『吾道宮縁由(あちのみやえんゆう)』を読む
〜以下は要旨です。(文責 さんま)〜
(1) 阿智神社に所蔵される『吾道宮縁由』は、智里村史や下伊那史4巻に要約や一部分が引用されているが、全文を掲載した史料はなかった。筆者である伊豆竜沢寺東嶺和尚が『旧事大成経』を信奉し、それに基づいて『吾道宮縁由』を書いているため敬遠されたようだ。『旧事大成経』は江戸時代中期の偽書とされるが、東嶺和尚はそれを否定していたのである。
しかし、この縁由により山王権現が式内社阿智神社であるという論証がなされ、戸隠神社とのつながりが明らかにされたことにより、当地でも忘れられていた阿智神社の存在が再認識されたという功績は大きい。
『吾道宮縁由』は、美濃版の綴本だったのを巻子本に改装してある。わかりやすい楷書体で書かれた文書で、多くの漢字にふりがなが付され、重要な熟語や固有名詞には朱線が引かれて誤読のないよう配慮されている。また通常の寺社縁起書と異なり、本縁(総記)・神書考(史料解説)・引証(史料の引用による阿智神社祭神の考証)の3部に分かれた論理的な記述が特徴である。
「本縁」と「神書考」の全文は『愛郷探史録』を参照。概要は次の通り(文責 さんま)。
「本縁」では、天思兼命が多くの神々の中でも特に優れた智神であったことを説き、次に「三部神道」について解説し、思兼命を元祖とする「霊宗道」の教理を称揚している。また、阿智神社から戸隠神社への分霊について述べ、阿智神社の社家は表春命の末裔と心得るよう説いている。
「神書考」では、旧事紀十巻・古事記三巻・日本書紀を三部の神書として取り上げている。大成経を信じる立場から、大成経が最も古く、旧事紀十巻・古事記の底本であり、日本書紀は諸家の伝書の寄せ集めで疑わしいことが多いと批評する。その他の神書は取るに足るものが少なく(元々集は評価)、特に近来の書は儒者の手によるもので、仏教や三部の神書を誹謗して日本の古実を失っていると批判している。
ここまで、江戸時代の書には稀なカタカナ交じりの文体で返り点も少なく、果たして東嶺和尚の筆跡なのかと疑念もかすめる。
(2) 「引証」は、古書に基づき阿智神社とその御祭神について立証する最も重要な部分で、漢文で書かれ前半より難読難解である。
「引証」の全文は『愛郷探史録』を参照。概要は次の通り(文責 さんま)。
大成経によると、孝元天皇(人皇8代)5年に天八意命(思兼命)と、児の手力雄命が科野の国に天降り「吾道宮(あちのみや)」を建てて鎮座した。その後手力雄命は戸隠山に遷り、岩窟を作って鎮座したとある。
旧事紀十巻には、天思兼命が信濃国に天降り、阿智の祝部等の祖になったとあり、旧事紀の神名帳にも信濃国伊那郡阿智神社とある。
延喜式神名帳には、伊那郡二座、並に小として、大山田神社と阿智神社が見える。ここに言う大小は時の帝王による崇敬の大小に過ぎない。
元々集には、神皇実録を引用して思金命の児を手力雄命の神とある。また(旧事紀の引用か?)24丁32人が天降り、天表春命(八意思兼の児)は信乃阿智祝部等が祖とある。
この後、東嶺和尚の作った偈(げ)(漢詩)が3つあり、阿智神社を30年間探し求め、天明元年(1781)に神供霊祭を修めるまでの経緯と気持ちを表している。
この後、「神文四十有七言=先天神言(さきつあめのかんごと)」、「後天神文(のちつあめのかんごと)」、「豆州竜沢寺豊霊魂命(とよみたまのみこと)神道総頌曰」の三編の呪文と偈があるが、末尾に文政8年(1825)とあり、東嶺和尚の筆とは思えない(存命なら105才)。
また、昼神の原家には、この縁由に添えられた東嶺の書状が軸装にして保存されている。(原文と訓読・解説を掲載)
以上、縁由と書状を原文に活字化したので、これを研究される方の一助となることを願っている。