我想う
 
幽州の台に登る歌(陳子昂)
 

 【題意】

 幽州台に登りその高楼で詠んだ詩。作者37歳の時といわれる。

 幽州台は現在の北京市徳勝門の西北にあった高台。

 【詩意】

 私が生まれる前の人に会うことは出来ない

 私がいなくなった後に生まれてくる人にも会うことは出来ない

 この世界の悠久たる流れに思いを馳せるにつけ

 一人、言い知れぬ悲しみに涙がこぼれる

 【語釈】

 悠悠=永遠で果てしない様。   愴然=悲しみに心を痛める様。

 【鑑賞】

 この高楼からの素晴らしい景色を、過去にも多くの人が眺めたことであろう。

 時代が移っても、同様にたくさんの人々が、この風景を眺めるに違いない。

 幽州台からの景色を見渡しながら、作者は思いをめぐらしたのだろう。

 因みに、陳子昂が亡くなった頃、李白や杜甫が生まれている。

 陳 子 昂(ちんすごう)  

 661〜702年。生没年には異説もある。唐代初期の官吏、軍人、詩人。字は伯玉。

 現在の四川省射洪の人。 その土地代々の豪族の出身。

 若い頃は任侠の徒と交わったが、後に改心、学門に励んだ。

 文明元年(682)進士に及第。数々の役職を経て、参謀として契丹討伐にも従軍した。

 698年、老父を養う事を理由に官を辞し、郷里に帰ったが、その財産に目を付けた

 県令に捕らえられ、獄死した。42歳。一説には、父の死後、喪に服し墓を守っているうち

 衰弱死したともいわれる。

 六朝中期以来の華美なる詩風を去り、復古的で気概に富む詩歌の創作に情熱を注いだ。

 李白、杜甫など、盛唐詩人の先駆者であった。

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 【参考】

 この詩はまた前の4句を取り上げ「無心」と題して巷間に膾炙されている。

 【詩意】

 花は無心で蝶を招く

 蝶は無心で花を尋ねる

 花が開く時に蝶はやって来る

 蝶が来る時に花は開く

 私はまた他の人を知らない

 他の人もまた私を知らない

 知らなくても皆自然の理法に従っている

 【語釈】

 帝則=自然の定理。中国堯帝の御代の童謡に「知らず、知らず帝則に従う」とある。

 良   寛(りょうかん)  

 作者略歴については、栞/心癒される詩に詳述。

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赤城山游草(磯部草丘)
 

 【題意】

 故郷の赤城山を心趣くまま歩いて。

 【詩意】

 これまで歩んだ人生 ひたすら画業に精進する日々だった

 一人酒を酌み 詩を吟じるうち 頭も白髪混じりになった

 あの一片の雲を眺めていると 何もかも夢のように思われる 

 何十年も前に親しんだ 猿鶴の住むようなこの緑深い山を 私は今歩いている

 【語釈】

 赤城山=群馬県にある山。榛名山、妙義山と共に上毛三山の一つ。

 猿鶴旧青山=猿鶴の住むような緑の深い山。

 日本画家である草丘には、牧谿作の観音猿鶴図に示されたような禅味が念頭に

 あったかもしれない。

 磯部草丘(いそべそうきゅう)  

 1899〜1967年。日本画家。群馬県佐波郡出身。名は覺太。

 川合玉堂門下で日本画壇の鬼才と目され、帝展、日展等に多くの作品を出品した。

 戦後は団体から距離を置き、個展を中心に活動。自らの日本画を追求し、名を求める

 ことがなかった。風景画を好み、俳句、漢詩も善くした。

 東京の目黒雅叙園旧舘の百段階段に「草丘の間」があり、風景画や四季の草花の絵を

 見ることが出来る。

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偶成(加藤忠広)
 

 【題意】

 ふと思いを得て成った。

 【詩意】

 人の運命など分からぬもので、まるで定まらない風のよう

 我が身も明星に似て西に行ったり東へ行ったり

 三十一年は一睡の夢の様に過ぎて

 ふと我に返ると、自分は破れた御簾の掛かった座敷の中ではないか

 加藤忠広(かとうただひろ)  
 1601〜1653年。肥後熊本藩二代藩主。慶長6年、加藤清正の次男(三男との説もある)と
 して生まれた。幼名、虎之助・虎藤。兄の忠正が早世したため後継ぎとなった。
 慶長16(1611)年、清正の死去にともない熊本藩主を継ぐが、この時まだ若年であった為、
 藤堂高虎が後見人を務め、藩の執政は5人の家老合議制に任せられた。
 その後、時の二代将軍徳川秀忠から一字をもらい忠広と名乗り、秀忠の養女を娶る。
 前途は順風かと思われたが、藩の統制はとれず、元和4(1618)年、家臣が二派に分裂する
 御家騒動に至って、藩は幕府の裁きを受けた。寛永9(1632)年、秀忠が死去して数ヵ月後、
 命を受け江戸参府の途上、入府を止められ、池上本門寺にて改易の沙汰を申し渡される。
 突然の改易の理由には様々な説があるが、加藤氏が豊臣氏恩顧の有力大名であったことで
 かねてより幕府に警戒されいたことも大きな要因と言われる。
 改易の後は庄内藩主・酒井忠勝預かりの身となり、出羽丸岡(現・山形県鶴岡)に1万石の
 所領を与えられそこで余生を送った。
 肥後熊本には豊前小倉藩主・細川忠利が入り、以後細川氏が代々藩主を務めことになる。
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秋浦の歌(李白)
 

 【題意】

 江南の秋浦(安徽省)の地で詠んだ。秋浦の歌17首連作のうち最も知られた第15首。

 宮廷詩人の職を追われ10年ほど経った、李白55歳(755)頃の作。

 【詩意】

 我が白髪は三千丈に及ぶ

 様々な愁いのせいでこのように長くなってしまった

 鏡に映る己の姿

 秋の霜の如きこの白髪はいったい何処からやって来たのだ

 【語釈】

 明鏡=水鏡を採る説もある。

 李   白(りはく)  

 ※作者については解説の栞・酒にまつわる詩を御覧下さい。

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易水送別(駱賓王)

 【題意】

 易水での別れ。

 則天武后の専横に憤慨し、燕の荊軻の故事に自らの心情を重ね詠んだ。

 【故事】

 燕の太子丹は、秦の人質であった頃、苛酷な扱いを受けた。その秦が、今また易水を越え、

 燕に攻め込もうとしていた。丹は秦王(後の始皇帝)暗殺の為、荊軻を刺客として差し向ける。

 荊軻は国の命運を担って旅立つ際、易水の畔まで見送りに来た者達に対し、「壮士一たび

 去って復還らず」と詠った。

 荊軻は秦王の面前で短剣を抜いたが、今一歩で失敗したといわれる。

 【詩意】

 この易水の地こそ、荊軻が燕の太子丹と別れたところだ

 荊軻は憤激の余り、逆立つ髪が冠を突き上げんばかりであったという

 「風は物寂しく吹きすさび、易水の水は冷たく流れる

 壮士は去り、二度と戻ることは無い」

 昔、そう詠った人も今は無い

 易水だけが今なお変わらず寒々と流れている

 【語釈】

 易水=戦国時代、燕の国を流れていた川。

 燕=中国戦国時代の国。紀元前222年、秦に滅ぼされた。

 荊軻の話は、駱賓王から見て900年位前の出来事になる。

 駱賓王(らくひんおう)  

 640?〜684年。初唐の詩人。初唐四傑の一人といわれ、七言長編詩「帝京篇」が有名。

 則天武后の専横に対し、度々上奏文を表したが入れられず、李敬業(徐敬業)が反乱の兵を

 挙げると、それに参加し、檄文を草した。しかし乱は平定され、行方知れずになった。

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馬の図(廣瀬旭荘)

 【題意】

 馬の絵を前に志を述べた。

 【詩意】

 遠く隔たった僻地では優れた功績を立てる途も無く

 ただ空しく他の馬達と共に繋がれている

 だが歳をとってもなお、千里の志は持ち続けている

 柳を吹き渡る風に向かい 一声長くいななきたてがみを振る

 【語釈】

 千里=千里の馬。名馬は千里を走ると云われる。

 廣瀬旭荘(ひろせきょくそう)  

 1807〜1863年。江戸後期の儒学者、漢詩人。豊後(現在の大分)日田の人。

 名は謙。旭荘は号。廣瀬淡窓の末弟。

 幼い頃より聡明で、兄淡窓や亀井昭陽に学び、早くから頭角を現すと、若くして

 淡窓の開いた私塾感宜園を任せられた。

 後に大阪に出て、堺に逍遥吟社を開き、その後江戸でも塾を開く。

 勤皇の志厚く、釈月性、佐久間象山、吉田松陰らとも親交をもった。

 清代の学者、愈エツ(愈曲園)は著書「東瀛詩選」(日本漢詩選集)中で旭荘の詩を

 「変幻百出」、「東国詩人の冠」と絶賛した。

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舟中元九の詩を読む(白居易)
 

 【題意】

 舟の中で(げんしん)の詩を読む。

 白居易は左遷されて杭州の司馬へ赴く途中、から送られた詩「白楽天の江州司馬に

 佐降せられしを聞く」を読んだ。二人は同時期に官僚として歩み始めた無二の親友。

 権謀術数渦巻く官界にあって、どちらも左遷の憂き目に逢ったが後に再興した。

 白居易が遠地へ左遷された友人を想い、「八月十五日夜禁中に独直し月に対して元九を

 憶う」の詩を詠んだのはこの五年程前のことだった。

 【詩意】

 君の詩集を手に取り、灯火の前で読む

 詩を読み終え、灯火は残り、夜は未だ明けない

 眼が痛むのも忘れ没頭していた 灯りを消して暗闇に座っていると

 向かい風が波を荒立て、舟を打つ音だけが聞える

 白居易(はくきょい)  

  ※作者については漢詩と作者略歴・冬来たるの頁に詳述。

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漁竿(徳富蘇峰)
 

 【題意】

 釣り竿。

 無想の境に入る為に釣り竿を手にしたが、結局のところ国のことを忘れることは

 出来なかったという心情を現されているように思える。

 【詩意】

 一時、湘南の海に小舟を浮かべ釣り竿を手にとる

 身の上のことは何もかも忘れてゆったりと過ごした

 秋の海に夕日が差して、どこまでも広がっている

 その中に逆さに映る富士の姿を見た

 徳富蘇峰(とくどみそほう)  

 ※作者については解説の栞・熊本漢詩紀行一に詳述しています。

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東山を憶う(李白)
 

 【題意】

 東山を眺めて思う。

 二首連句の其の一。李白が宮廷詩人を免職になった744年頃の作といわれる。

 東山は南京市の東南にある山。李白はこの山のふもとに住まい、かつて東晋の政治家

 謝安(320〜385年)が隠棲した東山(現在の浙江省紹興市)に見立てた。

 薔薇、白雲、明月はそれぞれ謝安が東山に建てた堂の名にかけてある。

 謝安は後に中央政界に復帰し、東山の再起という故事成語が出来た。

 【詩意】

 東山に出向かなくなって久しい

 その間に薔薇の花は幾度咲いただろうか

 白雲はまた自然と消え去った

 今宵の月はどの家の上に沈むのか

 【語釈】

 其の二では以下のように続く。

 自分は今、謝安先生に習い、妓女を連れ、

 長嘯(長く声をひいて唄う)し、世俗を離れた

 この隠遁を謝安先生に報告すべく

 門を開け、東山にかかる白雲を掃いのけよう

 李  白(りはく)  

  ※作者については解説の栞・酒にまつわる詩の頁に詳述。

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杜十四の江南に之くを送る(孟浩然)
 

 【題意】

 杜十四が江南の地に赴任するのを見送る。

 十四は排行。排行は中華圏で一族の同世代の人を年齢順に数字をつけて呼ぶ習わし。

 父の兄弟の子(同姓のいとこ)を数えるので、必ずしも兄弟の十四番目ではない。

 「杜晃進士の東呉に之くを送る」と記すものもある。

 杜晃進士は進士の合格者である杜晃の意。

 【詩意】

 荊と呉は互いに隣り合う江南の水郷地帯である

 君は旅立つが 春の長江はどこまでも滔々と流れ続けていることだろう

 日暮れ時 君の舟はポツリと どこに泊していることか

 遠く空の果てを望み 私は別れの切なさに心が引き裂かれるだろう

 孟浩然(もうこうねん)  

 689〜740年。盛唐の詩人。襄陽(現在の湖北省)の人。

 王孟または王孟韋柳(王維、孟浩然、韋応物、柳宗元)と称せられた。

 五言絶句「春暁」の春眠暁を覚えずの一節は特に有名。

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