江戸の名所
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2011年の江戸文化歴史検定のお題は「江戸の名所」。
お題にあわせて、あちらこちらを歩きまわったところをご紹介します。
雑司ヶ谷鬼子母神
小石川後楽園
向島散歩
浜離宮と芝離宮
浅草寺庭園
清澄庭園・ 深川江戸資料館・ 富岡八幡宮

駒込から王子
亀戸天満宮
両国回向院と旧安田庭園
堀切菖蒲園

谷中霊園と谷中のお寺
谷中から根津、本郷
六本木と目黒
四谷散歩
品川の一級会
「江戸の名所」というお題は終わったのですが、あちこち歩くのがすっかり楽しくなりました
石神井散歩
上野公園(高橋由一展)
本所・吉良邸と勝海舟生誕の地
柴又帝釈天
泉岳寺と高輪大木戸跡
芝増上寺・青松寺
巣鴨のお地蔵様
船で大江戸散歩
日枝神社
両国回向院の善光寺出開帳
高安寺・大国魂神社・国府八幡宮
隅田川をさかのぼる
神田散歩
上野公園(上野東照宮・花園稲荷神社・五條天神)
王子飛鳥山公園
両国 野見宿禰(のみのすくね)神社
平河天満宮と市ヶ谷亀ヶ岡八幡宮・茶ノ木稲荷
神田のお稲荷さんめぐりと街歩き
待乳山聖天と今戸神社
青淵文庫と晩香廬
芝丸山古墳 
新橋烏森神社 
小石川後楽園ふたたび 
神楽坂光照寺
日本出版会館のイチョウ
板橋散歩
赤坂離宮迎賓館
秋の古河庭園・牧野記念公園
新橋-浜松町・竹芝散策
皇居乾通秋の通り抜け
 
 雑司が谷鬼子母神に行きました。- 2011.3.6-
 地下鉄雑司が谷の駅には江戸高名会亭尽の壁画が  本殿 日蓮上人の石像   ご神体のイチョウ
 
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 小石川後楽園ではボランティアさんの解説付きで見学。-2011.3.27-
小石川後楽園は水戸黄門、光圀公が作りました。彼は兄を差し置いて家を継いだことを心苦しく思い、だからこそ「良い政治」をしようと、中国の書物を読み、中国の学者を招聘して勉強を重ねました。「後楽」という名前も『まず民が楽しみ、後に為政者が楽しむ』という意味です。
   
 向こうに見えるのは
東京ドームです
 特別史跡と特別名勝
両方の指定を受けています
 枝垂れ桜が
開き始めていました
 涵徳亭(かんとくてい)
   
 得仁堂
常に良き指導者を目指した光圀
 朱鮮やかな通天橋  小石川上水から水をひいて
美しい庭園がつくられました
 5月には花菖蒲や藤がきれい
   
 どんな時も涸れなかった不老水の井戸。今はもう、地下鉄とビルに囲まれていて無理  酒は昼九夜八にすべし。
夜は杯に沢山注ぐとこぼれちゃうから。九八茶屋
 内庭(徳川家の私庭)の池。この度の震災で石橋の基礎が少し崩れました  楽しみにしていた円月橋は修理中。震災ではなく、周囲の木の根が石を割って破壊しそうなんですって
     
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 向島散歩-2011.4.10-
 
 
 園内には沢山の句碑があります。これは芭蕉の句。「春もやや気色ととのふ月と梅」
  
 先ずは向島百花園
 カエデの花   タラヨウ。「葉書」の葉です。
 
 この額の字は太田南畝のもの  ミツマタ  タラヨウには傷をつけて字が書けます。
ボランティアのガイドさんにそれは沢山の花木を教えていただきました。カタクリ、イタドリ、ヒトリシズカ、ゲンペイモモ、キブシ(お歯黒の木)、イカリソウ、シジミバナ、ニリンソウ等々。ツグミの姿や、角型の竹。なぜ、冬に咲く(木の)花は花弁がしっかりしていて蜜の粘度が低いか、ミツマタからどのように紙を作るか、天然のカタクリがどんなところに咲くか、百花園の花のことなら何でも知っているガイドさんでした。
 牛島神社(牛の御前)  三囲神社  弘福禅寺  墨堤の桜
 
 境内になで牛が沢山ありました  三囲神社は三井越後屋と縁が深いから、のライオン? 池田冠山の墓碑。
本墓は国許に。
人の多いこと!長命寺の桜もちは長蛇の列
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浜離宮と旧芝離宮-2011.4.14-
浜離宮恩賜庭園は汐留ビル群の海側。ここは将軍様のお庭です
「ユピキタスガイド」で園内を周りました。これはスグレモノで、ポイントに来ると自動的に音声と画像の説明が始まるんです。
大手門は枡形門でした。
石垣が当時の面影を残します。
国内最古300年の黒松。6代将軍家宣公の時植えられたものです。 海水を引き入れて潮の干満で趣が変わる汐入の池。今に残るのは浜離宮のみ 桜と中島の茶屋と
汐留ツインタワーが映る
汐入の池
庭園内の水路には↑のような雁木を備えた
「お上がり場」が。庶民が使う時は「河岸」
一般の武家では「荷揚場」と呼びます。
塩入の池の中央、中島の茶屋では、
美しい景色を眺めつつ、優雅にお菓子とお抹茶を
いただきます。
お庭には二つの鴨場があります。
鴨に気付かれないよう、
小のぞきから池を見ます。
旧芝離宮恩賜庭園
浜松町の駅のお隣の静かな庭園
「楽寿園」と呼ばれました。
小田原藩大久保家の拝領屋敷だったころ、根府川などから石が運ばれました 鯛の形の石で橋ができています 周りの喧騒が嘘のようです
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浅草寺大絵馬寺宝展と庭園拝観-2011.4.17-
いつもより空いていた浅草雷門と、五重塔の右にちょっと見えるスカイツリー。
安政の大地震では塔の九輪が曲がったそうですが今回は無事のようです。
大絵馬は寺宝ですが、芸術的価値も高く、谷文晁や長谷川雪旦の絵も。これはパンフにあった、菊池容斎の「堀河夜討」 普段非公開のお庭は小堀遠州の作と伝えられる回遊式庭園。
書院の中も覗けます(入れません)。
そして、日本茶のサービスがありました。
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清澄庭園・深川江戸資料館・富岡八幡宮-2011.4.24-
清澄庭園
もとは隅田川の水を入れた、
汐入の池でした。
左奥に見えるのは「涼亭」
「磯渡り」の石には
平らになりやすい根府川石が
使われています
中ノ島のあずまやは
地震で倒壊の危機
今は入れません
古池や
 かはづ飛び込む
 水の音
清澄庭園は「石の庭」 石好きの岩崎弥太郎とその子孫が集めた沢山の名石があります。
佐渡の赤石 伊予の青石 保津川の穿石 相模真鶴石 橋は20cmもの厚みの一枚石で
深川江戸資料館と深川の町
清澄白河駅にあった大きな看板。
猫がカワイイ
資料館の中には江戸の町並みが再現されています。 清澄から門前仲町に行く途中に紀伊国屋文左衛門の石碑をみつけました。 江戸時代の水路が残る町
欄干にはこんなイラストが。
富岡八幡宮
折りしも境内では骨董市が開かれていて賑やかでした ここは江戸の相撲発祥の地です。これは「横綱塚」 鳥居の手前の大きな石灯篭は震災で割れたらしい。 早咲きの藤↑と
お神輿→
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駒込から王子へ-2011.4.29-
六義園
元禄時代柳沢吉保が作った庭園は後に岩崎弥太郎の屋敷となり、岩崎久弥によって東京市に寄付されました。 広い庭です。こんな鬱蒼とした林を過ぎると左のような美しい池とつつじが現われます。 池に置かれた臥龍岩。
ここにも珍しい石がいっぱい。でも震災で少し崩れました
岩崎久弥がとてもくつろいだと言う
私邸がここに建っていました。
古河庭園
もと陸奥宗光の邸宅だったが古河財閥に所有が移り、今は東京都の公園。 洋館と、バラの美しい西洋式庭園はジョサイア・コンドルの設計 左の写真の林の反対側には日本庭園があります。 日本庭園は小川治兵衛が作りました。
この「崩れ石積み」は彼の力作
駒込ー飛鳥山ー王子へ
      江戸小噺二題

王子辺にいとうつくしき娘ありけり。狐、是を見て大きにほれて、其娘に付きける。つきハ付ながらどうもしやうなし。(狐)「エゝばかな。隣の息子につけバ勝手がよかった

女中連れ立ち、王子のいなりへ参り、うしろの山へのぼりて、狐の穴に祠が建ててあるを覗いて「オヤオヤ、お吉さん。ちょっとお見。アレ穴のおくに狐さまが居ますよ。
「ドレ、ほんにねえ。毛の色が黄色でござりますねエ。
「イエイエ、うす鼠いろさ
「なアニ、すす竹で御座りますト いろいろあらそふ。
 
 穴の中で狐が、こん。

駒込から飛鳥山に向かう途中にある、日光お成り街道二つ目の一里塚。
右は石神井川。
この石碑は飛鳥山の象徴です。
「この枝を折るなだろうと石碑みる」
難解な漢字で全然読めないのです
落語「王子の狐」でおなじみ。
王子は狐の名所?です。
王子の地名の由来となった王子神社。
紀州熊野の王子五社から分祠された
こちらは王子稲荷神社 稲荷神社の裏にある狐の穴。どうも後世の作り物らしき
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亀戸天満宮-2011.5.5-
連休のさなかのせい?
ものすごい人出でした。
藤には少し早かったみたい
境内に入っても続く行列。
ゆっくり歩きながらまたもや
スカイツリーの写真を撮りました。
本当は広重の絵みたいに藤のむこうに太鼓橋が見える写真が欲しかったんですが→
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両国回向院と旧安田庭園-2011.5.15-
塩地蔵
両国といえば回向院
明暦の大火の時の焼死者を弔う万人塚がこの地に建てられたのが始まりです。
江戸時代、常打ちの勧進相撲が行われた、大相撲所縁の寺。
「力塚」があります。
ねずみ小僧の墓石を削って持っていると賭け事にご利益が。削り用の石があります。 火事や地震、海難事故の犠牲者の墓も沢山あります。刑死者もこのお寺に葬られました。
山東京伝や加藤千陰のお墓もあるらしい。
旧安田庭園 
旧安田庭園は下野足利藩の下屋敷だったところ。園内からスカイツリーが見えます。入場無料です 心字池。ここも昔汐入の池でした。
敷地内に両国公会堂があります。
小さいけれどきれいな庭園です。
回遊式庭園ですが、このたびの地震で、紅い太鼓橋には行かれません。倒れた石灯篭も。 回向院の近く、本所小泉町(今の両国)に
芥川龍之介が幼少期と少年期を
過ごした家があったそうです。
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堀切菖蒲園-2011.6.12-
堀切菖蒲園駅には
小学生のスケッチ展示
6月は『菖蒲まつり』
幼稚園児の鼓笛隊がカワイイ
京成線の駅から菖蒲園まで
「あじさいロード」があります
6月は人出がすごい
周りの商店街も活気に満ちてます
花菖蒲とアヤメとかきつばたの見分け方

ハナショウブ:湿地乾燥地どちらでも咲く。葉は葉脈がはっきり出る。花弁は丸みを帯び、三英咲、六英咲と形、色ともに変化に富む。
アヤメ:乾燥地に咲く。葉幅が狭く、花弁には網目模様。色は主に紫、ときに白。
カキツバタ:湿地、沼に咲く。葉幅は広く平たい。花弁は細く先がとがっている。色は藍、紫、白。
広重の『江戸百」にも堀切の菖蒲があります。 人々は手に手にカメラを持ってみんな撮影会です 「白竜の爪」とか「加茂干潟」とか名前が付いています これはたしか「江戸錦」
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谷中霊園と谷中のお寺-2011.6.12-
「江戸の三富」の一つ日蓮宗感応寺(今は天台宗天王寺)境内の五重塔は幸田露伴の小説にも(S.32焼失)   川上音二郎の碑↑
なぜかネコの多い谷中霊園
   
15代将軍慶喜夫妻の霊廟↑因みに家康と家光は日光、2・6・7・9・12・14代将軍は増上寺、4・5・8・10・11・13代将軍は寛永寺にお墓があります
谷中観音寺は、元禄の頃近松勘六ら赤穂浪士と親交があり、その関係で供養塔があります。 観音寺には3代目と4代目の桂三木助のお墓もありました。 谷中全生庵は山岡鉄舟が開いたお寺。彼は幕末、幕臣の子に生まれ、江戸城無血開城に貢献し、明治になってからは天皇に仕えた。剣も強く能書家。健脚でも知られる。 鉄舟は三遊亭円朝をたいそう贔屓にし、後ろ盾となっていました。「無舌居士」と言う号を与えたのも彼。全生庵には鉄舟の揮毫で円朝のお墓と石碑があります。横にあるのは可愛がっていた弟子の「ぽん太」の墓
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谷中から根津、本郷-2011.9.11-
萩を見たくて谷中宗林寺に。まだ少し早かったみたいです
(9月11日)
旧前期日本美術院跡。明治31年に建てられ、39年に茨城に移転したそうです 岡倉天心の像がある記念堂。3月の地震の時茨城の本物が流されましたね。 ネコ好きの人が集まる「ねんねこや」というお店。
谷中は猫多いですね
根津神社祭は、山王祭神田祭以外で唯一、江戸城で上覧されたことがある祭です。 それは5代将軍綱吉の兄、徳川綱重の屋敷内に根津神社があり、そこで6代家宣公が生まれ、家宣公の産土神となったから。家宣公の胞衣(えな)塚や産湯の井戸があります。 楼門、唐門、本殿などは重要文化財指定です。
東大構内に「蛇塚」というのがあります。加賀様のお屋敷だった頃、粗相のあったお女中を、蛇を使って折檻し、後に彼女を弔う為に建てた灯篭。ここを工事する計画を立てる度に事故が起こるそうで。
タタリが怖いので写真を撮ったけどボツにしました。
言わずと知れた東大赤門。将軍家からお姫様が輿入れされると、嫁ぎ先はモノ要りで大変。 三四郎池
ひんやり涼しかったけど蚊の天国だった。
地下鉄本郷三丁目の駅のそば、桜木神社というのがありました。白い鳥がいましたけどソレハナニ?
住宅地の真中にある十一面観音本堂が戦災で焼失した時、このご本尊だけが無事でした。 本郷の路地にぽつんとたつ薬師堂。中のお薬師様は四天王に守られていました。 サトウハチローは市谷生まれで文京区育ち。波乱の人生の中、親しみやすい詩を沢山残しました 御茶ノ水から神保町に行く途中、某病院の敷地にあった「大久保彦左衛門住居跡」の石碑
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 六本木ミッドタウン〜六本木ヒルズ〜目黒自然教育園-2011.9.25-
 
 六本木ミッドタウンにある檜町公園は毛利家松平大膳太夫の下屋敷跡。檜が多く、檜屋敷と呼ばれていたそうです。  六本木ヒルズの毛利庭園.
名前の通り毛利氏の屋敷の庭園
 目黒自然教育園は松平讃岐守の下屋敷だったところ。
今はシロガネーゼの憩いの場?右は中にある庭園美術館です。
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「江戸の名所」のテーマは終わったけれど・・・江戸歩きにはまってしまいました。
 四谷散歩-2011.12.4-
2007年度に一級に合格されて、「気ままに江戸♪」という、江戸歩きや江戸文化に関するブログを立ち上げていらっしゃる
「夢見る獏」さんが四谷散歩に誘ってくださいました。
ガイド経験豊かな獏さん、実に計画的な、無駄のないコース、丁寧な説明で、とっても楽しい一日でした。
四谷駅集合→四谷見附→西念寺(服部半蔵の槍・墓)→真成院(潮干観音)
出発地点は四谷見附。
矢印は見附の石垣ラインだそうで。
昔は石畳で騎馬警官がいたところ
西念寺では、獏さんが事前に住職の奥様に頼んでくださり、
服部半蔵の槍を拝見。大垣城から移築されたというお部屋も
ビンロウジュの床柱、波に千鳥の透かし彫りの欄間など豪華なもの
いいお天気。
色づいた銀杏の黄が
青空に映えて美しい
ここは真成院前の「観音坂」。潮の干満に
合わせて台石がぬれる不思議な「潮干観音」
があるから。(今は台石はありません)
>愛染院(塙保己一の墓・高松喜六の墓)→東福院(豆腐地蔵)→須賀神社(三十六歌仙)
7歳の時に失明したけれど、健常者
もはるか及ばない学問を身につけた
塙保己一。「前総検校塙先生之墓」
高松喜六は内藤新宿生みの親。元
禄の頃、幕府に甲州街最初宿場を作
ることを願い出て、名主を務めました。
木の葉でお豆腐を買って
手首を切り落とされた小僧の
本当の姿ははお地蔵様!
四ツ谷の総鎮守須賀神社には天保時代に大岡雲峰が描いた
三十六歌仙の絵と和歌の額があります。本殿は蔵づくりになって
いて(右写真)ここに収めていたため戦災を免れたそうです。
勝興寺(山田浅右衛門の墓)→戒行寺(長谷川平蔵供養碑)→西応寺(榊原健吉の墓)→本性寺(北向毘沙門天・萩原宗固の墓
罪人の試し切りを仕事にしていた、
代々の山田浅右衛門。6・7代目の
お墓が勝興寺にあります。写真は
6代目の名が刻まれた天水桶。
お寺の名がついた坂が沢山あります。
ここは戒行寺坂。戒行寺には、もとは
長谷川平蔵、平蔵の父、平蔵の子の
お墓があったそうです。
「最後の剣客」と言われた
榊原健吉の墓。明治天皇の
御前で「兜割り」!を
やってのけたそうで・・
本性寺の毘沙門堂。中に安置されている毘沙門天は、家康が
北の伊達政宗を牽制するために北向きに置いて祈願した。
毘沙門堂もちゃんと北を向いています。
右は塙保己一の師の一人、萩原宗固のお墓
お岩稲荷(田宮稲荷神社)→笹寺:四谷山長善寺(めのう観音・林武の墓、大草求玄の墓、稲妻小僧の墓)
田宮稲荷神社は、田宮家の邸内社。内儀のお岩さんはオバケではなく貞女。
信仰厚く働き者で、貧しかった田宮家を再興させたので、人々の信仰を集めました。
200年後、鶴屋南北が東海道四谷怪談をヒットさせてからは、お岩を演じる役者が
必ずお参りすることになっています。右は某店玄関にあった「お岩観音」ですって!?
寺宝の「めのう観音」は秀忠
の念持仏をお江が寄贈した
と伝えられる(彼女自身の
念持仏とも言われる)。
高さ10数cm程の
可愛らしい観音坐像
四谷山長善寺は笹が多かった事から鷹狩の途中立ち寄った
秀忠(多分)が「笹寺」と名付けたとか。
画家の林武、幕末の砲術家大草求玄(墓の字は「求玄大草」)
らの墓もここ長善寺にあります。
四谷大木戸跡と斉藤茂吉終焉の地
四谷4丁目近くのビルに、斉藤茂太博士
が作った、父斉藤茂吉の歌碑
のプレート
があります。
もと斉藤神経病院があったところ。
右は四谷大木戸跡の石碑。
今は4丁目の角には消防博物館が
立っていて、屋上にはヘリが乗ってます
ご住職がお墓を案内して下さいました。稲妻小僧の墓の前では、
北海道で脱獄を繰り返し、関東で強盗をはたらいては逃げ回った、
足の速い泥棒の話を聞かせてくださいました。
多武峰神社→青山上水跡→玉川上水跡(新宿御苑側道)・水道碑記
多武峰神社は元は内藤家の邸内社。
住宅街にある小さな静かな神社です
内藤清成がこの土地を賜わった時の
逸話にある白馬が神馬殿に。右は駿馬塚
新宿御苑の外塀に沿って
走る青山上水跡の凹地
御苑の側道を歩くと、玉川上水の
走った跡を辿る事ができます。
新宿区役所四谷庁舎
にある、水道碑記
大宗寺(六地蔵・三日月不動・閻魔堂のえんま様と脱衣婆・塩地蔵)
江戸の街道筋の入り口は、それぞれ
お地蔵様が守っています。甲州街道は
小さい頃の漱石がよじ登ったと言う
ここ大宗寺の大きなお地蔵さま
内藤家の菩提を弔っています。
昔は何百坪もある大きなお寺だった
とのこと。
頭頂に、銀の三日月がついて
いる三日月不動。
でも暗くてよくわからなかった
閻魔堂にはえんま様。横には舌を抜く
ための巨大ペンチが置いてありました。
そしてもっとコワイ脱衣婆の像も。
こちらは願をかけて
叶ったらお礼に
塩をかけるお地蔵様
雪が降ったみたい
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 そして、一級でもないのに、一級の方々のイベント、「品川大江戸さんぽ」に強引に参加してしまいました。-2011.12.18-
出発点は京浜急行北品川駅。
ここはゴジラが上陸した場所の近くらしい。

家光公「海近うして、東(=遠)海寺とはいかに?」
沢庵和尚「大君(たいくん)にして将(=小)軍と称し奉るがごとし」
という問答があったらしい。

利田(かがた)神社にある鯨塚
寛政10年品川に打ち上げられた
鯨は最後にここに埋められました
養善寺にある伊豆の長八の
こて絵。大分崩壊していますが
それでも迫力がある昇り竜
品川神社には小さい富士山があります。
丸嘉講富士塚という、富士塚
本当の富士には登れない人たちも
ここなら!
思ったより高度のある頂上からの眺望。
板垣退助が、ここに墓を立てるように遺言を残したのは、
日当たりと景色がよいから?
品川区3番目の大銀杏
樹齢400年とか。
品川橋=境橋
目黒川は昔、宿場を
北と南に分ける川
だったから。
海徳寺にある
ホームラン地蔵。
右手にバットを持っています。
一級の方々の博識なこと、熱心なことにも驚きましたが、皆さん健脚です!午後1時から4時半頃まで、寺社などのポイント24箇所を暗くなっても歩きました。
そして、みなさん、本当に良い方々ばかりでした。江戸好きに悪いヤツはいないのです。
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石神井散歩・あちこち歩くくせが付きました 2012.2.19
豊島山道場寺は石神井城主であった豊島家の菩提寺。豊島氏は桓武天皇の曾孫平高望を祖とする桓武平氏の
子孫です。山門・鐘楼・三重塔は昭和の改築で作られたもの。
曹洞宗の禅寺です。
本堂には「道場禅寺」の額が
三宝寺は応永元年(1394)に少し離れたところに建てられたそうです。
石神井城落城後、豊島氏の菩提を弔う為大田道灌がこの地に移したとのこと。
「守護使不入」の結界石は寺の格式を示します。
四国八十八ヵ所お砂踏み場 勝海舟の自宅の
長屋門が移築されて
いました
三宝寺の裏手は石神井城の主郭部でした
石神井城址は保護の為今は立ち入り禁止
堀の跡とはこの窪みのこと?
水はなく、空掘だったそうです
城址の石碑のそばも
何と工事中で近寄れず・・
三宝寺の山門の彫刻
象みたいだけどバク
禅定院は総研年代は不明だが
南北朝時代の年号の板碑があり
古寺であることがわかります
文政年間の織部型灯篭は
笠も火袋も失われていますが
下部にはマリア像と思しき彫刻
「キリシタン灯篭」です
六角柱に
彫られた
お地蔵様が
六体で六地蔵
ちょっと目が
コワイ
弘法大師像
いぼ地蔵
いぼ療治に
ご利益が
あるらしい
今年は寒くて梅の開花が
遅れていますが、
禅定院には満開の紅梅
馥郁と香っていました。春近し
石神井ふるさと文化館では「江戸の妖怪展」
開催中。鳥山石燕の絵が沢山ありました。
上の絵はは歌川国芳の「源頼光館土蜘蛛妖怪図」
竹沢藤冶作「独楽の化け物」

(いずれの絵もチラシから転載)
十返舎一九作・絵「化物見世開」
山東京伝の読本も
展示されていました。
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上野公園-2012.5.13-
上野には芸大美術館の「高橋由一展」が目的で行きました。由一は幕末から明治にかけて日本で初めての油絵画家として活躍しました。
鮭の絵、花魁小稲の絵などが有名です。「写真のように」正確に写すことが油絵の使命と考えていたということですが質感や対象物への思いの描写はやはり写真には無いものです。
何度も行ったけど写真を撮った事が
なかったので上野東照宮にいってみた
ところがところが!思わず笑っちゃいました工事中で、シートに東照宮の絵があっただけ 敷地の中には葵のご紋の入った沢山の灯篭.。みな権現様の命日4月17日の日付です
ここの狛犬はすごく胸を張っているので首が無いみたいに見える 地震火災戦争 何度も受難にあったけど首だけは残ったので「落ちない」と受験生がお参りに来る大仏。 「花の雲鐘は上野か浅草か」芭蕉が詠んだ上野の時の鐘。この横に料亭「韻松亭」があります。韻は鐘の音のことですね
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本所吉良邸と勝海舟生誕の地-2012.5.15-
両国に来たので以前行きそこねた吉良邸跡へ。討ち入りのあった頃のお屋敷の
86分の1の大きさの小さな「本所松坂町公園」になっています。
忠臣蔵のファンだった子供の頃は
嫌な奴だと思っていた吉良上野介。
でも国許では評判の良いお殿様。
それを示す穏やかな顔の像。
みしるし洗いの井戸。ホント?
吉良邸正門跡は少しはなれたところに
位置を示す看板がありました。
両国公園の一画に勝海舟翁の生誕地
を示す石碑があります。
幕末〜明治の英学者尺振八の建てた
共立学舎も本所にありました。
ジョン万次郎に英語を習い、
英米派遣使節団にも同行しました
後の葛飾北斎を養子にしたことのある
幕府御用達の鏡師中島伊勢住居は
払い下げられた吉良邸の跡地だった
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柴又帝釈天-2012.12.2-
柴又帝釈天は題経寺という、日蓮宗のお寺です。 この巨大な「瑞龍松」は葛飾区の保存樹木に指定されています。 御神水は内殿奥の邃渓園(すいけいえん)の築山にある湧水です 水原秋桜子は葛飾が好きだったのですねえ。木々ぬらし石うかちつひに春の海
内殿の回廊は「彫刻ギャラリー」。仏話や四季の花鳥、干支等の詳細さ!ひとつひとつ見ていると日が暮れそうです。 帝釈天様がお住まいの内殿は「喜見城」。横山大観が描いた彫刻の下絵が屏風に仕立てられています。右の写真は日本一の大南天の床柱。 そして喜見城の奥にあるお庭、邃渓園。紅葉が鯉のいる池に映えて綺麗でした。
庚申信仰のしるしですね。邃渓園にあった、猿の石像と、境内でパフォーマンス中の、本物のお猿さん。 柴又といえばフーテンの寅さん。駅前には渥美清扮する寅さんが立っています。 商店街の人が「左足の親指に触ると良い事がありますよ」というので、そこだけピカピカになった指に私も触りました。
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泉岳寺-2013.4.7-
昭和39年、京子が小学校6年生のときのNHKの大河ドラマは「赤穂浪士」。大仏次郎の原作を読み、忠臣蔵の大ファンになった私はその年から13年間毎年、12月14日になると泉岳寺に行って義士の墓にお線香をあげていました。社会人になってから一度も行ったことの無かった泉岳寺に、26年ぶりに行ってみました。
4月の泉岳寺は討ち入りの日に比べると格段に人が少ないけど、線香の煙は絶えません 昔はなかった、
内蔵助の銅像
墓所入り口の門は、鉄砲州にあった浅野家の門を移築したものだそうです。 門の瓦。左は「泉岳寺」の文字と桐の紋右は「泉」という文字が彫ってあります。
浅野内匠頭
令光院殿前少府朝散太夫吹毛玄利大居士
内匠頭夫人
瑤泉院殿良瑩正燈大姉
大石内蔵助
忠誠院刃空浄剱居士
お預けになった家ごとに義士の墓が並びます。どの戒名にも「刃」と「剱」の文字が入っています。 私が昔ご贔屓だった岡野金右衛門
刃回逸剱居士
寺坂吉右衛門の戒名にだけは「刃」「剱」が無い
浅野内匠頭が切腹した田村邸の庭にあったという「血染の石」と「血染の梅」
吉良上野介の首をここで洗って主君の墓に供えたという「首洗井戸」
松平家お預けの、主税はじめ10人がこの下で切腹したという梅の木
泉岳寺は曹洞宗のお寺です。
本堂には「獅子吼(ししく)」の額
とっても綺麗な赤穂義士記念館。この向かい側に47士の木像を納めた建物もあります 堀部安兵衛が書いた歯磨屋かねやすの看板。「かねやすゆうげん」 左が大石主税、右が大石内蔵助の木像。主税は討ち入りのとき15歳。最年少でした。 看板、主税の木像、内蔵助の木像の写真は記念館で購入した絵葉書なのですが表はなんと!5桁の郵便番号枠が!
高輪大木戸--2013.4.7
泉岳寺から国道15号線沿いに300mほど北に行くと、
江戸時代、江戸の南の入り口だった、高輪の大木戸跡があります。

品川宿(現在の品川駅の南一帯)は東海道第一番目の宿場町です。
だから、お伊勢参りや大山参りの庶民たちも、参勤交代の西国大名(中仙道を使う場合もありますが)の行列もここを通りました。
道の両側に石垣を築き、大きな木戸があって、夜間は閉じられていました。
高札場でもありました。
明治になって木戸は廃止され、今は片側の石垣を遺すのみです。
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増上寺-2014.4.25-
芝の増上寺は徳川家の菩提寺です。
第2,6,7,9,12,14代将軍の墓所があります。
広い境内。三門(三解脱門)は2011年秋に特別公開されていました。 東京タワーを背負っているような本堂 浄土宗のお寺です。本堂にはご本尊の阿弥陀さま
青松寺-2014.4.25-
青松寺は愛宕山の上にあります。湧水が豊富みたいです。
青松寺は増上寺の近くにある、曹洞宗のお寺です。参拝したいと思っていたのは、勘助地蔵(やっこ地蔵とも)。美作津山藩の槍持ち奴だった勘助は、大名行列の先手で柄の長さが九尺、目方は十貫(三七・五キログラム)を越える大身の槍を掲げる力持ちでした。50歳を超え、さすがに衰えを感じて引退を考えたが後継者がいない、自家の槍を持つ者もいないと言われては主の恥となると考えた勘助は槍の柄を切って短くし、その責任をとり切腹しました。もう太平の世となっていた元禄に一介の足軽が身を犠牲にして忠義を果たしたというので評判になりました。勘助は酒好きだったので、お酒をあげて供養すると痔の病に効くそうです。
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巣鴨のお地蔵様-2014.5.3-
江戸六地蔵とは、江戸に入る街道の出入り口を守るお地蔵様のこと。東海道は品川寺、奥州街道は東禅寺、甲州街道は大宗寺、水戸街道が霊厳寺、千葉街道が永代寺、そして中山道の出入り口をまもるのがここ真性寺のお地蔵様です。 巣鴨のゆるキャラは「すがもん」 連休も人通りが絶えることなく、お姉さま方で混雑している巣鴨商店街。「おばあちゃんの原宿」なんて言われていますが、若い人だって多いですよ。
右は身代わり観音様の「お身ぬぐい」→
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船で行く大江戸散歩-2014.5.5-
集合はホテルニューオータニ。毎年大江戸散歩の企画をしています。今年は「商いの街・日本橋を歩く」水路を使った散歩です。 ガイドは「江戸・東京ときどきロンドン」という面白くてすごいブログを立ち上げていらっしゃる才色兼備の「月猫」女史。江戸検一級取得者です。 出発は日本橋。日本橋川から神田川を上って一ツ橋まで行き、日本橋に戻ってこんどは下って隅田川まで往復、というコースです。 こんな角度から日本橋を見られるのは乗船客だけです。
常盤橋は工事中。江戸時代、常盤の盤のアシが割れる「皿」は困ると、「石」にして常橋にしました。だからトキワ橋は両方の字でふたつあります。。 新常盤橋は「皿」で。橋の上は江戸通りです。高速道路の裏側ってこんな風に見えるんですねえ。 この上はJRの鉄道橋。JRになる前は国鉄(この名称の方が私たちの年代にはお馴染み)、その前は「鉄道院」。その時代のマークが残っています。 神田橋。この先は錦河岸。「錦」は一色家が二軒あったので合わせて「ニシキ」
後藤(五斗)と後藤(五斗)が修理してくれた橋が「一石橋」
雉子橋。江戸初期、このあたりに雉子のお囲い場があったことから。 江戸橋まで戻って今度は下流へ。この上は昭和通りです。なぜ江戸橋か?はわからないそうです。 江戸時代には橋ではなく、「鎧の渡し」だった、鎧橋。平将門、もしくは源頼義が鎧を沈めたらしい。 湊橋。帆船のレリーフがしゃれている、きれいな橋です。ここは新川・箱崎と、徳岡達司さんの話に出てくる辺り
水門がみえると「おー」という感じ。この向こうは亀島川 隅田川に出ました!広々として開放的な気分!スカイツリーが見えました。 カモメが泳いでいます。いざ言問わん都鳥。 豊海橋は乙女橋ともいいます。ガイドのハカマオー氏によれば、もとは「お留め橋」だったに違いないそうです。
お手伝い普請で各国の大名が作った石垣にはそれぞれの藩の刻印が刻まれています。石を割るためのノミを使った跡もありました。 石垣のところどころには水抜きの穴がつくってあります。これがないと石の間に水がたまって崩れる恐れがあるそうです。 これは日本橋の裏側の焼け焦げ。先の戦争の時この下で船が燃えて、橋のアーチの部分の石が焼けました。それが今でも残っているのです。 日本橋南詰西岸には高札場がありました。江戸時代は高い石垣が築かれていてそのうえに大きな高札があり法令などが書いてありました。
そして反対側、今は船着き場になっているところは心中の生き残りなどが晒し者にされた「晒場」があったそうです↓
↑「魚市場発祥の地」の碑。 道路元標そのものは道路に埋められています。そのレプリカ↓
↑日本橋の象徴、左が獅子右は麒麟。渡辺長男氏のデザインです。江戸時代の日本橋は擬宝珠がシンボルでした。そして「日本橋」も「にほんばし」も慶喜公の揮毫です。 ↓高速道路の間に道標を示すモニュメント。この真下に日本国道路元標が埋め込まれています。
江戸時代、一石橋付近は交通の要所で人通りが多く迷子も多かったそうです。これは迷子石。右側に尋ね人を、左側に預かり人を書いた紙を貼ったそうです。 ←常盤橋小公園内の渋沢栄一の銅像。彼は資本主義の父といわれるほど多くの会社の設立に関与しました。「銀行」という言葉を作ったのも彼です
三越はギリ神田明神の氏子。この左、高速の先は日枝神社の氏子。今年は神田明神のお祭りの年なので提灯が並び、お神輿が飾ってあります。 地下鉄三越前駅の構内に、「熈代勝覧」の複製が7mにわたって展示してあります。日本橋から今川橋まで東側の商店が忠実に描かれ、通りを行く振り売りたちや通行人が1600人以上も、事細かに描かれています。人の持ち物に書いてある字から、これが文化二年に作られたことがわかります。 日本で初めて建てられた洋風の銅像はここ靖国神社の中にある、この大村益次郎の銅像なのだそうです
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日枝神社-2014.5.5-
日枝神社は江戸の鎮守として江戸氏が山王宮を祀り、さらに文明十年(1478)太田道灌公が江戸の地を相して築城するにあたり、鎮護の神として川越山王社を勧請しました。山王権現社とも呼ばれます。江戸時代になってからは徳川家の産土神となりました。山王まつりは天下祭り。神田明神と一年交代で催される祭りは江戸城内に入って上覧されました。 昔はこんなの無かった!エスカレーターが出来ていました。これは便利。
日枝神社の神使は猿。庚申信仰もあるのでしょうが、さるは「魔去る」といわれ、魔除け、厄除けの象徴です。また、(日本)猿は集団生活を営み、子ザルを大事にするということから、夫婦円満、安産、子育てなどの神としても信仰されます。 宝物殿には家康公のご朱印状なども展示されていました。
両国回向院の善光寺出開帳-2014.5.19-
善光寺のご本尊は絶対秘仏ですが同じお姿のご分身仏が公開されていました。善光寺を開いた本田善光は蓮華台を作るお金がなく臼に阿弥陀様をお乗せしたそうです。だから善光寺のご本尊様は台座が臼です。
これは回向柱。善光寺のご開帳では松代町から回向柱が奉納されます。今回は陸前高田市の篤志家から寄贈された杉の木が用いられました。この柱に触れると仏様に触れるのと同じご利益があります。
回向院で戦後初めての善光寺出開帳が行われました。今回は東日本大震災復興支援を兼ねています。 善光寺出開帳は江戸時代何度か行われましたがいつも大変な人気、安永7年の人出は60日間で1603万人もあったそうです(山東京伝「半日閑話」)
善光寺のお戒壇巡り体験。本物より大分短いけど、暗闇の回廊を進み極楽の錠前に触れて極楽往生を願います。 今回は被災地からも仏様が。
これは陸前高田の松で造立されたおやこ地蔵菩薩。とても優しいお顔でした。
善光寺の「鳩字扁額」5羽の鳩(白い部分)と牛の顔(水色の線で囲った部分)が隠れています。
おびんずる様もお出ましです。しゃもじで自分の体の悪いところを撫でると治して頂けます。
以前回向院に来たとき写真を撮り損ねた山東京伝・京山兄弟の墓(左)と加藤千蔭の墓(右)。千蔭のお父さんの枝直のお墓ってどこにあるのかしら?
落語の「猫忠」のマクラに「両国に回向院というお寺がございまして、こちらに猫塚というものがございます」という一節がはいります。古くから動物の供養をしてきた回向院にはいろいろなペットの供養碑があります。 これは新しく作られた鳥居清長の碑。清長のお墓もかつては回向院にありました。
府中高安寺・大国魂神社・国府八幡宮-2014.6.9-
高安寺は曹洞宗のお寺。足利尊氏建立と伝えられる 享保年間に建てられた観音堂は市の重要文化財。 藤原秀郷を祀った秀郷稲荷神社。この奥に「弁慶硯の井戸」があります。 義経一行が鎌倉に行く途中写経し、弁慶が硯を洗ったという井戸らしい
大国魂神社は賑やかでした。境内でいろいろなイベントがあるみたいです 本殿では結婚式も行われていました。 宝物殿。日本一大きな太鼓が特別展示されていました。古文書や銅鏡、奉納刀などの常設展示物も重文級のものがたくさんありました。
「ふるさと府中歴史館」の国府資料展示室は「国府の香り」を嗅いだり、銅鈴の音を聴いたりできます。 大国魂神社から国府八幡宮への道は「京所(きょうず)通」と言います。優雅な名前です。 国府八幡宮は奥が深い森で、森閑としていて・・誰もいませんでした。 お宮はこの奥。灯篭と狛犬に守られて、静かにまします。多分神さまとしては理想の環境。
隅田川をさかのぼる:日の出桟橋から浅草吾妻橋までの水上バスツアー-2014.7.18-
通常、千住から下流を「隅田川」と言いますが、年配の方が言う「大川」「浅草川」や落語に出てくる「宮戸川」も隅田川のことです。河口から永代橋までを「永代川」厩橋までが「大川」吾妻橋までが「宮戸川」その先をの先を「隅田川」と呼ぶ人もいます。隅田川には河口から千住まで23の橋が架かっています。そのうち、勝鬨橋の手前レインボーブリッジから吾妻橋の先、東武鉄道橋まで計16の橋の写真を撮りました。
日の出桟橋から水上バスに乗り、浅草まで行きました ここにはお座敷船「安宅丸」が繋留されていました。家光が作らせた本物の安宅丸は1500トンもある大型船。大きすぎて使えず、結局解体されました。 出発!振り返るとレインボーブリッジが見えます。お台場のあたりです。 勝鬨橋は昭和15年完成の跳ね橋。シカゴ市にある橋がモデルだそうです。
現在は勝鬨橋が開くことはなく、「あかずの跳ね橋」となっています。 右岸は佃島。家康が摂津国佃村から漁師を呼び、漁業権を与えました。白魚漁が盛んで毎年将軍に献上されました。 左岸は魚河岸。これは江戸時代ではなく現代の魚河岸です。昔はこの辺りには橋は無く、「佃の渡し」がありました 昭和39年完成の佃大橋。この辺りの右岸は「鬼平犯科帳」の長谷川平蔵が提案し、責任者をつとめた「人足寄場」があったところです。
帆船のような美しいデザインの中央大橋は平成5年に完成した隅田川最新の橋 永代橋は元禄元年、将軍綱吉の50歳の賀に架けられました。およそ100年後の文化4年、深川八幡宮の祭りに押し寄せた人々で落橋、数百人の死者が出たと言われています。現在の橋は大正5年に完成したもの 隅田川大橋。昭和54年に架けられました。鮮やかな緑色部分が一般道で、真上を首都高9号線が走る2階建ての橋です。 清洲橋はドイツのライン川に架かるケルンの吊り橋をモデルに昭和3年に完成。右岸は深川。清澄庭園や、芭蕉が住んだといわれる芭蕉庵があります。スカイツリーが正面に。
清洲橋の先で右に分かれる水路は小名木川。家康が、千葉から塩を運ぶために作りました。万年橋とその先に水門が見えます。 新大橋は元禄6年の架橋。広重の「あたけ大橋夕立図」に描かれていることで有名。この絵は浮世絵に啓発されたゴッホが油絵の模写を残しています。現在の橋は昭和52年に完成したもの 首都高速道橋。昭和46年に完成した首都高6号線と7号線は、かつての「浜町の渡し」があった辺りを通っています。 江戸初期は隅田川の橋はずっと北の千住大橋だけでした。明暦3年の大火で火に追われた人々が隅田川に押し寄せ、大勢の死者が出たことから、万治2年に両国橋が架けられました。両の国とは江戸と下総のこと。本所や深川は当時江戸府内ではなかったのです。
総武線鉄橋。昭和7年、浅草橋駅と両国駅の間に架けられました。江戸時代には、この辺りの左岸に、激しい流れから土手を保護する「百本杭」が打ってあり、名所図会などにも描かれています。 右手にスカイツリーが見えます。右岸には高速道路の向こうに、両国国技館、江戸東京博物館、安田庭園などが見えます。国技館は明治42年辰野金吾設計のものが両国に建てられましたが、戦争で陸軍に接収され、空襲で焼失しました。 鮮やかな黄色の蔵前橋。江戸時代、この辺りの右岸には幕府が天領他から集めた米を収蔵するための「お米蔵」がありました。お米を担保に金を貸す「札差」は大名も及ばぬほどの富と権力を手にし、「通」を極める存在でした。彼らの風俗を「蔵前風」と言います。 蔵前橋は関東大震災後の昭和2年に完成しました。昭和29年には蔵前に国技館が作られ、昭和59年に再び両国に国技館が建つまでここで大相撲本場所が開催されていました。欄干に力士のレリーフがあります。架橋前は「富士見の渡し」で通行していました
厩橋は明治7年に時の政府が民費を募って架けたもの。それまでは「お厩河岸の渡し」が使われていました。現在の橋は昭和4年の完成。水面と橋の距離が短く、「危険徐航」と書いてあります。 駒形橋は昭和2年の完成。ここは昔「竹町の渡し」があった場所。蔵前橋から吾妻橋にかけては水量が多く、壊れて材木が流れると下流の橋に被害が出るのでなかなか橋を架けられませんでした。 安永3年架橋当時幕府が「大川橋」と名づけたのですが、人々は「あずまばし」と呼んでいました。現在のものは昭和6年完成。今は「吾妻橋」が正式名称です。 吾妻橋のたもとに水上バスの乗降場があります。ここで船を降りました。
この先に東武鉄道橋も見えます。ちょうど浅草を出発したスカイツリーラインの電車が通っていきました。 水上バス乗り場は隅田公園の入り口付近です。ここは水戸徳川家の下屋敷跡です。 浅草雷門の向かい側にある浅草観光センタービル8階の展望フロアからは雷門、仲見世通りと浅草寺が一望できます。 フロアの反対側には間近にスカイツリー、そして今降りてきた水上バスの乗り場やアサヒビールの社屋も見えます
 
 神田散歩鎌倉橋ー神田橋―神田明神―宮本公園ー昌平橋―万世橋マーチエキュートー神田須田町
-2014.11.24-
 
地下鉄大手町から淡路町方面に向かい、鎌倉橋へ。ここは江戸時代初期は材木や外堀の石垣などが荷揚げされた河岸があったところ  そして日本橋川沿いに神田橋方面へ歩くと、神田橋門の石垣跡と石垣の石が置いてあります。石には石垣を担当した大名の刻印らしきマークが。  さて今日の目的は神田明神裏の公園にある古民家なのですが、まずは神田明神へ。左の「天埜屋」さんは江戸時代から続く麹製造店  かつては麹室がこのように放射状に伸びていたそうです。今でも、明治37年に作られた麹室で、甘酒や味噌の製造に使用する麹を作っています
 
 本殿では結婚式が行われていてにぎやか。美人のお嫁さんでした  お散歩から帰ってきた神馬「御幸号」愛称あかりちゃんはお食事中  本殿裏の銭形平次の碑。台座は寛永通宝で、横の石は「八五郎」です  ここは荷田春満が江戸で初めて国学の教場を開いた「国学発祥の地」
 
 鎌倉河岸にあった、材木屋「井政」が宮本公園に移築され保存されています。今日はここで行われている「江戸を復元する 小さな江戸の世界」三浦宏作品展に来ました。三浦さんはもともと檜もの職人。あちこちから頼まれて正確なミニチュアで再現した江戸の建物の展示を拝見しに行きました。  ↑は棟割長屋。部屋の中↓の小道具も緻密に再現されています.。1寸ほどの畳は岡山に特注したそうです この方が三浦さん。後ろは呉服屋の大店。雨戸や中の箪笥の開け閉めもできるし、反物や豆粒大の大福帳もあります。登場人物を想像しながら作るのだそうです。「ここで弁天小僧がね、こんなぬるい茶が飲めるかってパッと捨てるでしょ、そのお茶道具がここにあるんだよ」と説明してくださいました。  ↓左は二八蕎麦の(担ぐ)屋台。右は天ぷらの屋台。どちらも15cmほどですが本物と同じに作ってあります。
 
   
昌平橋は車道と歩道が別の橋になっている少し変わった構造。 江戸時代筋違門があったここから上野広小路までは江戸城から上野寛永寺への「おなり道」でした。  昌平橋から御茶ノ水方面。左に中央線、右の青い鉄橋は総武線、聖橋の手前にメトロ丸の内線が見えます。鉄道ファンはここで3路線同時に車両が通過するのを待ったりするのです  昌平橋から東へ歩きます。左は昌平橋の親柱、右は万世橋の親柱。この横にあった交番が、今は江戸東京たてもの園に移築されています。 旧万世橋駅跡はつい最近まで東京都交通博物館でした。平成25年秋から、ここは「マーチエキュート万世橋」となり洒落たお店や、駅の遺構を生かした建物に生まれ変わりました。
 2年前、昭和2年建築のお店が火事になって今年復活した神田須田町の「やぶそば」。テレビのニュースになったので、大人気は今も続いて連日行列だそうです。この日は行列は見えませんでしたけど。  ここはアンコウ料理専門店の「伊勢源」。「千客万来」の看板は多くの人に食べてもらえるようにフナムシの虫食い板を使ってあります。バラエティ番組で取り上げられた翌日からスゴイ行列だそうです。  私が神田っ子の知人に連れて行っていただいたお蕎麦屋さんはやはり老舗の「まつや」。先ず「お酒」と注文し小皿の縁のなめ味噌をなめながら、燗酒をやります。そして暖かい蕎麦がきを少しちぎってはそばつゆにつけていただきます。そのあといよいよメインのざる蕎麦はゴマだれでいただいてみました。うーん、そばツウになった気分。  席のすぐそばでかっこいい若旦那が蕎麦をうっているところを「撮らせてください」とお願いしました。
 
上野公園(上野東照宮・花園稲荷神社・五條天神社) -2015.1.25-
   
 3年前に来たとき修復中だった上野東照宮。去年修復がおわっていたので雪辱戦です  今日は大幕の絵ではなくホンモノ 修復成った本殿はピカピカです  透かし掘りの塀(透き塀)には精巧な彫刻が施されています。
 透塀下部は様々な生き物の彫刻があり、見ていて飽きません。左上からイカル、 アオジ、カワラヒワ、タヒバリ、メジロ、チョウゲンボウ、ウミネコ、アカハラ。  これは唐門。柱の横には左甚五郎の龍。毎夜水を飲みに動くらしい。  唐門の袖の外側は金・銀鶏鳥で、内側に彫ってあるのは諌鼓鳥(かんこどり)
   
不忍池にそった道から坂を上がると、花園稲荷神社と五條天神社の参道があります。  花園稲荷は「穴稲荷」、又はこのあたりが江戸時代忍岡と呼ばれていたことから「忍岡稲荷」ともいいます。  五條天神は医薬の神である大巳貴命(オオナムチ:大国主命)がご祭神。鷽替えの神事や、今では珍しい宝舟の神事が行われます  実は初天神の今日は鷽替えの神事の日。朝8時から100人ほどが並んで鷽のお札をいただいたそうで、10時にはもう「終了しました」そうです。
 
 豊川稲荷の七福神と、ネコの美喜井稲荷
豊川稲荷東京別院は、青山通りに面しています。赤い提灯のところ。お稲荷さんと言っても神社ではありません。曹洞宗のお寺です。 境内に七福神があります。
まず大黒天。インドのヒンズー教の神様です。
福禄寿は中国の道教の神様
この日は初午で、人出が多かったです。
布袋尊は中国、仏教の僧侶です。
背負っているのは堪忍袋?それなら大きい方がいいですよね
毘沙門天はインドの神様。四天王の多聞天のこと。独立している場合は毘沙門天と呼ぶそうです。  弁財天もインドの神様で、ここは銭洗い弁天で池もあります。お供えしてあるのは玉子です。  恵比寿尊は唯一の日本の神様。神無月には出雲に行かず、お留守番をしているんですって。 長老尊は中国道教の神様。福禄寿と同じだから、吉祥天女や猩々にいれ代わっている七福神もあるそうです
 あれ?ビルの二階の入り口(?)に何やら祠が。  「美喜井稲荷」と書いてあります。階段を上ってみました。  欄間の彫刻は猫です!  今日はさんざん狛狐を見て来ましたが。ここはかわいい狛猫。
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王子飛鳥山公園
王子の飛鳥山は、江戸時代の桜の名所。ちょっと江戸から遠いので花見の女性や子供は少なかったみたいです。
でも眺望がよく、駒込、染井の植木を見に、また、近くに「名主の滝」があり、秋は紅葉もきれいで、虫鳴きを楽しみに、
そして王子のお稲荷さんのご利益をいただきに、と江戸っ子が訪れる郊外の行楽地でしたので、大きな料亭もできて賑わっていました。
飛鳥山に登るのに、なんとモノレール(あすかパークレール)ができています。カタツムリみたいな形をしているので「アスカルゴ」と呼ばれます。 終点まで約2分。今は都会の真中ですが緑ゆたか、公園内には多目的広場や児童エリア、博物館、渋沢庭園、飛鳥山古墳などがあります。 飛鳥山の頂上から。江戸時代は広い台地や植木の数々、森林に川、滝などが見えたはず。  今は目の高さに京浜東北線のホーム、地上は、既に懐かしさまで漂う都電(路面電車)が走っています 
これは佐久間象山の「桜の賦」の碑。日本の桜は遠く中国でも称えられているというような事が読めないけど書いてあるらしい。  こちらは「飛鳥山の碑」。お花見の浮世絵に 石碑が描いてあったらそれは飛鳥山です。江戸川柳:「この枝を折るなだろうと石碑みる」誰も読めなかったんですね。 広場には懐かしい都電。そうそう、こんな色だった!運転席を覗き込んで運転手さんの手元を眺めていたものです。 話しかけて運転手さんの邪魔したこともある気がする・・ それからデゴイチも展示してありました。昭和18年製造。昭和47年まで、関西や新潟、東北を走っていました。総走行距離は200万キロ近くと書いてありました。
 飛鳥山には3つの博物館があります。紙の博物館・飛鳥山博物館・渋沢栄一史料館です。 今回は渋沢栄一史料館だけ入りました。埼玉の誇る偉人 「経済の父」渋沢栄一。「道徳経済合一」の考え方は現代にこそ必要に思えます。 ここが飛鳥山の頂上三角点
標高25,4mです。 港区の愛宕山とほぼ同じくらいですね。
2009年に運転が開始されたアスカルゴは乗車無料。運行は午後4時まで。4,5月は女優の賠償千恵子さんがアナウンスを担当していました。 
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 両国・野見宿禰神社
 
相撲と言う言葉が最初に使われたのは日本書紀。タイマノケハヤと相撲をとる為に出雲国から召喚されたのが野見宿禰。勝って領地を貰いました この神社、あちこち探したのですが、 お賽銭箱が見当たりません。そんな欲のない神社は初めて。いいのかなあ? 初代明石志賀之助から第46代朝汐太郎まで、歴代の横綱の名が刻まれた石碑があります。  第47代柏戸からはお隣の石碑です。第66代若乃花勝を最後に5人ずっと外国人横綱です.。日本人がんばれ〜! 
 両国国技館で本場所が行われるときは場所前に横綱、関取衆がお参りに訪れるそうです。
それでお賽銭いらないのかなあ?
野見宿禰神社のお隣の緑公園。この辺りは津軽家上屋敷があり、火の見櫓に板木でなく太鼓が下がっていて、太鼓で火事を知らせたそうです。 この近くに葛飾北斎が住んでいたのでここは「北斎通り」 と言います。歩道に立っている灯篭には北斎の版画がついていました。 高いビルも増えましたけど、スカイツリーは目の前です。老舗「東あられ」のお店には、「スカイツリーせんべい」と「北斎あられ」 がありました。
 
 平河天満宮と市ヶ谷亀ヶ岡八幡宮・茶ノ木稲荷
平河天満宮 
 
千代田区の中心にある平河天神。国立劇場や最高裁判所の近くです。1478年、太田道灌が江戸平河城梅林坂におまつりしたのが最初です。 銅製の鳥居は神田鍛冶町の西村和泉という鋳物師の作。千代田区最古の鳥居だそうです。左右の台座には4頭ずつの獅子が乗っています 天神様らしく、撫で牛や梅ノ木があります。嘉永5年の菅原道真950年忌開帳の宣伝チラシにある奉納物が沢山残っていました。 左は雲龍堂充圀(手習いの師匠)の門弟らが寄進した 石灯籠。右はお百度を踏む時の目印となる百度石。高橋丈鯉の銘があります。
享和元年製の狛犬が嘉永3年の火災で壊れたので再製作したそうです。 麹町に住む常磐津の師匠岸沢右和佐の門弟が寄進した撫で牛  これも嘉永5年の刷り物に描いてある筆塚。書家の寄進ですね。 力石は若者の力試し用。「天竜石」「十店助次郎持之・同新助」 とあります
 市ヶ谷八幡宮・茶ノ木稲荷
市ヶ谷亀ヶ岡八幡宮も太田道灌が鎌倉の鶴岡八幡宮の分霊を勧進して作った神社。鎌倉の鶴に対して「亀」ヶ岡としました。 ここの鳥居も銅製です。文化元年建立。額の字は酒井雅楽頭の書で、八の字は向かい合う鳩の形をしています。  いくさ上手だった道灌の軍配団扇が宝物として残されています。急峻な坂の上にある、都心とは思えない静かな空間です。 たくさんの力石。石には重さと持ち上げた者の名前、あるいは寄進者の名前、寄進された年の刻まれたものもあります。 
境内の末社には、出世稲荷(上の写真)、金刀比羅宮、そして江戸時代の一時期に大流行した茶ノ木稲荷があります。  江戸のパワースポットを紹介した「江戸神仏願懸重宝記」に眼病平癒にご利益のある茶ノ木稲荷が載っています。 実はこの地は、八幡宮ができるまでは弘法大師開山のこの稲荷神社が本社でした。ある時神使の白狐が誤って茶の木で目を突き、それ以来崇敬者は茶を控える様になりました。その後、特に眼病の人は7日もしくは21日間茶を断って祈願すると平癒すると評判になりました。今も眼病平癒を祈願する絵馬がいっぱい。
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 神田のお稲荷さんめぐりと街歩き
「江戸に多いもの、伊勢屋、稲荷に犬のくそ(失礼)」と言われるほど江戸にはお稲荷さんが沢山ありました。
神田周辺には、そんな江戸が残っていて、ちょっと歩くとお稲荷さんがあります。
「江戸三森(他は日本橋椙森・新橋烏森)」のひとつ柳森神社。秋葉原駅近く、神田川に面しています。  太田道灌が江戸城の鬼門除に植樹した柳の森に京都伏見稲荷から勧請した神社。 境内には昔は富士塚もあったと伝えられ、たくさんの富士講の石碑があり、何となくこんもりしています。 お稲荷さんなのに狸?摂社のひとつ福壽社の守り神が「他」を「抜」く狸。で、「おたぬきさま」と呼ばれます。 
 
徳川綱吉公の生母桂昌院が信仰した福壽稲荷。八百屋の娘から将軍お手付きの女中になり、お世継ぎを出産し、正一位までなった出世にあやかりたいと、大奥の女性たちにも人気でした。「他」のお中臈を「抜」くために。 敷地は広くないのに、福壽稲荷の他金毘羅社、秋葉さま、明徳稲荷、水神厳島神社と摂社が沢山ありました  千代田区の有形文化財に指定されている力石群。力自慢の若者が争って持ち上げたのでしょうか?
神田は小さな神社が沢山残っています。多町の松尾大社 (お稲荷さんじゃないけど)。多町は江戸時代青物市場があり、賑やかでした。 小さな祠だけど鳥居は立派な司町の和光稲荷。この近くに齋藤月岑住居跡の碑がありました。   須田町の延壽稲荷。土井能登守の屋敷神だったそうです。老齢のイチョウに青葉の木が巻き付いていました やはり須田町にある出世稲荷 は連雀町から遷座されたそうです。連雀町も青物市場のあったところです。
戦災を免れた須田町近辺には昭和初めの建築物が残っています。この「山本歯科医院」の建物は「景観まちづくり重要物件」で、国の登録文化財です。 甘味処「竹むら」は残念ながら日曜祝日はお休み。ここはアニメ「ラブライブ」の舞台となったので、アニメ好きの若者でいつも行列だそうです。  以前にも紹介したあんこうの専門店「伊勢源」。ここもテレビ番組で紹介されてから行列が絶えないらしいです。  「まつや」は故池波正太郎も愛したお蕎麦やさん。のど越しのするりとした細いお蕎麦は。濃いのに辛くないおつゆと相性抜群。絶品です。 
 
 創業は明治17年だそうです。壁には年季の入ったこね鉢が飾ってあります カレイの形の小皿になすりつけてあるなめ味噌をちょびっとずつ口に入れながら、熱燗を頂く・・粋でしょ?  蕎麦がきはお湯に泳いでいるのを少しずつちぎってそばつゆにつけていただきます。これも日本酒に合います。  お店の人気メニュー、湯葉わさび。焼き鳥や ぼうだらの煮つけも美味しかったです。最後のお蕎麦はごま汁で。
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 待乳山聖天と今戸神社 
ちょっと高台になっています。「待乳山聖天」と呼ばれていますが本龍院というお寺。浅草七福神のうち毘沙門天のお寺です。 この築地塀は江戸時代の名残を留める唯一のもの。広重の錦絵にも描かれて居ます。今はスカイツリーとの対比が面白い。 お寺のシンボルは巾着と大根。巾着は金運を招き、大根は身を清浄に保つ食べ物なのでお供えされます。  本堂横の水盤も巾着の形。江戸一番の賑わいの浅草の繁華街のお隣ですから商人達の信仰を集めたことでしょう 江戸時代中期に流行した屋根型の笠のついた宝塔。銅製のものは珍しく、台東区有形文化財になっています。宝きょう印塔というものだそうです。 
お百度石。待乳山聖天の大根は二股大根で、夫婦和合を表します。お百度を踏んで良縁を祈願した人もいたかもしれません これは「糸塚」。元治元年、杵屋六左衛門が寄進した、ということは、お三味線の糸ですね 。 待乳山を愛した戸田茂睡の「あはれとは夕越へてゆく人もみよまつちの山にのこすことのは」の石碑がありました。 石段にも巾着と二股大根が刻まれていました。
待乳山から今戸神社に向かう途中通る「聖天橋」。山谷堀にかかっていた橋です。今は堀は埋められ、ご覧のような公園に 。
 聖天様のすぐ近くに今戸神社があります。11世紀に勧請された神社。浅草七福神の福禄寿が祀られています 今戸周辺は古くは瓦、それから日用品の土器などの「今戸焼」で有名です。招き猫の始まりもこことのこと。  江戸の終わりに貧しい老婆の夢枕に愛猫が現れて今戸焼でネコを作れば福徳が授かると言ったのが始まりだそうです 「今戸焼発祥の地」の石碑と並んで松本良順の治療を受けながらもこの地で没した沖田総司の碑がありました。  このねこちゃんを写メに撮り、待ち受け画面にして、毎日お願いするとイイコトがあるらしいです 
境内のあちこちに可愛い猫ちゃんの人形が無数に置いてありました。 歴史ある人気の今戸焼も今では一軒しかお店が無いそうです。日曜は休業でした。  ウィンドウをのぞいたら 狐がいっぱい。落語「今戸の狐」は、こんなのだったのかな? 神社で買い求めた招き猫。♂♀のペアになっていて良縁もしくは夫婦和合を招くのです。 可愛いお守りは「カイウンヤクヨケキンウンよ!」と、社務所の女性がひと息に紹介してくれます。
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 青淵(せいえん)文庫と晩香廬(ばんこうろ)
渋沢栄一の別荘があった飛鳥山。「アスカルゴ」という愛称のモノレールが設置されています。飛鳥山は桜の名所ですが、初夏は紫陽花がきれいです。  渋沢栄一晩年の居宅や本部として使われたいくつもの建物があったそうですが、戦災で、この二つ以外は失われました。↑は青淵文庫  青淵文庫は渋沢栄一の80歳の誕生日に渋沢財団から送られた建物。一階は応接間、二階は書庫になっています。  応接室のステンドグラス。渋沢家の家紋の「丸に違い柏葉」や龍ををモチーフにデザインされたもの。  青淵文庫も晩香廬も国の重要文化財に指定されています。大正時代の建物らしい、モダンな、しかし落ち着いたインテリアです。 
青淵文庫のテラス。柱の彩色された陶板タイルも家紋をモチーフにしています。 テラスの柵は「壽」。ここも晩香廬も渋沢栄一の長寿を祝う意匠でいっぱいです。 晩香廬は栄一の喜寿を祝って清水建設が送った建物。内外の客の接待に使われました。  外灯。暖炉のフックや洗面所の灯りも遊び心に満ちたデザインでした。(内部は禁撮影) 焼け跡から他の建物の土台の煉瓦や石が出土しています。 
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 芝丸山古墳(東京の真ん中にある貝塚と古墳)
芝公園の中、東京タワーやプリンスホテルと増上寺を挟んで反対側に、芝丸山古墳があります。ここには縄文時代後期のものとされる貝塚もあります 全長106m、都内最大級の前方後円墳です。5世紀頃のものと推定されていますが、江戸時代以降かなり削られており、副葬品や遺体も不明だそうです。  古墳の頂上には、1882年に東京地学協会が伊能忠敬の功績を称えて建てた「伊能忠敬測地遺功表」(現在のものは二代目)があります。 増上寺の裏鬼門を守る「円山随神稲荷」。増上寺のご本尊を桑名からお迎えした時にお伴をしたお稲荷さんなので「随神稲荷」 
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新橋烏森神社 
 
JR新橋烏森口からすぐのビルの谷間にあります  千年前、将門征伐に行く藤原秀郷が勧進した時と伝えられる。江戸三森神社のひとつ。今の社殿は昭和46年建立  今日は初午でしたが、特別なイベントは行われていませんでした 
 
 小石川後楽園ふたたび
 園内の「涵徳亭」では庭園を眺めながら食事ができます。 涵徳亭の手前のひと叢。これが徳川の御紋の葵。葵の御紋は御三家で少しずつ異なります 後楽園は日本各地や中国の名所を模して作られています。これは廬山。小高い丘です  廬山の左に回ると、大堰川と嵐山の渡月橋に見立てた流れと橋があります。  大名庭園に良く作られる中国西湖の堤は、後楽園のものが最初です。 
大堰川の奥に並んでいる屏風岩。遠近法を上手に使って景観に奥行を作りだしています。 この横を登って行くと京都清水の舞台がありましたが関東大震災で焼失したそうです。 水戸光圀公は長崎から明の学者朱舜水を招き、庭園を造りました。洒落たデザインの石畳は中国式。  兄が居ながら徳川家嫡子となった光圀公が、我が身と重ねあわせ、伯夷叔斉の像を安置した得仁堂。  水に写った形が満月のかたちになる、円月橋。朱舜水の設計によるものだそうです。 
この横には三河の八橋を模した、稲妻のような並べ方の橋板が設けられます。ただ、こちらはカキツバタではなく花ショウブ。 公家の出である嗣子綱條の夫人に農民の苦労を教えようと作らせた水田。現在は近くの小学校の生徒が稲を作っています 九八茶屋の内部。天井は網代、三方向の窓はそれぞれ異なる格子が入っています。庭園散策の人のお休み処です。 三保の松原を模した松林。昔は沢山植えられていて空も見えず、光圀公自慢の松林だったそうです。  滋賀琵琶湖を模した池の中央には「宝来島」。亀のような 形をしています。手前の石垣部から船で渡ることも出来たそうです。
 内庭の池は平成23年の震災後崩れていた橋も修復され、蓮が覆い、蓮の花も咲き始めていました。 木曽の山道を模して作られた歩行路は、「寝覚ノ床」に似せた景観が作られ、「寝覚の滝」が落ちています。  子孫繁栄を願って植えられた種の多いザクロ。家康公が御三家を作ったのも徳川の血統を絶やさない為 徳川の御紋はご存知の通り「三ツ葉葵」ですが、門扉の家紋は六ツ葉の葵です。裏紋として使われたもの 庭の周囲の塀の瓦の御紋も六ツ葉葵。葵は本来二葉のもののみ、三ツ葉は家康公の案だそうです。 
 
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神楽坂光照寺   
光照寺は慶長8(1603)神田元誓願寺町に建てられましたが、正保2(1645)牛込城址に移転しました。光照寺の名は開山の僧心蓮社清譽上人昌故光照に由来します。開基は徳川家康公の叔父松平治良右衛門。
 
 
光照寺の鐘は廃仏毀釈で取り潰され、S12に再興されたが空襲で焼け、現在の鐘はH5再建のものです。 
 江戸後期に起こった狂歌ブーム。はじめは朱楽管江門下で、後に唐衣橘州門下で狂歌を学んだ狂歌師便々館湖鯉鮒の墓もここにあります。太田南畝とも親交があったそうで、南畝の筆による狂歌碑が新宿のお寺にあります。
 
神楽坂光照寺は親戚や両親のお墓があるので昔からしょっちゅう行っていたのですが、こんなにいろいろ面白いものがあるとは!  
 光照寺は庄内藩の支藩松山藩酒井家の菩提寺でした。酒井家寄進の手水(上)には「元禄九年丙子八月十日」の文字。下の手水も変わった形ですよね。こちらの寄進者の名前は不明
 ↑は酒井家の墓石。7代忠良公まで40基ほど。 2011年の地震で被害を受けたため、この一角は現在立ち入り禁止です。8代当主からはカトリックに改宗したので今は檀家ではないそうです    
太平洋戦争末期の空襲で光照寺は本堂も焼けましたが、ご本尊は、当時一番大きかった相馬屋さん(かの漱石も原稿用紙を買っていたという老舗文具店)のお墓の中に避難していただき、無事だったそうです。 
墓所への入り口の石柱に、焼け焦げた跡が残っています(右)
 
 日本出版クラブ会館いまむかし 
長寿のイチョウ  天文屋敷跡 
   光照寺の向い、日本出版クラブ会館にあるイチョウは樹齢250年以上。イチョウやシイの木は水分を多く含むため、空襲でも焼け残り、被災して逃げた人々が戻ってきたときの目印となったそうです。
  もとは牛込氏の城、家康公入府で廃城となりました。幡随院長兵衛が旗本水野に殺されたのがこの辺り(伝聞)。享保16年の大火後、この地一帯は更地とされ、火除地(赤で囲った部分)になりました  ↑その火除地に明和2年建てられた天文屋敷。天文方佐々木文次郎が宝暦歴の修正を行いました。天明2年、光照寺の大樹(左のイチョウかな)が観測の妨げとなり浅草鳥越に移転しました。
平成30年、日本出版クラブ会館は取り壊され、跡地にはマンション建設中。令和2年 神田神保町に立派なライブラリを備えたオフィスビルができているそうです。光照寺の法事のあとのお斎はここのレストランが最高だったのですが、残念。
 
 
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 板橋散歩
板橋区赤塚の松月院は赤塚千葉氏の菩提寺。家康公からご朱印地を寄進されています。由緒あるお寺で、↑の石柱には「不許葷(クン)酒入山門 」韮と酒持って入っちゃだめ 幕末にはこの近く徳丸ヶ原で高島秋帆が西洋式砲術の訓練を行い、ここがその本陣とされたので、境内には大砲型の顕彰碑が建っています。  鐘銘によれば14cには大伽藍だった寺。江戸時代は文人らが鐘の音を聴きに訪れ、また「遊歴雑記」には阿弥陀如来像が紹介されているそうです 境内には樹齢100年といわれる古木のヒイラギがあります。上部の葉は丸く、下部の若い葉は尖った鋸葉をもっている珍しい樹木です
松月院からすぐ、赤塚山乗蓮寺は元は仲宿にあり吉宗公鷹狩りのお膳所でもありました。朱印地も寄進され、正門には葵の紋がついています  大震災や戦災が起こらないようにという願いを込め、S52年に「東京大仏」が建立されました。奈良、鎌倉につぐ3番目の大きさの大仏さまです  染井にあった、津藩藤堂家下屋敷の庭の石像が8体ほど、ここに寄贈されています。
↑は文殊菩薩像。 
乗蓮寺北には赤塚城址公園があります。本丸から下ったところにある溜池は城を守る湧水池だったと思われます。区民の憩の場となっています 
 
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 赤坂離宮迎賓館
迎賓館はご存じの通り、もと紀州徳川家の中屋敷。廃藩後用地は皇室に献上され、M42東宮御所として洋館が建設されました。設計はジョサイア・コンドルの4人の弟子のうちの一人片山東熊。ともかく地震に強い建物をということで、建物全体の3分の1は壁材ではないかというくらい。最も薄い壁でも30cm近い厚みがあるそうです。関東大震災にもびくともせず、シャンデリアが落ちることもありませんでした。戦後は国に移管され、S49に修復を経て迎賓館として国賓を迎える外交の舞台となりました。H21には本館、正門、噴水等が明治以降の建物としては初めての国宝に指定されています。内部は撮影禁止なので下段の写真はパンフレットです。
 
四ツ谷駅に集合し、駅そばの中華料理店でランチをとってスタート。↑の正門ではなく西門から入ります  入園するのに金属探知機による手荷物検査が必要でした。ざんざん降りの雨の中、律儀に噴水が噴出中 先ず和風別館「游心亭」でガイド付見学。前庭や天井、壁、床の説明から様々なエピソード等、興味深く聴きました 次に本館へ。すごい雨でしたが、中に入るとバロック調でありながら和の意匠をちりばめた豪華な賓室は別世界 本館前で外国人旅行客と思しきご夫婦に頼んで集合写真を撮りました。 
 最も格式の高い「朝日の間」は東宮御所として建てられた時は食堂だったそうです 馬車に乗った女神が朝日の中を行く天井絵が朝日の間の由来です。H31に修復完成  「花鳥の間」には30枚の七宝焼の花鳥が飾られています。シャンデリアの上は油彩画。   游心亭の主和室。晴れていると真下の池の水が天井にゆらめきを映し出すそうです 茶室は外国の賓客にも茶道の雰囲気を楽しめる様にサイズも造りも工夫されています。 
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秋の古河庭園・牧野記念公園(北区・練馬区)-2023.11.9-
秋のバラフェスティバル中の古河庭園 。秋のバラは春より小ぶりですが色も香も濃厚です 「プリンセスミチコ」は皇太子妃だった上皇后さまに捧げられたバラ。蛍光色のような朱 愛子内親王に捧げられた「ロイヤルプリンセス」は甘い香りが強く漂っていました  美しいピンク色のシャルル・ド・ドゴール  日本庭園では雪吊りの作業中でした。上は心字池。この後紅葉の季節になります  色づいている樹木もありました。樹下には可愛いドングリが沢山落ちていました。 
ずっと行ってみたかった牧野記念庭園。NHK朝ドラ「らんまん」は牧野富太郎がモデルです  上は「いちりんそう」の名札が差してありましたが「ノコンギク」のようです 上は「ヒトツバヒイラギ」の花。柊特有の葉っぱのギザギザもトゲもない珍しいものです  前回の特別展チラシにあったリンボクの植物画  再現された書斎には「牧野博士は今庭にジョウロウホトトギスを見に行きました」と札が!  ドラマにも出てきた仙台屋の庭の「センダイヤザクラ」も博士の命名。ねりまの名木です
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 新橋―浜松町竹芝散歩(港区)-2023.11.23-
 港区観光大使で芝会議・まちの魅力発掘部会サブリーダーのN氏は江戸文化歴史検定一級(私は彼の先輩なのだ、エヘン)の知識を生かして港区のボランティアガイドとして活躍中。今回、江戸検のお仲間に、新橋〜浜松町竹芝の面白いスポットを案内して下さいました。この周辺は少し前から再開発が行われることが多く、その際に鉄道や大名屋敷の遺構が発掘されることで、歴史的に意義のある発見が相次いでいます。
 
集合は新橋SL広場。このC11 292型SLは1972年に鉄道開業100周年を記念して設置されました 烏森口から反対側に渡ると「鉄道唱歌の碑」♪汽笛一声新橋を〜。399番プラス満州まであるとか  旧新橋停車場跡。明治5年に建てられ、震災で焼失。平成3年の発掘調査の結果再建されました 汐留通りに戻り南下すると左手に近代的な日テレタワーが現れます。周囲も高層ビルだらけですけど。  ここはもと陸奥仙台藩伊達家の上屋敷。↑は案内板にあった広重の「江都勝景」。文政7年の大火後なので冠木門
新橋4丁目にある日比谷神社。伊達家の敷地内にありましたが、維新、鉄道敷設、戦争、再開発で移転また移転の運命  おやここは日本?道路は石畳、ビルにはバルコニー。この辺りをイタリア風にすることで新橋の個性にしています 慶應義塾、攻玉社の学塾跡。どちらも後に移転。「発祥の地」は築地なのでこれは「命名の地」だそうです 海側に向かう道に面して赤穂藩森家の石垣が一部残っています。境堀の護岸のもので、もう少し高さがあったようです  東新橋に一文銭などの銭を作る芝新銭座がありました。JRのガード下張り紙にのみ、その名が残っています
ガードをくぐるとイタリア公園を経て東京湾に出ます。↑竹芝ふ頭からのウォーターフロントのタワマン群  竹芝ふ頭公園には船に関する文字タイルが。「舟偏に義」は「フナヨソオイ」、舶の訓読みは「オオフネ」  南に目をやるとレインボーブリッジやお台場。この上の展望台は元旦には初日の出撮影の人で大混雑とか  浜松町駅に向かう歩行者デッキがあります。首都高速道路も芝離宮恩賜庭園(↑)も上から見下ろせます  なんと!神戸や長崎からも江戸検のお仲間が参加して歩きました。浜松町駅近くの居酒屋で宴会です
上のコースは Youtubeで「教えて!港区ボランティアガイド」と検索すれば、N氏と文化放送の西川文野アナが港区を散歩する動画で見ることができます。第1回〜第5回まであります。Nさんのわかりやすい解説に女子アナも納得!
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 皇居乾通秋の通り抜け-2023.12.3-
一般公開最終日。二重橋濠の横を通り、手荷物と身体検査を受けて入りました  坂下門から。東御苑や宮殿参観コースは歩いたことがありますが、ここは初めて  今年は紅葉が遅く、実は緑が多かったけど紅葉している樹は青空に映えて綺麗  蓮池参集所。陛下が賢所清掃奉仕団の人達から挨拶を受ける建物だそうです
秋に咲く桜、コヒガンの仲間のシキザクラが咲いていました。  明治6年女官部屋からの出火で西の丸御殿は全焼。↑は明治20年築の局門。 新しい宮殿が建てられたのは明治22年でした。↑は明治20年に建てられた門長屋 乾門から退出。北の丸のイチョウはすっかり色づいていました。 
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