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 小松山八幡(やわた)(伊那秩父第2番、伊那四国第66番札所)

    所在地(江戸時代の村名):阿智村伍和古料(向関村古料)      
<御詠歌>
 幾年も変わらず称へ小松山
 峰のあらしもみのりなるらん

 当院は小山八幡社神宮寺として創建され、長岳寺の隠居寺でもあった。
 小山八幡社は向関村領主宮崎氏の鎮守であり、宮崎半兵衛が社領3石を寄進している。

 最後の領主宮崎清三郎助作が屋敷を引き払って江戸に住む準備を始めた元禄初年(1688頃)に八幡院は創建されたと見られる。長岳寺14世乗円法印の時代である。乗円の寂後に住職を継いだ俊海に改めて渡した証文(元禄8年/1695)が残っている。
 宮崎氏が離郷した後も一族の武運長久を祈祷する祭祀が怠りなく行われるよう、八幡院を別当寺院として社領の収納を任せたのである。

 その願いも空しく12年後の宝永4年(1707)に清三郎は改易を命じられた。社領3石は除地として没収を免れ、八幡院は明治維新までの180年間法灯を維持し、八幡社の祭祀執行を行った。

 当院の敷地は小山八幡社の南東100m余の所にあり、安永の書き上げによれば、5間×6間の大きな堂宇であった。
 本尊は大日如来で、札所になっているのは「下伊奈郡案内道中記」によれば千手観音であるが、明治の神仏分離の書き上げには正観音と記されている。

 廃寺となった八幡院の敷地は水田となり、山際に住僧の墓地(写真中)が9基残るのみである。八幡社境内(天満宮の左手)に寛保2年の名号石、参道(阿弥陀坂)の二千万遍念仏供養塔が、僧侶による神社祭祀の名残を感じさせる。

 →(参考) 『阿智村誌』 下巻 p.785
構造改善された八幡院跡地周辺
小山八幡社の左手にある八幡院墓地
寛保2年の名号石
念仏二千万遍供養塔
 撮影・取材 2004.11.16