慶長12年(1607)の棟札によると、大永3年(1523)の創建とされ、当時は「日之御子(ひのみこ)大明神」と奉称された。思兼命、表春命を祀る戸隠神社に日之御子社があることから、阿智神社や安布知神社と関連して祀られたのかも知れないが、由緒は明らかでない。
正保2年(1645)の棟札は、日之御子大明神と八幡宮の2枚があり、寛永年間(1624〜43)に領主の宮崎半兵衛が八幡宮へ3石の除地を寄進したとされることから、この頃に八幡神を勧請して「小山八幡社」と呼ばれるようになったのだろう。
現在の社殿は明和2年(1765)のもので、宮崎氏は既に改易になっていたため、氏子中の寄進で相殿として再建した。
参道にある御影石の大鳥居(写真上)は、昭和10年の建立で、河内川の岩塊から切り出されたという。高さ7m、笠石の長さ10.5mは、飯伊一の大きさである。昭和59年(1984)の長野県西部地震で中貫が落下して損なわれたのが惜しまれる。
石段下の西側に天満宮がある(写真下)。宮崎氏の家臣であった美濃部氏が勧請したものを、ここに移築した。この社には田中多賀吉の算額が奉納されていた。
→ 『阿智村誌』 p.714
→ 『愛郷探史録』 p.99 阿智の神々考
→ 『探史の足あと』 p.210
長野県西部地震の被害
→ 村内札所一覧 「八幡院」