続・江戸文化歴史検定Ⅱ


目次
2019.6.16 江戸博特別展「江戸の街道を行く-将軍と姫君の旅路-」 
2019.4.21 江戸楽アカデミー
2019.4.11 中川船番所資料館 
2019.4.4 関宿(せきやど)城博物館
2019.2.28 奇想の系譜・江戸絵画ミラクルワールド-東京都美術館 
2019.2.17 練馬ふるさと文化館特別展講演「錦絵と古文書で探る幕末維新」 
2019.2.7 河鍋暁斎 その手に描けぬものなし-サントリー美術館-
2019.1.31 江戸東京博物館・企画展「春を寿ぐ-徳川将軍家のみやび-
2019.1.24 かわいい浮世絵おかしな浮世絵-太田記念美術館- 
2018.12.6 渋沢平九郎-幕末維新、20歳の決断-(渋沢栄一史料館)
2018.10.21 台東区文化財講座:小噺で巡る浅草寺
2018.10.18 戸定歴史館企画展-忘れられた維新 静かな明治- 
2018.9.23 江戸楽アカデミー 
2018.6.24 郵政博物館-幕臣たちの文明開化-  
2018.6.21 戊辰戦争・菊と葵の500日 
2018.4.30 府中市美術館「リアル」 
2018.4.15 国立公文書館「江戸幕府最後の闘い」 
2018.4.15 江戸楽アカデミー「小噺でみる江戸の女性」 
2018.4.8 獏塾友の会赤坂散歩
2018.2.25 江戸楽アカデミー「武鑑を読もう!」
2017.10.26 松江城と江戸城 
2017.10.5 小栗上野介終焉の地
2017.9.24 徳川将軍家へようこそ 
2017.9.18 水戸弘道館と徳川ミュージアム  
2017.8.12 村上藩戊辰戦争史跡とイヨボヤ会館 
2017.8.11 長岡市北越戊辰戦争伝承館・栄凉寺と牧野家 
2017.8.1 只見町・河井継之助記念館 
2017.7.13 韮山反射炉と江川邸・三島の街 

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 江戸の街道をゆく~将軍と姫君の旅路~
―江戸東京博物館特別展―
今回の特別展の入場券には↑こんなおまけが付いてくるんです。  組み立てると「黒漆丸十紋散牡丹唐草蒔絵女乗物」が出来上がります。  女乗物とは高貴な女性が乗る駕籠。金蒔絵の外装と装飾画の内装は動く御殿のよう。 
   
家光公の日光社参を描いた「 日光東照社参詣図屏風」
「楽宮下向絵巻」は12代将軍家慶公に嫁ぐ為下向する楽宮喬子女王の行列の様子  「葵牡丹紋付油単」油単とは道具の被布。篤姫の御印といわれる若竹紋が付いている  江戸経済の中心。広重の「東都名所日本橋真景幷ニ魚市全図」のクリアファイルです
上はチラシからの転載(右上の島津家の女乗物のみ写真撮影可)。このほか、参勤交代や日光社参に係る絵図、文書やルートの説明、和宮下向の行列を描いた絵図や婚礼道具、寛永11年の家光公の上洛。230年のちの家茂公の、文久3年から慶應元年の上洛。この時に描かれた浮世絵「末広五十三次」など中身の濃い展示でした。

 江戸楽アカデミー春期講座-江戸開幕期の城普請-
今年も面白そうなセミナーは積極的に受講します。国学院大学の種村威史先生の「江戸開幕期の城普請」 は、17C初頭、徳川幕府によって相次いで行われた築城とその普請の方法や天下普請に携わったメンバーを通して、家康公が将軍になってから、大御所として君臨し、2代将軍に政治を引きついで行く過程を学びました。城郭の勉強もかじり始めているので、興味深く、また、細かい史料の他に面白いエピソードなども教えていただき、楽しい講義でした。
先生のブログはこちら→゙「歴史と古文書とともに」
 
中川船番所資料館
―江東区東大島―
 
 都営新宿線東大島駅のすぐそばにある中川船番所資料館。H7の土壌処理で船番所の瓦等が出土したがきっかけで建てられました。 中川番所(赤)は小名木川と隅田川口にあった番所(緑)が移転してきたものです。江戸と関東各地を結ぶ水路の監視に当たっていました。 不作で米の値段が高騰し、幕府による酒の製造や流通が制限された際の検査も番所が行いました。↑は常陸の酒を積んだ行徳の船改め。 番所の建物の脇には槍が立てられ、遠くからでも番所と判るような目印にしました。その様子も江戸名所図会「中川口」に描かれています。  小名木川沿いにあった五本松は水に映る月の名所とされ、芭蕉もここに船をとめ、「川上とこのかわしもや月の友」と詠んでいます。 
資料館3階の窓から中川と中川大橋が見えます。  ここから見えたと思われる江戸時代後期の眺望の想像図。右下が中川番所。 川べりに降りると、ユリカモメ(上)や、クラゲ(下)、海苔のような海藻が。海が近いのですね  水陸両用バス用のスロープやウオータースポーツの為の乗船場が整備され「川の駅」に。  資料館で売っていたブックレット
一冊\300。江戸の釣り文化についても展示や本があります 
 
 
関宿城博物館
―千葉県野田市―
関宿と関宿藩についてはここに詳しくかいてあります→ 中世の関宿関宿藩誕生幕府を支えた老中外交との関わり関宿藩士動乱の幕末
関宿は野田市の最北端、利根川と江戸川の分岐点にあります。関宿城の模擬天守が博物館になっています。 北関東のこの辺りは湖沼地帯。家康が江戸に入部した1690年には利根川も荒川も江戸湾に流れこんでいました  関宿の歴史は北関東の治水の歴史でもあります。↑の「蛇籠」は石をいれて川の改修や災害復旧に使われるもの。  鬼怒川、古利根川等川の多いこの一帯は少し大雨が降るとたちまち水没してしまいます。それで↑のように「水塚」を造り、米などを保存します。  徳川幕府は利根川を江戸川と切り離して太平洋に流し、江戸を水害から守ると共に水運を発達させました。↑は高瀬舟(パンフより)
4階の展望台から見えるのは利根川と筑波山。昨年の大水の時は、河川敷は全て水に覆われたそうです。 江戸川方面から博物館。実際の関宿城があったのはこの右手前。関宿城の天守(三階櫓)は「模擬天守」です。  水量の調節と河川舟運を目的に大正7年から昭和2年にかけて建造された江戸川の水門と閘門は今も現役です。 関宿藩初代の藩主は家康の異父弟、久松松平家の松平康元。彼の墓は関宿城近く、宗英寺にあります。   宗英寺は1596年創建。↑左は足利晴氏の墓、右は関宿の大治水工事に業績を残した関宿藩士船橋随庵の墓
 
 
 奇想の系譜-江戸絵画ミラクルワールド-
   
『京のエンターテイナー』
 1970年に美術史家辻惟雄が著した「奇想の系譜」で取り上げられた、新しい発想でまさに奇想天外な画風を造り出した江戸の絵師たち8人の作品を集めた展示です。 伊藤若冲。↑「旭日鳳凰図」を始め「雄鶏図」「葡萄図」等、動植物や風景は『幻想の博物誌』 長沢芦雪も大好きな絵師です。↑兵庫大乗寺の「群猿図屏風」を初め、虎、犬、龍からなめくじまで彼らしい動物たち。花鳥、山水、五百羅漢図、山姥図、方広寺大仏殿炎上図の迫力には驚きました。 鬼の姿の帝釈天と釈迦の前身雪山。曽我蕭白の「雪山童子図」はハッとするような色使い。『醒めたグロテスク』
     
↑『狩野派きっての頭脳派』狩野山雪「梅花遊禽図襖絵」 
 
ずっと見てみたかった岩浅又兵衛の「山中常盤物語絵巻」。岩浅又兵衛は信長に滅ぼされた戦国武将荒木村重の子。落城の時乳飲み子だった彼は辛くも逃げおおせて母方の姓を名乗り、絵巻物で知られる絵師となりました。彼の絵は『執念のドラマ』  お馴染み歌川国芳の「相馬の古内裏」。『幕末浮世絵七変化』と称されていました。  辻惟雄氏が挙げた6人以外に『江戸琳派の鬼才』鈴木其一も奇想の人。↑は「百鳥百獣図」  今回もう1人加えられたのが白隠慧鶴。若冲や芦雪ら後の絵師に大きな影響を及ぼした『奇想の起爆剤』 
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練馬ふるさと文化館特別展 講演会
錦絵と古文書で探る幕末維新-板橋・練馬と江戸・東京市民の戊辰戦争- 
1.板橋、練馬と江戸・東京 ・中山道板橋宿と助郷村落:朱引/墨引/中山道/戸田の渡/定助郷・加助郷 
・東叡山寛永寺領の村々:宮門跡寺院/幕末期の輪王寺宮/能久親王 
2.最幕末期から上野戦争まで  ・変貌する町触と政治意識が高まる江戸市民:対外的危機と内戦含みの周知
                           :報道する瓦版/風説留/新聞  
  ・薩摩藩に依る江戸関東霍乱・徴発:薩摩三田藩邸を根城に強盗頻発→焼討 
  ・戊辰戦争の勃発と江戸市民:薩賊討伐準備/先鋒軍入府と有栖川宮入城
  ・東叡山寛永寺(輪王寺宮)と江戸市民:東征軍阻止/北陸道先鋒軍転陣嘆願
                        :輪王寺宮上京中止哀訴嘆願行動
3.天皇東幸直前まで  ・江戸支配の転換:鎮将府支配となるもなお続く官軍批判風刺錦絵
  ・江戸→東京と天皇東幸計画:天皇東幸計画/朝威の見せ付けと恩恵の実施 
  ・松月院脱走方屯集事件と四ツ葉村村民:匿う板橋・練馬地域の農民村民町民 
天皇東幸と東京市民 ・第一回東幸の強行:歓迎の演出と警戒/東北戦争凱旋組と脱走組衝突回避 
  ・氷川行幸と中山道界隈:天皇東幸錦絵「東幸行列図」と「天盃頂戴図) 
  ・御酒下賜の実施と内実:財政的裏付無いままの強行と東京府の対立
               :「東京府御酒頂戴図」「東京幸橋御門内図」 
古文書や瓦版、高札から、幕府瓦解への戸惑いや東征軍への反発がわかります
奈倉先生の写真は撮り損ねましたので、先生の著書の写真を載せておきますね 
 練馬ふるさと文化館で「激動の幕末in練馬」という展示。跡見女子大名誉教授の奈倉哲三先生の「錦絵と古文書で探る幕末維新」という講演を聴講しました。新政府軍が江戸に入って来た時、江戸市民はどんな反応を示したでしょうか? 頂いた資料の風刺画。「東楼」という料理屋で、座敷の薩摩(籠目模様でわかる)と長州(毛利の家紋)を嫌がって逆さ箒を立てている和宮と天璋院、門から入ってくる会津(松葉)、米沢(米の字)、庄内(カタバミ紋)藩と慶喜(一の字)
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 河鍋暁斎 その手に描けぬものなし
   
今回の暁斎展が開催されているサントリー美術館は東京ミッドタウンガレリア3Fにあります  H27「画鬼暁斎」展以来暁斎ファンになりゴールドマンコレクション暁斎記念美術館、と行く毎に新しい暁斎に出会います ←「風流蛙大合戦之図」のクリアファイルと↑蛙のマグネット購入
 
 3才で初めて蛙の絵を描いたと自伝絵日記にあります。暁斎といえばカエル。↑はゴールドマンコレクション「蛙の学校」 それまでの個別指導ではない学校教育。いろいろな妖怪や河童の教師が「SHIRICODAMA」「CIOORI」とローマ字を教えている「化け化け学校」(部分)  「風流蛙大合戦」は良く見ると右側には「六ツ葵」、左側は「おもだか」の家紋が見えます。さては徳川(=会津)と毛利の蛙たちが戦っている、つまり戊申戦争らしいです。 
 
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春を寿ぐ-徳川将軍家のみやび
   
 江戸博企画展は主に徳川記念財団が所有する徳川家の美術品のうち、将軍家と宮家との繋がりを示す徳川家にとっての「春」を表わすような銀細工や豪華な小袖、雛道具の展示 掛袱紗(紅縮緬地竹に鶴文刺繍)。進物や貴重品の上にかける布のこと ↑銀細工・兜に梅の花一枝。→は小袖・浅葱縮緬地松竹梅桜菊網千文様 
   
和宮の雛道具。文台は黒塗牡丹唐草葵浮線菊紋散蒔絵と説明あり。全て漆に金蒔絵  櫛も鋏も1寸に満たない大きさですがちゃんと櫛の歯があり鋏も多分刃が付いています  帯箱、髢(カモジ)箱、伸子箱とあり、なんと小さなかもじが入っていました  常設展示。左は1月からの新しい展示品。銀小札白糸縅丸胴具足(3/24まで)。右は松の大廊下。実際には大広間から白書院までL字型に約50mの畳敷廊下
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かわいい浮世絵おかしな浮世絵 -太田記念美術館-
 
太田記念美術館は原宿の表参道と竹下通りの間にあります。 収蔵する12000点の浮世絵から今回のテーマは動物や子供、奇抜な柄の着物やユーモアのある浮世絵を展示しています   ミュージアムショップで動物の絵を集めた葉書ノートを購入  広重の「浅草田圃酉ノ町詣」の猫のメモ用紙も購入
     
左はご存知猫好き国芳の「梅初春五十三駅」東海道岡崎宿の化け猫。真ん中は洋画のようなタッチの北斎の狆。右は広重の「月に兎」これも通常の浮世絵とは違うモダンな絵でした
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 渋沢平九郎ー幕末維新、二十歳の決断ー
↑ 平九郎の遺書
(楽人之楽者憂人之憂
とは白居易の言?)
 
 何ともイケメン

明治45年4月14日
没後150年の今年、渋沢平九郎の展示が行われている、北区飛鳥山の渋沢栄一資料館に行きました。紅葉の美しい飛鳥山公園。十月桜も咲いていました。 平九郎は栄一の父方の従弟です。栄一渡仏の際に彼の養子になり幕臣として生きます。彰義隊→振武軍に参加、新政府軍と戦い、飯能戦争で若い命を落としました。 
 渋沢家や栄一の母の実家尾高家は教育熱心な家でした。平九郎も論語を学び俳句も作りました。↑は栄一の父に添削を頼んだ俳句  飛鳥山には栄一の接客用の別荘がありました。戦災で殆どの建物が焼失しましたが↑の晩香廬と青淵文庫は残っています 晩香廬は喜寿祝に清水建設が建てました。内部の意匠が洒落ています。  平九郎は新政府軍に追い詰められ秩父の山で自決しました。↑は平九郎を弔うため現場を訪れた栄一 

 台東区文化財講座-小噺で巡る浅草寺-
1.噺本について 2.浅草寺の歴史と魅力 3.小噺で巡る浅草寺。
小学館の江戸楽アカデミーの中村先生の講座を申し込んでいたのですが、「先生の体調不良のため中止」と返金されてきました。「一大事!!」と思って検索したらこの講座がヒットしたので申し込みました。先生の病気は別に大病では無かったし、こっちは無料なので得した感じ。 
 会場は台東区生涯学習センター。すごく立派な建物でびっくり。 元気な中村先生に
お会いしてひと安心。
またツーショット写真 
山門・本堂・五重塔。 江戸名所図会ではかなりの頁を浅草寺に割いています  浅草といえば観音様。↑浜成竹成兄弟の網に聖観音像がかかったところ。
 
赤丸は二尊仏、黒丸は平内社。川柳にもあります。 「平内の隣に二人濡仏」  久米平内に文を供えると恋が叶うというので人気。「平内は堅し願書は柔らかし」  センターとJR鶯谷駅の間にある「おそれ入谷の鬼子母神」は日蓮宗眞源寺内 鶯谷駅構内の通路にはウグイスや入谷名物朝顔のタイルが貼ってありました 
浅草の仁王が所へ上野の仁王来たり、「どふだ、せんせい。まづ焼けのこらしやつて目出たい。おれハゆふべ野宿をした。当分の内、出居衆(居候)において下され」。「安ひ事だが、内もせまし、おか目とちがつて所々の見舞に銭を遣て半焼けだよ」。「泣き言をいやるな。わらじでハもふけたろう」 
↑は明和9年9月の噺本「楽索頭」にある小噺。江戸検の皆さんはそれで「ああ」と納得ですよね。目黒行人坂の火事で上野寛永寺の仁王門は焼けたけど浅草の仁王門は無事だったんだ!とわかりますね。「わらじで儲けた」は現在の大わらじの事ではなく(これは昭和16年からの物)、恐らく「仁王様の股の下をくぐると子供の疱瘡が軽く済む」という信仰から、童の「わらし」なんじゃないかな~と思っています。因みに、大わらじの意味は、「こんな大きなわらじを履いている仁王様にはかなわない」と災厄が退散するから、だそうです。
 
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 戸定歴史館企画展-忘れられた維新 静かな明治-
 戸定邸は明治15年水戸徳川家の屋敷として建てられ、水戸藩最後の藩主であった昭武が住みました。昭武は水戸9代藩主斉昭の18男で、徳川宗家最後の将軍15代慶喜の弟。この2人は仲が良く、共通の趣味は写真でした。戸定歴史館には2人の写真や書簡など多くの史料が収蔵されています。慶喜は、幼い弟にパリ万博出席の後数年のフランス留学をさせ知見を広めさせたいと考えていました。しかし新政府は昭武を中心とする反乱やフランス政府の後押しを懸念、水戸藩主の席を用意して帰国命令を出します。既にフランス語で日記を書くほどになっていた昭武は、明治9年フィラデルフィア万博御用掛として渡米後、再びフランス留学を果たしました。
9月に戸定邸見学をした時準備中だった戸定歴史館の展示「忘れられた維新・静かな明治」に行きました 渡欧中に幕府瓦解を経験し帰国を余儀なくされた徳川昭武公を中心とした明治150周年企画展示です  1867パリ万博に列席のため渡欧した使節団。将軍名代の徳川民部大輔こと昭武公(中央)は当時14才 ヨーロッパで着用した豪華な陣羽織。背中は三葉葵の御紋  この時スイスから送られた懐中時計。精巧な昭武公の肖像は七宝焼です。 
   
 
 フランスの皇室や政府関係者と一行を描いた石板画。TOCOUGAWA MINBUTAIO
と絵の下に説明がある
左の絵で着用されていた紅地の直垂。元は鮮やかな赤色で、これは将軍とその後継にのみ許された色  上段の写真に昭武公の左側にいる従者がこの三つ葉葵の紋の陣笠を手にしているのが写っています  上下2通は昭武に帰国を促す達書。上は伊達・東久世、下は河津・服部・大久保(一翁)・平岡の名で出されている。右はそれ等の書類の保管袋 
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 江戸楽アカデミー秋期講座
「鷹をめぐる江戸城と近郊村落~多摩地域を中心に~」・「大奥の事件簿」
府中御殿(江戸名勝図会) 
 午前は鷹狩と鷹場について将軍家や御三家の鷹狩や鷹匠や鳥見、村との関わりについて学びました。午後は「大奥の事件簿」将軍や御台所の周辺で何が起きた? 武蔵野ふるさと歴史館の学芸員 米崎清実先生の話は興味深いことばかり。鷹狩の歴史は古く、群馬の古墳からは肩に鷹を乗せた埴輪も出土しています。  将軍の鷹狩の目的は遊興や軍事訓練のみならず、鷹や獲物の献上や下賜など大名や公家との交流、鳥獣保護、村民との関わりも。鷹狩の為の御殿は宿泊所にもなりました  人気の菅野俊輔先生。家光公正室の話、永光院還俗、綱吉夫妻の死の謎、江島事件、老女高岳や大崎のエピソード、忠義の奥女中「てや」の話など これは5代将軍綱吉公の時にオランダ商館の一行が大奥に招かれた時の様子。中央は同行医師ケンペルで、御簾の中から御台所が覗いている。大奥に男性が入っていた例 
 
郵政博物館 
東京スカイツリーの下、ソラマチにある郵政博物館。日本の郵便制度の歴史が学べます。企画展「幕臣たちの文明開化」を見に来ました これはエンボッシングモールス電信機。ペリー来航時フィルモア米大統領から徳川幕府への献上品で、紙テープにモールス信号のエンボスを穿つ機械です 明治4年設置された「書状集め箱」つまり郵便ポストです。都会用。「出荷済」の札がかかっています。真中の小さい箱は板橋宿の書状箱。  最初の郵便マークは太い赤線と日の丸。明治20年、逓信省の「テ」に。右は日本初の自動販売機で切手と葉書が買えます 
企画展示: 幕臣たちの文明開化
 
 
   
日本初の切手は100,200,500文と48文のもの。「龍切手」と呼ばれます。右は日本初の全国通用紙幣「太政官札」(壱分札)共に龍のデザインです。  よく「「郵便の父は前島密」と言われますが、外遊中だった前島に代わり郵便制度を含む交通全般の驛逓制度を確立したのは初代驛逓正杉浦譲なのです。 ↑は杉浦が作成した驛逓改革に関する文書綴。距離による料金の規定などの案  速い情報伝達。西南戦争(明治10年)の経過を前島に知らせる林少輔の電報  杉浦譲は渋沢栄一、中村正直ら広い人脈を持ち、また桑野伝助、栗本鋤雲、福地桜痴らジャーナリストとも交流があり「夕刊日日新聞」(左)の発行にも協力しました。
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戊辰戦争 菊と葵の500日ー国立公文書館ー
 
 
テーマは4つ
Ⅰ開戦-鳥羽伏見の戦い-
Ⅱ江戸・関東への転戦
Ⅲ東北・北越戦線へ
Ⅳ終幕-五稜郭の戦い-
慶応3年12月。江戸で乱暴狼藉を働く薩摩藩士に業を煮やして庄内藩士が三田の薩摩邸を焼討にした時の報告文書  焼討事件をきっかけに始まった鳥羽伏見の戦い。戊辰戦争で新政府軍が用いた錦旗、軍旗の精密な模写図が残っています。国の重要文化財。  新撰組隊士山口次郎(斎藤一)が松本良順に治療を受けたことを示す文書(左)。銃創の治療には従来のものとは違う医療器材が必要でした(右) 「長岡藩戦争之記」。慶応4年5月19日の長岡城再奪回について、戊辰戦争後、旧幕府軍関係者からの聞き取りをまとめたもの。
     
   
 戊辰戦争後、会津藩は新政府軍と戦いに。↑は「錦旗ニ砲発シ大逆無道」の会津公松平容保の追撃を仙台藩主伊達慶邦に命じたもの 慶応4年4月~6月白河、二本松が落城。会津は最後まで籠城し戦いますが9月22日降伏しました↑損傷した会津若松城 榎本武揚ら反恭順派の旧幕臣たちは蝦夷に向かい、函館で戦いました。↑は「官許函館全図」(万延元年)。円内は五稜郭を設計した武田斐三郎 家老萱野権兵衛が切腹することで容保親子は死を免れます。↑左は明治元年12月の「寛典の詔勅」。「明君は寛大なものだから」と書いてある ↑は昭和3年昭和天皇即位に際し、北越戊辰戦争で戦死した長岡藩家老河井継之助への没後贈位の内申。でも「位勲ナシ」でした 
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 府中市美術館「リアル」-最大の奇抜-
現代では「リアル」でないものが「奇抜」。でも応挙のように徹底して「リアル」を追求することは、江戸中期においては「奇抜」だったのでは?  応挙のほか、森狙仙、堀江友声、亜欧堂田善、祇園井特らの「リアル」を展示�  敷物の虎の毛皮を模写し忠実に模様を再現して描いた応挙の虎  司馬江漢の「円窓唐美人図」は西洋画の影響が顕著な油彩画  「時雨狗子図」のワンちゃんは最高に可愛い  左は一筆箋。これはスタンプを使って作った絵葉書。ステキなお土産が出来た! 
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江戸幕府最後の闘い―幕末の「文武」改革― 
   
   
明治元年から150年を迎えた平成30年。国立公文書館春の特別展は、幕末期江戸幕府に焦点を合わせ、多門櫓文書を中心に展示されています。 1.もたらされる海外情報
2.海外知識の受容と学問 
3.幕末の「文武」改革
4.維新後の徳川家 
の4つのテーマに分かれた展示でした。
「日本遠征記」に依れば最初にペリー艦隊に呼びかけた通詞の言葉は”I can speak Dutch!”。↑は1854年通詞を務めた森山栄之助と立石得十郎。 これは国立公文書館のマスコットキャラクター「こぶんちょくん」です。可愛いのでこぶんちょくんの栞を買ってしまった。 ヒノキ製
 
1.海外情報:ペリー来航はオランダから知らされていました。オランダ国王からは開国を勧める国書も届きました。↑はその時の使節団の様子を書いた「視聴草」と特使コークスの肖像。 まもなく米東インド艦隊司令官ビッドルが浦賀に来航。通商を求めますが、幕府は通商を拒否し、以後は長崎で交渉するよう伝えました。「弘化雑記」から。 2は海外知識の受容と伝播の過程を示す展示。学問所の様子や藩校が次第に政治色を帯びてくる過程など。蘭学も盛んになり、「解体新書」はベストセラーに。 文化8年には「蕃書和解御用」掛(外国文書の調査、翻訳と解釈を行う)が天文方内に作られました。↑は安政3年最初に設置された「蕃書調所」跡の写真。
   
3.は 開国後に差し迫った国防問題。上は関口鉄砲製作所を作る為の費用220両余りの申請。「小栗上野介」の名も見えます。下は滝野川反射炉建設用地の上知通達書 小栗忠順と盟友栗本鋤雲 
は横須賀製鉄所等に仏国人技師を迎えるため、横浜仏語伝習所を開きました。入所希望者は申し出るようにとした御書付来書留帳が展示されています
4.維新後の徳川家は静岡藩として再スタート。↑は駿府に同道させる予定の家臣の名簿。渋沢栄一を同藩に世話した平岡丹波、勝安房、山岡鉄太郎等の名前が書かれています。  左名簿にもある中村正直は幕臣の子。儒学の他蘭学も英学も学びました。「自由の理」は英国人ミルの"Liverty"の翻訳。西郷隆盛が多用した「敬天愛人」論は日本では彼が最初に使ったことばです
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 春季江戸楽アカデミー「小噺でみる江戸の女性」
女性ネタの小噺は実に沢山あるんですねえ。そして落語の「悋気の火の玉」や「反魂香」のもとや、あ、これよくマクラに使われている!という、聞き覚えのある話が沢山あって面白かった。
こんなのはどう?↓
「大の悪女(醜女)焼餅喧嘩の上頓死して地獄へ落ち、夫へ恨みをなしたく閻魔王に幽霊になりたいと願い出れば”その不器量では幽霊の願いは叶わぬ”(幽霊は美女でないとダメ。ひどいなあ)鬼ども女の袖をひいて”化け物と願え、化け物と願え”
 神保町の、いつもと違う出口から出たら、「千代田区町名由来版」というのがありました。天水桶がついていて洒落てる!  大好きな中村洋子先生の講義。今日のテーマは「小噺でみる江戸の女性~笑いに込められた江戸女性の姿」です。 女心 :今も昔もこんなもの?
女の一生 :苦労はここから始まった-!?
女性が生きて行くために
      :笑いで包む悲しき日々
小噺にみる男と女
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 獏塾友の会・坂の街「赤坂」を古地図で歩く
4年にわたってバクさんが主宰されていた「獏塾」が閉鎖されることになり、新しく「獏塾友の会」として発足したのを記念する江戸散歩、そして今までバクさんにお世話になった江戸検一級受験者たちがバクさんに感謝する会が開かれました。バクさんとは、ブログ「気ままに江戸♪」 を書いていらっしゃる、第3回江戸文化歴史検定の一級合格者のブロガーでプロのガイドをされている方。私の様にいつまでも合格しない受験者のために塾を立ち上げ、勉強のやり方を伝授し、激励し、時には叱咤!して全面的にバックアップして下さいました。私の合格は彼のおかげです。今まで本当にありがとうございました。お疲れ様でした。ブログとガイドはこの後も続くのでまだまだお世話になります。  
 で、今回のガイドはバクさんではなく、獏塾友の会を引っ張る方々。参加者多数の為、3つの班に分かれて歩きました。私が入れていただいたのはハンドルネーム「彰義隊」さま、R氏の班。赤坂周辺の古地図と現代地図に歩くコースを書きいれ、詳細なガイドが事前に配布されました。TCGC(東京ガイドクラブ)に所属していらっしゃるR氏は昨年江戸検一級にみごと一発合格された秀才。多才で知識も経験も豊富な彼ですが、さすがにバク先生をガイドするので緊張した、とおっしゃっていました。
散歩コースは:赤坂カガーデンテラス紀尾井町ー弁慶橋ー豊川稲荷ー武家屋敷門ー薬研坂ー円通寺ー三分坂ー勝海舟旧宅Ⅱー本氷川坂ー氷川神社ー勝海舟旧宅Ⅲー勝海舟旧宅Ⅰー赤坂3丁目(懇親会場) 3.6kmの道のり。3時間コースを2時間余りで歩きました。1万歩位かな。
 集合はガーデンテラス紀尾井町(旧赤プリ)。紀州藩上屋敷跡ですが、文政6焼失後は現迎賓館の地へ移ったと資料にありました。 旧李王家邸宅だけは従来の建物を残し、レストランに。お友達3人と早めに会って散歩前に行ってみました  赤坂見附は大山道の入り口の御門。その一部が残っています。この石垣が枡形門のどの部分かも説明がありました。 濠沿いのテラスから江戸城石垣を請け負った各大名の刻印を確認。黒田家家紋の一つ裏文銭の刻印が多く見られます   赤坂伝馬町を通り豊川稲荷へ。「赤坂」の名前の由来を説明するR氏 。染料となるアカネが多く採れた茜坂(今の紀伊国坂)→赤坂に。
 
今日4月8日は花祭り。豊川稲荷こと妙源寺でも甘茶のサービスが。ここはあらゆる神仏が祀られていてとてもお詣りする時間がないのでお茶だけ 山脇学園所有の本多美濃守邸の門がH28ここ赤坂の学園敷地内に移築されました。重文指定された三武家屋敷門の一つです。  武家屋敷門に至る坂は牛も登るのを嫌がって鳴いたという「牛鳴坂」。そして↑は擂鉢状の薬研坂。上り下り合わせての名称 坂の名前になっている 円通寺は「江戸三祖師」の一つ。梵鐘は戦時中供出されたが鋳潰されず板橋の寺に。S50この寺に戻されました 傾斜がきつく、車賃が銀3ぷん(数百円位)割増になったことから「三分坂」と呼ばれた急坂。報土寺の坂沿いの築地塀は弓なりの珍しいもの。
報土寺は雷電為右衛門の墓があり、瓦にも雷の字。 もとは掌型だったという墓石は削られて円形に。洒落っ気のあるご住職が特急らいでんの愛称板を飾っている(笑) 雷電が寄進した梵鐘は釣り手が力士型で銘に「天下無双」とあった為寺社奉行に没収された。M41再建されたが戦時中供出。H.3戻され、最初についたのは千代の富士なのです~ ↑のマンションにある勝海舟旧宅跡の碑。37~45才まで住んだ赤坂で2軒目の家。ブルックに助けられて太平洋を往復した咸臨丸から帰ってきたのも、坂本龍馬と出会ったのもここでした  ここから元氷川坂を通り氷川神社へ。951年一ツ木村に祀られ、吉宗公が将軍就任時現在地に遷座。境内には天然記念物の大銀杏や勝海舟が名付けたという「四合(シアワセ)稲荷」などがあります 勝海舟が最後に住んだのがここ。後に氷川小学校(今は廃校)に寄付されました。「勝安房邸跡」の石碑と説明板のほか、坂本龍馬と勝海舟の銅像が建っています。
 
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春季江戸楽アカデミー 
 今年も興味深いテーマは聴講しようと思っています。今日は「武鑑を読もう!」というテーマ。 「武鑑」とは、江戸時代の大名・幕府役人の名鑑。名前、家紋、石高、役職、居城や江戸屋敷の場所などが記載されています。行列見物の時は槍のかたちや人足の半被の柄が載っているのでお大名かわかる。出入りの商人が賄賂を持って行く相手がわかる、という、使える名簿なんです。 「武鑑」は確かに面白ーい!講師は、相変わらずハンサムな滝口先生。女性ファンも多いみたい。2013年の夏にも「江戸名所と忠臣蔵」というセミナーを受けました。それ以来です。 
 
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松江城と江戸城 
ー国宝になった城と天下人の城ー  
 
   
   
 日比谷図書文化館で開催中の「松江城と江戸城」展。松江で発見された「江戸始図」関連の展示です。 館内は撮影禁止なのですが、とても立派な図録がなんと\400。隅々まで探しましたが「禁転載」の文字も無し。千代田区、太っ腹!  松江城天守はH.27年7月に国宝に指定されました。↑のような祈祷札により、天守完成年代が明らかになったのです。↑「奉轉大般若経六百部武運長久処」と墨書があります。  ↑「奉讀誦如意珠経長栄処」「慶長十六年正月吉祥日」。天守の2本の柱にこれらの祈祷札が打ちつけられていました。
 
 江戸始図のクリアファイルは\350。今まで分らなかった、慶長期の天下人の城の姿があきらかになりました。 最初の江戸城は、姫路城と同じ、大小二つの天守が連立しており、さらに天守曲輪が設けられています。虎口も随所に食い違いや枡形を用いて、大きな防御力を持ちます。 展示室内には、遺跡から発掘された陶器類も数多く展示されていました。さすが不昧公のいらした松江の町。到来物らしいしゃれたデザインの陶器が沢山ありました。  東京都八重洲北口遺跡から出土したメダイ。(多分)聖母子像が刻まれています。16世紀末のもの。ロザリオの展示もありました。
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 小栗上野介終焉の地
小栗上野介忠順(ただまさ)は幕末の幕臣。幕末混乱期に外国奉行、海軍奉行、町奉行、陸軍奉行並、軍艦奉行、海軍奉行並など重要ポストを歴任。硬骨漢で自分の意見を曲げないため解任と再任を繰り返した。安政7年遣米使節に目付として渡米。太平洋を横断してサンフランシスコ、ニューヨーク、ワシントン等を歴訪し、大西洋から喜望峰を回り帰国した。アメリカや各地での見聞で、日本でも、軍艦や鉄道、鉄製品 などを製造する必要を痛感した忠順は、帰国後、フランスの協力を得て、横須賀に製鉄所(造船所)を造った。慶応元年起工したが完成前に徳川幕府は瓦解。明治政府に引き渡された。幕府瓦解後、忠順は自分の領地であった上州権田村(現倉渕町)に引き移り、余生を送るつもりであったが、新政府転覆を図っているのではと疑った西軍に捕えられ、取り調べを受けることも無く、慶応4年閏4月6日、近くの烏川の河原で斬首された。捕縛される直前に身重の妻は忠順の母や養女と、忠順の家臣らに護衛されて上州から新潟、そして会津に逃れて会津で女子を出産した。
 
小栗忠順の墓がある、倉渕町東善寺。ここのご住職村上泰賢氏は「小栗上野介」という本を書かれた方。東善寺は小栗上野介顕彰会の拠点です。 左は小栗忠順の胸像。右は盟友の栗本鋤雲。共に浅香艮斎の塾に学び、幕府がフランスの援助を得る際も鋤雲の協力がありました。 いつも花が供えてある忠順のお墓。彼の墓の左には高崎の西軍に釈明に行き、高崎で処刑された養子又一の墓があります。墓の右の木は忠順の愛した椿。  周囲には忠順の家臣の墓。小栗夫人を会津へ送り、会津で戦死した塚越、忠順と共に斬首された渡辺、又一と共に斬首された塚本ら。皆20代の若者です。 
 
遣米使節団が乗った「ポウハタン号」の模型。木造、タール塗装の黒船。赤いラインが入っているのが特徴。蒸気と帆を併用して走る。日本人は総勢77人だった 遣米使節団の写真。正使新見正興、副使村垣範正、忠順は目付として同行。忠順はこの時、日米間の金銀通貨比率の不平等を正す役割も担っていた。 パナマからは汽車で東岸へ。この時忠順は鉄道敷設の費用と、それが民間の株式会社により運営されていることを知った。絵は随行の権田村名主佐藤籐七のスケッチ ニューヨークのブロードウェイで大歓迎を受けた一行。街路の両側には警備兵と見物客が並び、建物の窓には星条旗と日の丸の旗がびっしり掲揚されている
帰国した忠順は船や鉄製品の製造の重要性を説きフランスの協力の下、若き技師ヴェルニーと共に横須賀に造船所建設の計画を進めた。  忠順はまた、日本初のコムペニー「兵庫商社」を設立。ホテルの建設、ガス灯の設置、郵便、電信の確立、鉄道敷設などを提案している。↑は築地ホテル。  忠順が持ち帰ったアメリカ土産。ネジ釘は沢山持ち帰り、配ったという。右上は望遠鏡、左下は手回しドリル、右下はピストルとピストルケース  東善寺のご住職。事前にお願いすれば、小栗上野介や遣米使節団についてスライドを使った講義をしていただけます。著書にサインもしていただきました。 
 
忠順の所有物は処刑後西軍に持ち去られましたが、権田村には遺品も少し残されました。↑は忠順が処刑の場まで乗せられた駕籠。斬首の後現場に捨て去ったので「捨て駕籠」とも。 忠順夫人道子、母邦子、養子又一の許嫁らが会津に逃れる時に使用したと伝えられる駕籠。会津で生まれた遺児国子は親戚である大隈重信夫人の庇護のもとに成長しました。 烏川の河川敷に立つ「偉人小栗上野介 罪無くして斬らる」と書かれた碑。昭和7年これを書いた蜷川新は忠順の義理の甥。彼は時の首相と親交があり、この語句も許されたそうです。  倉渕町の道の駅は「くらぶち小栗の里」という名前です。内部に忠順関連の展示も少しあります。新鮮な野菜が沢山ありました。 
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江戸博企画展「徳川将軍家へようこそ」 
 武家の棟梁:葵三代、 将軍のすがた:徳川の平和、 大奥のみやび:篤姫と和宮、 激動の幕末:家茂の決意・慶喜の決断、 家名相続:新たな時代へ の5章に分かれた展示でした
 両国の江戸東京博物館はH29.10から半年ほど休館になります。 休館前最後の企画展は「徳川将軍家へようこそ」徳川記念財団所有の貴重な資料満載。中央の束帯姿は最後の将軍慶喜の肖像です。川村清雄画  左は家光の夢に現れた神君家康公を狩野探幽に描かせた姿絵。右は萌黄綸子に雪持笹と御所車を刺繍した小袖。静寛院(皇女和宮)のもの。  銀細工の献兎賜盃。徳川の祖松平親氏が信濃の林光政から兎の羹を振舞われた慶事に因み元旦に林家に盃を賜る。2cmほどの小さな銀細工でした。 上は酒井抱一の「武蔵野富士図」。富士は江戸のお城と並ぶ「日本一」の象徴でした。下は米国大統領リンカーン国書(の訳文)「日本 大君(家茂)」宛てです。 
 
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水戸弘道館と徳川ミュージアム 
弘道館 
弘道館の向かいに水戸城大手門に続く大手橋があります。佐竹氏が藩主だった時代の橋です。右下は昭和初期の写真。 弘道館は水戸9代藩主烈公斉昭が水戸城三の丸に作った藩校です。藩士の子弟は15歳で入学し、卒業はありませんでした。   玄関を入ると正面の大座敷に「尊攘」の文字。藤田東湖が書き、斉昭の名で公表された「弘道館記」に記されている言葉です。  弘道館の教育理念は、「神儒一致」「忠孝一致」「文武一致」「学問事業一致」「治教一致」の5項目だそうです。 至善堂は当時七郎麿と言った慶喜が幼少期を過ごし、また、大政奉還後4か月ほど謹慎生活を送った場所でもあります。 
前列左から慶喜、家達、慶喜5男博、昭武長女昭子、昭武次女政子、斉昭正室吉子、慶喜長女鏡子。後列左から慶喜4男厚、昭武、田安家当主達孝  ←のような貴重な写真の展示もありました。
上は将軍職を辞した慶喜が至善堂で謹慎中に使ったと伝えられる長持。 
藩校としては日本一の広さを誇ります。ここは対試場。武術の試験などが行われました。建物は「正庁」。ここから藩主が上覧していたのでしょう。  弘道館の庭には沢山の植樹がありました。やはり多いのは梅。3月の梅の開花時期にはこの庭もライトアップされるそうです。
↑の写真の木は山茱萸(ミズキ科) 
明治元年、戊辰戦争勃発で追討された親徳川幕府の諸生党は10月1日弘道館に立てこもり、水戸改革派の攻撃を受けました。その時の弾痕が玄関の板戸や門柱に残っています
徳川ミュージアム
  水戸徳川光圀公が「大日本史」編纂のために設立した歴史研究所が「彰考館」。
中国の歴史書「春秋左氏伝」の一節から光圀公が名付けました。左は光圀公の筆
 
徳川ミュージアムは彰考館の精神を受け継いで、光圀公の別邸跡茶室高枕亭のあったところに建てられました。  庭のベンチには黄門様が。光圀公はテレビほどは歩かなかったけれど北茨城、日光、鎌倉などは訪ねています。  全397巻226冊に及ぶ大日本史。光圀が開始し、百数十年続けられ明治期に完成。「大日本史」の書名は光圀死後に付けられた。  草書を正しく理解するために必要と考えた光圀が作らせた草書の字典「草露貫珠」。王羲之ら740人の草書を49500字も所収しています  茶室「得月亭」が移築されている南庭園には、光圀公の時代から絶えることなく水の湧き出ている井戸があります。 
 
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村上藩戊辰戦争史跡とイヨボヤ会館 
村上藩の北越戊辰戦争
村上は新潟の一番北にあり、山形県との県境にあります。北越戊辰戦争の時、村上藩は新政府軍に恭順するか、抵抗して奥羽越連合軍に属するか、二派に分かれました。 当時29歳と最年少の家老鳥居三十郎率いる抵抗派200人ほどは村上城を出て北に接する庄内藩に合流して新政府軍と戦い、残留者は帰順したため、村上城下は戦禍に巻き込まれずに済みました。新政府軍勝利後、鳥居三十郎は捕えられ、江戸(東京)で死罪を言い渡されました。「斬首せよ」との命令でしたが、村上藩では若くして勇敢に戦った鳥居三十郎を斬首ではなく切腹させました。
村上駅前の観光案内所で鳥居三十郎の史跡について訊ねたところ、菩提寺安泰寺には三十郎の墓や、切腹まで幽閉されていた部屋もないことを教えていただきました。  鳥居三十郎の墓のある寺は市内ではなく、朝日村と言うところなので、幕末時の村上藩主内藤家の菩提寺である光徳寺に行ってみました。  右端は第八代当主内藤信民侯の墓。引退していた先代の信思侯(藤翁)は実力者だったが帰国できず、藩内を纏められない19歳の信民侯は悩んだ末自殺してしまいます。  藤基神社は村上藩主内藤家の先祖信成侯(家康公の異母弟)を祀った神社。駕籠彫りの見事な彫刻が施された社殿は権現造りで、村上市の重要文化財となっています。  藤基神社にある、「村上藩士殉難の碑」。鳥居三十郎はじめ、戊辰戦争で奥羽越列藩同盟の一員として戦った藩士たちの名が碑の裏に刻まれています。
 
   
おしゃぎり会館。「おしゃぎり」とは祭の山車のこと。羽黒神社の大祭に使う山車や神輿、行列の様子が展示されています。 郷土資料館(おしゃぎり会館)に鳥居三十郎の遺品が展示されていました。左から三十郎の半襟、財布、印鑑、 謹慎中の日誌。 左は村上藩士進藤多吉が戦死したとき着用していた陣羽織、右は鳥居三十郎の陣羽織の写真。  鳥居三十郎の陣中日誌。9月朔日(曇)とあり、山形県境の鼠齧岩での戦いと、刀、鉄砲、敵の首級などの戦利品が記してあります。  村上藩で所有していた鉄砲。ゲベール銃はオランダ製、ミニエー銃はアメリカ製と見られる。江戸藩邸では仏式訓練を行っていた。
イヨボヤ会館 
村上は世界で初めて鮭の養殖をおこなったところ。イヨボヤとは村上の言葉で鮭のことです。イヨボヤ館は鮭の博物館.。三面川に面して建てられています。  ここは鮭のミニ孵化場。卵は40~60日ほどで孵化します。今の時期はもう稚魚になり、秋に三面川(みおもてがわ)に放流されるのを待っています。 左の孵化場で今年生まれた可愛い鮭の稚魚。放流された稚魚はオホーツク、アラスカを回遊し、約4年後、生まれ故郷の三面川に戻ってきて産卵します。  村上藩の財政源となっていた鮭の養殖に取り組んだのが青砥武平治。31年の歳月をかけて三面川に分流を作り、ここを種川(自然孵化場)とし、漁獲量の安定と増加を図りました。 越後出身の鈴木牧之が著した「北越雪譜」にも村上の鮭の養殖について記述があります。 
 
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 長岡市北越戊辰戦争伝承館・栄凉寺と牧野家
 5月に行き損ねた北越戊辰戦争伝承館は、長岡藩と西軍の激戦地となった新組地域、大黒町にあります。地域の住民から見た戊辰戦争を伝えます。 「長岡城攻防絵図」左下から攻めているのが西軍、右上が長岡城。これ等の戦いについては獏さんのブログ「気ままに江戸」(右コメントからリンク)に詳しい。 慶応4年5月の榎峠の戦いから長岡城落城今町の戦い城奪回と再落城河井継之助の退避と死まで音声とランプで説明してくれるジオラマがありました。 伝承館のバルコニーから見える一面の田んぼは有名な「八丁沖の戦い」の現場。長岡兵は腰まである沼地を渡り、奇襲攻撃で長岡城奪回に成功しました。  バルコニーには、目の前の景色を説明するパネルがありました。10日前に訪ねた只見町に抜ける「八十里越え」の峠も晴れていれば見えるそうです。
   
   
 長岡藩主牧野家の菩提寺でもある浄土宗栄凉寺に、河井継之助のお墓があります。元和5年長岡に移封された初代忠成侯開基のお寺です 継之助のお骨は明治3年会津から栄凉寺に移されました。長岡を戦禍に巻き込んだとして彼を恨み、墓を削った者もあるそうです。明治政府の宣伝によるものでしょうか。  牧野家代々の墓もここにあります。牧野家の藩訓は「常在戦場」。三河以来の戦功で名を遺した祖先を常に思い、日々を過ごすこと。河井の戦上手もここから? 平成26年に開館した「牧野家史料館」。牧野家は多くの老中を輩出した名家。水害や大地震、三方領地替えの騒動等についても展示がありました。第17代の当主のかたの尽力によるそうです 左の「五間梯子」は戦国時代、敵に追われた牧野氏を匿った領民が五間梯子を立てて敵を騙したことに由来します。右は3代忠辰が己を諌めて作った、入れすぎると酒が全部こぼれてしまう盃。 
 
 只見町・河井継之助記念館 
 「つぐのすけ」?

「つぎのすけ」?
どちらの読みが正しいか、大正の頃から議論がありますが、結論は出ていません。近親者(妹 牧野安子、甥 根岸練次郎)の証言では「つぐのすけ」。明治期の外川残花の小学読本では「つぎのすけ」。これは三河以来の武士階級と越後の庶民の言葉と二通りが使われていたための混乱と思われるとのことです。長岡の河井継之助記念館では「つぎのすけ」、ここ只見町の記念館では「つぐのすけ」と読んでいます。
只見の塩沢村は幕末の長岡藩家老河井継之助終焉の地です。長岡の記念館より30年も早く、昭和48年この地に河井継之助記念館が建てられました。 継之助は藩の改革に着手し、軍事力も整え、戊辰戦争には中立を考えていましたが夢叶わず戦いとなり、長岡を失い自身も傷つきこの地に逃れて来ました。 継之助は長岡長町の河井邸にあった二本の松を愛し、これが彼の号「蒼竜窟」の由来と言われています。長岡空襲や雪で今は失われています。  継之助は江戸、長崎に遊学しています。安政6年の西国への旅の時につけていた日記「塵壺」。名所旧跡よりも古戦場で戦いに思いを馳せていた様子です。 河井が朝廷に提出した、「徳川の執政ばかりに責任を負わせ、自藩の利益のみ追及する薩長を重用するべきではない」とする建白書(レプリカ)。 
当時最先端の武器であったガトリング砲。日本に3台輸入されたうちの2台を河井が購入し長岡藩が所有していました。 北越戊辰戦争を解説する映像ではスクリーンの横に↑のような地図で進軍と戦いの様子が示されます。緑は東軍赤は西軍の進撃路です。  西軍との戦いで膝に被弾した河井は「八十里越え」と呼ばれる峠を越えて只見村、そして塩沢村に。↑は河井が亡くなった矢沢家です 途中只見村叶津で会津から呼ばれた松本良順に診察を受けましたが傷は悪化し、河井は死を覚悟したようです。↑は河井が使用した毛布と枕。 矢沢家の住宅は昭和36年ダムに沈みますが、河井最期の部屋は保存され、現在記念館内に移築されています。 
河井の遺言により遺体は火葬され、従僕が骨を会津に運んで供養されました。村人は残りの骨を集めて供養したので近くの医王寺にも河井の墓があります。 しかし新政府軍の追及を恐れて、資料は焼き払い、骨も初めは庭に埋め、目印に石をふたつ置いただけだったそうです。最近の資料でわかりました。 記念館の方の話では墓が建てられたのは満州事変の年だったとのこと。大きな墓石などはなく、祠のような形になっています。  「八十里越え」とは、余りに険しい道なので8里が10倍にも感じられるから。ここで河井は「八十里こしぬけ武士の越す峠」と自嘲気味の句を残しています。  河井が峠を越えた道は国道289号線。今も徒歩以外では通れない箇所があります。現在車が通れる525号線も冬季は閉鎖される道です。
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 韮山反射炉と江川邸・三島の街
 韮山反射炉
韮山代官江川英龍は早期から海防政策を訴え、台場建設、鉄製大砲の生産、西洋式軍隊制度の導入などを提言していました。 ペリー来航後、幕府は江川の意見を入れ、品川台場や鉄の溶融に必要な反射炉の築造を決め、彼を責任者としました。  反射炉ガイドセンターでは大きなスクリーンの映像で反射炉のしくみや、大砲の鋳造と加工の過程を解説しています。  ここは鋳台(鋳型を置くところ)。炉で溶けた鉄を出湯口から大砲の鋳型に流し込み、大砲を鋳造するのです。 和式の大砲は最初から中空の鋳物ですが、洋式ではムクの砲身を鋳造し中心部分をくりぬきます。鉄は銅より強くしかも安価。
 江川邸
 韮山代官屋敷。江川家は大和源氏の流れをくむ由緒ある家柄です。頼信頼房の母お万の方は江川家の養女となってから家康の側室になりました。 「さとはまだ夜深し富士の朝日影」と富士の絵。蛮社の獄に倒れた渡辺崋山は腹心の友。暗い世相、しかし来るべき朝日を望む気持ちが伝わります。  江川邸の土間部分は展示スペースになっています。これは韮山で作られたものではなく、アメリカ製のボートホーイッスル砲車。海軍上陸船艇用の小型砲。  このかまどは現役です。今江川家は41代の方が継いでおられ、11月のお会式と正月の具足開きの際には親族が集まり、その時に火が入ります。  英龍は、軽くて日持ちがして、米のように火を焚かなくてもに食べられるパン(乾パン)を軍隊の携行食として考えました。写真はパン窯と、パンのレシピです。 
 
 
 
 江川家は幕末期あまり裕福ではありませんでした。英龍も決して贅沢をしませんでしたが、嘉永2年英マリナー号との交渉の時は自身の権力を見せる為に豪華絢爛な袴を着けました 英龍の砲術の塾生たちが射抜いた的の木片を邸内神社に奉納したもの。上の絵馬は他藩の武士。松前藩、佐倉藩等から集まっていたのがわかります。下の絵馬は家中の侍。  一番右は江川英龍の自画像。六尺豊かな大男だったとのこと。真中はハンサムで有名な、英龍の5男で38代当主の英武。左は英龍似と言われる41代の当主。やはり180cmの長身  慶長年間、江川家が酒造を営んでいた頃、生活用水だけではなく、酒造りにも用いた名水の井戸。献上された酒を気に入った家康公から井桁に菊の御紋を賜った。 家康公に賜った井桁に菊の家紋を用いた馬印。この家紋は屋根瓦にも用いられたが、維新後菊の御紋を使うことを憚り、桐の紋を使用していた。近年この家紋も許されている 
 この有名な書状は徳川斉昭が英龍の病を案じ、川路聖謨に当てた書状に「江川はなくてはならぬ人物。快癒を祈ると伝えてほしい」と認めたもの。 代官屋敷の庭にある二つの米蔵は明治になってから建てられたもの。現在は展示スペースとなっており、鉄砲や砲弾、お台場の模型などが展示されています 鋳造した砲身の中心を削って筒にする工作機械。鋳造物の中心部に残りやすい粗造部を除去でき、また線条を刻むことで砲弾の発射方向が安定します。 昭和27年、全国及び静岡のパン協会は江川英龍を「パン祖」とし、英龍がパンを焼いた4月12日を「パンの日」としました。反射炉横の土産店で江川パンを入手 近くの日蓮宗本立寺が江川家代々の菩提寺です。比叡山で修行中の第16代英親が日蓮上人を当地に招き、曼荼羅を授与されて以来700年の大檀那です 
 三島の街
   
 三島の街も歩きました。中心は何と言っても三島大社。豪華な社殿は嘉永7年東海大地震で倒壊し慶応2年に建て直されたもの 「たたり石」!いえ、「タタリ」とは糸のもつれを防ぐ道具で、整理を意味する語。この石をどけようとする度に災いが起こるそうです。  三島は東海道日本橋から数えて12番目の宿場。「世古本陣」「樋口本陣」と二つの本陣がありました。  立札は郵便局にありますが問屋場跡は市役所別館だそうです。江戸時代大変栄えた三島は常に人馬が不足したと記録があります  「せせらぎの道」を歩きました。源兵衛川沿いには、三島に所縁のある井上靖、司馬遼太郎、太宰治らの文学碑や歌碑があります
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