漂流記集より))  うつろ舟のモケイがありました 
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大妖怪展・江戸東京博物館特別展 
       
Ⅰ『江戸の妖怪、大行進』・Ⅱ『中世にうごめく妖怪』・Ⅲ『地獄ともののけ』・Ⅳ『現代の妖怪』の4つに分けた展示になっていました。 Ⅱ『中世にうごめく妖怪』から国宝「辟邪絵」。これは地獄の鬼を食べてしまう 「神虫」です。 Ⅱ『中世にうごめく妖怪』のうち「土蜘蛛草紙絵巻」 
重要文化財です
 
Ⅰ『江戸の妖怪、大行進』は次の5つのセクションに分かれていました。

A「これが 江戸の妖怪だ」
B「物語になった妖怪たち」
C「妖怪大図鑑」
D{幽霊画の世界」
E「錦絵の妖怪」
F「版本の妖怪」
    
 
妖怪と言えば鳥山石燕 。版画「画図百鬼夜行」

左:国宝「六道絵」は鎌倉時代のもの。
右は縄文人の不安の造形化と言われる土偶。重要文化財  
 
錦絵の妖怪と幽霊。
左は北斎「天狗図」 、中:北斎「百物語こはだ小半二」、右:駒井源琦の幽霊画「釣灯篭を持つ骸骨」 
 
   
 
 伝 土佐光起の「百鬼夜行絵巻」は京都真珠庵蔵。
 
 京都高台寺の「百鬼夜行絵巻物」をモチーフにした「ふたこと箋」はカラフルで可愛い妖怪がいっぱい。自分と、お友達にも買っちゃいました。 道具や建物などが歳を重ね、精霊が宿って妖怪となったものを九十九神といい、粗末にしたものには仕返しをされます。これを描いたのが百鬼夜行図です。 これは「百妖図」のマグネット。「百妖図」には「邪魔」とか「天狗星(彗星のことかも)」 、それから動物の妖怪が沢山描いてありました。これも可愛いので購入。
 静嘉堂文庫「江戸の博物学~もっと知りたい!自然の不思議~」
静嘉堂文庫には岩崎彌之助、小彌太親子によって蒐集された古書籍類が収蔵されています。 6/25~8/7まで、その中から江戸時代の博物学に関する書籍の展示が行われています。  上左右2枚は高松藩家老木村黙老撰の「鱗鏡」。鯛から鯰まで、美しく彩色された263種の魚貝類の精密な図鑑です。  岩崎灌園の「本草図譜」は20年以上の歳月をかけて観察した2000種の植物を絵師が模写し彩色した美しい図譜 
   
青木昆陽が将軍吉宗の命を受けて書いたオランダ語の入門書「和蘭文字略考」も展示されていました。 我が国最初の本格的な和蘭辞書「波留麻和解(ハルマワゲ)。稲村三伯の企画編纂 。8万語余りを収録している 司馬江漢撰「日本創製銅版新せん・天球全図」 宇宙、雪の結晶から虫類まで網羅した事典。左は「太陽真形」右は「天球図」 静嘉堂の所蔵品には国宝「曜変天目茶碗」があります。世界に3点しかない不思議な模様。右上は今回の展示をわかりやすく説明したミニブック。 
 
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河鍋暁斎記念美術館 
 
 
河鍋暁斎記念美術館は、1977年に、暁斎の曾孫にあたる河鍋楠美氏が開館した美術館。昨年三菱1号館で行われた「画鬼 暁斎」 を見てからずっと来てみたかった美術館です。 暁斎は天保2年古河藩士の次男として生まれ、翌年父が定火消同心となり江戸で育ちました。 暁斎を紹介する、楠美氏著「画期暁斎読本」の表紙は「幟鍾馗之図」。  美術館のお隣はカフェ兼受付兼暁斎グッズショップ。ついまた絵はがきやマグネットを 購入。 
   
暁斎の娘閨秀画家の暁翠の絵もありました。その娘吉さんが1944年強制疎開で蕨に転居。その自宅を楠美氏が美術館に改装しました。JR西川口もしくは戸田公園からバスで5,6分の住宅街にあります。 これは文化3年創業の和紙の店「榛原」の千代紙を絵葉書にしたもの。暁斎は榛原に多くの図案を提供していました。   暁斎は小さいころから蛙がすきだったそうです。表情たっぷりのユーモラスな蛙たち  丙午の大火の時は燃える自宅を写生していたという暁斎。でもこんな可愛い「雪中遊狗図」も。  
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乙未(いつび)の会発足!
       
 
昨年、一級に合格した お仲間との交流会「乙未会」が発足しました。何しろ580人もの受験者から新規合格者はたった14人。このうち12人が集まって、この会が出来ました。「乙未」は昨年の干支から命名。先ず自己紹介、そして、年3回は集まって、ナニカ企画をたてて観劇や史跡散歩をしようと決まりました。
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生誕300年記念  若冲展
  
去年から楽しみにしていました。大好きな伊藤若冲の、レアな絵が沢山展示される「若冲展」。上野の都美術館 へ。 展示開始1週間。予想通り猛烈な混雑です。チケットを買うのに50分、会場に入るのにさらに40分かかりました。  「鳥獣花木図」は8万6千個のピースでできています。ロビーにそのモザイクのアニメーションがありました。  今回は相国寺→宮内庁に寄贈されてあまり人目に触れていなかった「釈迦三尊像」や「動植綵絵」が一挙に公開されました。
 
行列して、 人垣の後ろから頭を突っ込んでの鑑賞ですが、どの絵も実際に観られて本当によかったと思えました。 1つとして同じものの無い紅葉の葉、細い線で精密に、しかし一筆で正確な円弧を描く孔雀や鳳凰の羽の線・・。図録を見て余韻に浸っています。 絵葉書や一筆箋、ファイルなど、買い込んでしまいました。若冲に囲まれていたくて 。
でも実物の迫力は全然違いますね。
「貝甲図」は木村兼葭堂の「奇貝図」と似てる。八重咲きの梅に美しく映える青い鳥はきっとオオルリ。飽きることがありません。
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久しぶりの江戸楽アカデミー 
  レジメに、ご専門の江戸小噺をたくさん 紹介してくださいました。
私の気に入った小噺をひとつ紹介


辰の二月、江戸から大火事の飛脚。
また西国筋から大水のうったへ。
飛脚と飛脚と、はこね山ではたと行き合い、
両方とも、ヂウ

辰の二月、というのは「目黒行人坂火事」の起きた明和9年のこと。
この年は上方では水害で、共に大きな被害をこうむったのを
こんな風に笑いのめすのが江戸人なのです。
久々の江戸楽セミナーは、2010年の「江戸の稲荷信仰」、翌年の 「落語で巡る花見空間」と、とても面白い講義でファンになった、中村洋子先生の、「小噺でみる江戸の大変」
 なんと中村先生、私の顔を覚えていてくださいました。感激!
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国立公文書館:平成28年春の特別展「徳川家康」-将軍家蔵書から見るその生涯-
①いくさ人 家康 ②秀吉と家康 ③天下人への道 ④家康の文教政策 ⑤家康と秀頼 ⑥家康の死と神格化 ⑦関東・幕府の鎮守から信仰の道へ ⑧家康をとりまく女性たち のジャンル別に古文書が展示されていました。下に紹介したもののほかにも、駿河版の活字印刷の「群書治要」や、家康が調合したという「神効散」(歯の薬らしいです)のレシピとか、興味深い文書が実に沢山展示されていました。 
古文書の勉強を少しやっている私としては、もしかしたら少しは読めるかも、と期待したのですが、当然、原文は殆ど読めず、やっぱり翻刻の活字を読みました(笑)
 
 江戸楽セミナーを受けた神保町から、竹橋の国立公文書館は歩いてすぐ。「徳川家康」展を見に行きました。 折しも今日は家康公の命日4月17日(新暦ですが) 公文書館所蔵の文書から家康の生涯をたどります。これは「いくさ人家康」のコーナーの「朝野旧聞裒藁 (ほうこう)」  これは「多聞院日記」から家康と秀吉の関係を記した部分。秀吉が家康の手を取り「対面時は丁寧に礼をしてくれ」と頼むところ。
 
家康が征夷大将軍になって、三河や遠江の寺社に発給した寄進状には「源家康」のご朱印が押されています。 今の静岡県清水区辺にも隠居所を作る計画があったそうです  「本朝通鑑」の本箱が納められていた長持。 入館時には暴風雨だったのですが、見学を終えて竹橋まできたら、きれいな青空が見えました。 
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 適塾:大阪に旅行しました。是非行きたかったところが、適塾跡です。
天保9年に緒方洪庵が開いた適塾(適々斎塾・適々塾とも)。初めは瓦町にあり、弘化2年にここ過書町に移転しました。緒方洪庵は文久2年江戸の西洋医学所に迎えられるまでの17年間をここで過ごしました。適々斎とは彼の号です。 細長い建物の前方部が塾、後方が洪庵と家族の住む母屋となっています。塾部は2階建てで、1階が教室、2階が塾生部屋。母屋の台所部分の2階に女中部屋と、蘭和辞典が置いてある「ヅーフ部屋」がありました。 母屋の中庭。この「適塾記念センター」は、江戸時代の蘭学塾としての歴史的価値は勿論のこと、当時の大坂の町屋建築様式を残すという意味でも貴重な建物です。  大村益次郎、長与專斎、福沢諭吉ら、のべ人数3000人と言われる塾生たちが起居していた大部屋。一人一畳分を割り当てられて生活していたとのこと。毎月の試験の成績により場所の割り当てが決まったそうです。
左は2階の見取り図です。大部屋の真ん中にある柱にはいくつも刀傷が残っています。思うように勉学が進まずストレスがたまった塾生が切りつけた(?) 大部屋の隣ははヅーフ部屋。「ヅーフ・ハルマ」即ち蘭和辞典が置いてありました。一冊しかない辞典は24時間必ず誰かが使っている状態でした。  中庭を見下ろすと井戸が。夜中の勉強の為に目を覚まそうと水をかぶった塾生などもいたのではないでしょうか?  適塾のたてものは重要文化財に指定されています。建物の横の敷地には緒方洪庵の像があり、きれいに整備されたスペースになっていました。
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「勝川春章と肉筆美人画」展  出光美術館
     
出光美術館は久しぶりです。 エレベーターもちょっと素敵だなあとおもいます。 勝川春章生誕290年記念 気に入った絵は、やはり欲しい。絵葉書を買い込みました。 
 
 
江戸検10周年感謝の集い  
検定一級に合格すると招待してもらえる憧れの一級全体会。まず神保町の一ツ橋センタービルで、江戸博館長竹内誠先生の講演会。そしてそのあとの懇親会に参加しました。
4年後の東京オリンピックに向けて、東京をどんな街にするか、アドバイザーとして参加なさっている先生の構想。ユーモアたっぷりの楽しい講演でした。 やはり神保町にある「ダイニングカフェ  エクスぺリア」での懇親会。合格者、受験者、検定協会関係者、講師の先生方も一緒におしゃべりしました。 10周年記念大会ということで、各級の最年少、最年長合格者のほか、お題関連の20問全問正解者や、筆記問題全問正解者も表彰されました。  受付で手渡された「おかげさまで江戸検10周年」の紙。「クイズの回答用紙です」。(?)と思ったら、会の途中で「それでは江戸検難問クイズです」。超難問が5問出ました。 スクリーンに映し出された問題は「すれっからしを意味する『ばくれん』の語源は?」昔から何だろうと思っていました。「連れ莫し(薄情)」の入れ替え語だそうです。
 
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歴史をつなぐ天璋院の用箪笥:江戸東京博物館 
   
用箪笥は徳川家達のひ孫徳川恒孝氏が設立した徳川記念財団所蔵のものだそうです。 「 梨地筥牡丹蝶尾長鳥文蒔絵用箪笥」には10の引き出しがあり、引出し毎の展示でした。 上部左右の 上から3段目の引き出しの内部はは、↑のような懸硯になっています。 左の懸硯の上の引き出しには文具類が入っていました。↑の写真は左が水滴左が香炉どちらも薩摩の竪野焼のもの。この他、やはり竪野焼きや銀製の文鎮なども展示されていました。  
 
 
 左は明治5年天璋院宛に出された断髪許可証。箪笥の右の一番上の引き出しに他の重要書類と共に入っていました。
 
幕府瓦解の時には和宮と二人で徳川家の救済に努め、また、明治元年徳川宗家の跡目を継いだ亀之助(家達)を養育しました。家達の妻は天璋院の養家の近衛家から、その子家正の妻は実家の島津家から迎えられました。 
自筆の筆稿本「熱海箱根湯治日記」。この旅の目的の一つは和宮終焉の地を訪れることでした。 薩摩から徳川13代家定に嫁ぎ、故郷を想いながらも徳川家のために尽くした天璋院。  上は和宮に、下は徳川泰子(家達の正室)に宛てた手紙。とても美しい字でした。書名は「敬子(すみこ)となっていました。 上は天書院葬送図。下から二番目の大きな引き出しに納められていました。
 
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 「渋川春海と江戸時代の天文学者たち」展:国立科学博物館 
 上野の国立科学博物館の企画展示「渋川春海と江戸時代の天文学者たち」を見て来ました。 下記の4つの時代に分けたわかりやすい展示でした。
1「渋川春海とその時代」:それまで中国の天文学から作られていた暦。渋川春海は自身で天体観察を行い、暦のずれを修正して「貞享暦」を作りました。
2「天文学者徳川吉宗」:吉宗は科学技術に関心が高く、西洋の技術も受け入れました。天体望遠鏡や天文台を作らせ、将軍自ら観測を行っていたそうです。
3「高橋至時と市井の天文学者たち」:西洋の天文学を学び、寛政の改暦につとめた高橋至時と大坂商人出身ながら至時とともに幕府天文方になった間重富。
4「高橋景保と渋川景祐」:高橋至時の長男景保は優秀な天文学者でしたが、シーボルト事件で獄死します。弟の景祐は渋川家の養子となり、天保暦を完成させました。
 
「江戸の天文学者たち」は科博の企画展「日本の科学者シリーズ・11」なのだそうです。 会場内にはこんなパネルが沢山あり、子供にも分かり易い説明がありました。  これは渋川春海が使っていたという 渾天儀(こんてんぎ)。渾天儀は天体の位置測定に用いる道具。輪っかは水平線、子午線、赤道 を表す。右は実物です。 この光る天球儀はマウス操作でガラス球に写った画像を動かして 星座を探すことができます
これは吉宗が造らせたという大望遠鏡。左下の様に吊って使ったらしい。 江戸の早い時期から遠眼鏡は作られていました。左は体部が和紙と漆でできています。岩橋善兵衛のものが有名だったようです。右は善兵衛の望遠鏡のトリセツ。  望遠鏡を使うと月の表面には泡粒のようなものが見えました。左は文化10年の掛け軸。右は国友一貫斎の描いた月面です。  天文学は暦を作るのに欠かせない学問。会場では太陰太陽暦と西洋暦の説明とともに「旧暦を作ってみよう」という用紙が。
天文学以外でも、江戸時代には優秀な科学者、技術者が沢山いました。別の展示室で、江戸の科学者たちの活躍を見ることができます。
 ご存知「からくり儀右衛門」田中久重の作った万年時計。精巧な内部の説明と瀟洒な飾りについても展示があります。 長崎からはヨーロッパ製の顕微鏡も輸入されました。上はドイツ製のもの。左は「紅毛雑話」にも描かれています。  手に入れた顕微鏡で、古河藩主土井利位は雪の結晶を観察し、「雪華図説」を著しました。 雪の模様が流行し、土井大炊頭→「大炊模様」と呼ばれ、着物の柄や刀の鍔に取り入れられました。。  これは嘉永3年「再版微虫図」顕微鏡で見える小さな虫を観察したもの。 
ガラスの眼鏡は家康も用いていたとのこと。江戸後期には背中にいっぱいメガネを担いで売り歩いたとも。  これは道中日時計。手軽で持ち運びしやすい道具を作るのは日本人の得意とするところですね。  木で作った人骨標本。日本製です。蘭学を学んだ漢方医が作成したものだそうです。  華岡流外科器具類。日本人が考案した手術器具です。全身麻酔も世界に先駆けて華岡青洲が行いました。 恐ろしい病だった疱瘡を制することができた種痘。これは「疱瘡相済証」。疱瘡接種(つまり種痘)が済んでいるという証明書。 
植物学も盛んでした。「養生訓」で有名な貝原益軒が中心となって編纂された日本の植物の集大成図鑑「大和本草」 。 蘭医学の名門宇田川家にうまれた宇田川榕庵は江戸後期の植物学者。これは美しい彩色の「植学啓原」  画家で科学者で発明家で芝居の脚本まで書いた天才平賀源内。開催した物品会(博覧会)の出品目録「物類品隲」  高橋至時に師事した伊能忠敬は50歳から天文や測量を学び、精巧な日本地図を作りました。これは測量機器の展示。  伊能忠敬使用の量程車。歯車の回転を利用して距離を測る道具です。 
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 新たな目標
以前から古文書読みに憧れていました。
一級に合格したらやるぞ、と思っていたので、高尾善希先生監修の通信教材を取り寄せて、「いざ出陣!」
と最初は威勢がよかったのですが、テキストを開くとねむ~くなるので困っています。
昔の子供はえらいなあ、と感心しつつ、ノートに崩し字を繰り返し書いて手習い中です。 
     
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