音楽室(3)




[ 12音技法=”相互の間でのみ関係付けられた12の音による作曲技法”・第3回 ]


 前回までのこのシリーズの内容から、いわゆる12音技法というものがどのような作曲のための技法であるのか、その概略だけでもご理解願えたであろうか。もしあなたがその気なら、前回までの知識だけでもこの技法を用いて実際に作曲してみる事自体は可能であろう。しかしながら、その段階ではまだこの作曲技法の表面を軽く触る程度のものでしかない。肝心なのは、単にこの12音技法の基本則に従って作曲する事というより、どのような仕方でこの作曲法を活用するのかである。

 12音技法とてひとつの作曲法に過ぎたるものではない。作曲する者の独自な用法があってこそ、はじめてそこに価値を見出す事も出来る。そしてこの作曲法の場合、作曲家独自の用法は12音による音列の内部的特性の構成の在り方に帰着するといえる。12音技法にあっては12音音列こそが作曲の実際における全ての発端なのである。

 今回は12音音楽における作曲の名人たちが、音列をどのように組織化し、それをどのように展開して楽曲と音列とを密接な連関の内にまとめ上げようとしたのかを見てみたいと思う。もちろん、本項の限られたスペースの中ではごく一部の例しか取り上げる事は出来ないけれども、しかしその巧みな手法にふれる事おいて、それぞれの作曲家の深層にある音楽理念といったものに想いを馳せていただけたら、と思うものである。


・音列の内部構成

 先ず、12音音列は下記の例のように、その構造をいくつかの音群に分割し得るものとして考える事が出来る。また、4個の音群からなるものとして3つに分割して考える事も出来るであろう。どのように構造化するのかは作曲する者自身の意図にかかわっている。


  


 上記に同じく以下の音列は、アーノルト・シェーンベルクが12音技法による初期の作品”弦楽五重奏曲 作品26”で用いた音列の4つの形態である。彼はこの音列にどのような内部的構造を持たせたのであろうか。





 このシェーンベルクの音列は非常に巧みに構成されている。この音列の基本形O
を完全4度上に移調した場合(O6)、次のような特徴を現す。


  


 この音列を6音ずつの2つのグループに分割して考えた場合、後半第7音からのEs-G-A-H-Cis(Bは除く)は、O
1の第1音から第5音と等しい。また、O6の第6音Fを含めればOの第12音から第5音と等しい。

 続いて基本形O
1を完全5度上に移調した場合(O8)、この音列は次のような特徴を現す。


  


 この音列の第12音から第5音までの配列(C-B-D-E-Fis-Gis)は、O
1の第6音から11音までの音と等しくなる。

 さらにO
1の反行形、I1の長3度上(I5)と短3度下(I10)の2種類の移高形音列は以下の通り、それぞれの音列内に2つの音(6,7)をはさんで対称的に入れ替わるかたちで2組の類似する音群を持っている。


  


 これらの例にみるように、移高された音列に現われる構造的な特徴は、実際に楽曲を構成するにあたっては非常に重要な要素となるのである。例えばこれら類似する音群を持つ音列を組み合わせ、作者の意に叶うべく、ある特定の音形を強調させたり、変化を与えたりする事も出来るであろう。シェーンベルクは作品26において、上記のO
6、O8を第一楽章の呈示部で、I5、I10は同曲の展開部で使用している。

 続いて同じくシェーンベルクの音列を観察してみよう。以下の音列は”弦楽三重奏曲・作品45”に使用された12音音列である。


  


 この音列の特徴は基本形O
1と完全4度上の反行形I6とを比べた場合、O1の前半の1〜6がI6の後半7〜12の音グループと、またO1の後半7〜12とI6の前半1〜6とが、その並び方こそ違え、全く同じ音から構成されている事が分かる。

 シェーンベルクは作品45の中で、2つの音列が現われる場合においては上記の音列同士の関係、すなわちO
1とI6、O7とI12などという基本形とその完全4度上の反行形音列とを巧みに組み合わせて用いている。

 また、この作品においては短2度進行による音形が多く現われているが、これは例えば基本形の2と4、3と5、あるいは8と10、9と11といった、ひとつおきに音をとった場合に現われる短2度音程の活用によるものである。つまり、ここでシェーンベルクは12音技法の基本的理念である”12の音の順列は守らなければならない”という規則に自ら反し、部分的に音の順列の入れ替えを行い、このような特徴的な響きをこの作品に組入れているのである。このようなところにシェーンベルクにおける音列というものの意味の変化が認められる。


 以下の音列もシェーンベルクのもので、”ヴァイオリンのためのピアノ伴奏つきファンタジー・作品47”に使用されたものである。


  


 この作品に使われた音列も前出の弦楽三重奏曲の音列と同じく、基本形に対して完全4度上(完全5度下)の反行形音列の前半6音が基本形の後半6音が同じ音グループによって構成されており、後半6音についても同様である。これは晩年のシェーンベルクが好んで用いた音列の特徴であり、用法である。

 この音列の使い方に関しても弦楽三重奏曲と同様に、2つの音列を使う場合はこの関係にある組み合わせを用いている。また、実際の書法においてはそれぞれの音列を6音ずつに分断するかたちで、つまり、ある音列を用いる場合、音列の構成音すべてを呈示させるのではなく、6音からなる音群として組み合わせ、組織させようとしている。




 次にアルバン・ベルクの音列について観察してみたいと思う。以下の音列はこのシリーズの第2回目にも取り上げた、彼の回顧録とも目される”ヴァイオリン協奏曲”の骨格となる音列である。譜例の使いまわしのようで恐縮であるが、ともあれこの音列は彼の音楽の特徴を端的に現したものとしてよく引き合いに出されるものである。


  


 この音列は上記のように古典的な和音、すなわち4つの長・短三和音と増・減三和音とを含み、最後の第9音HからCis-Es-Fの4音、または第1音Gを含めて全音音階を組織している。

 ベルクはこの作品の導入部で、基本形音列を一つおきにとった4音からなる2つの音群、つまり1-3-5-7=G-D-A-Eと2-4-6-8=B-Fis-C-Gisという5度音程からなる動機のグループをアルペジオとして用いている。また、9〜12の全音音階は第2楽章のアレグロによる第1部のあとに続くアダージョへの導入部において、バッハのカンタータ・第60番の終曲からの引用として意味深く呈示されている。

 ベルクはこの音列の持つ内部的特徴を巧みに活用しつつ、ときにあからさまとも言えるほどの古典的和声的な効果をこの作品において表現している。12音音楽における音列とは、もとより古典的和声から脱却(一般には調性に対する無調性などといわれるが)すべく現われた新しい作曲法の根幹をなすものであるが、しかしながら、作曲家の意図によってはこの例のように、音列における作曲において古典的な響きを表現すべく構成することもまた可能なのである。


 次に示す音列は同じくベルクの弦楽四重奏のための”叙情組曲”に用いられているものである。


  


 この音列の特徴としては12半音階における全ての音程を含んでいる。これは特殊な音列であって、総音程音列、あるいは全音程音列などと呼ばれる。長・短6度、7度は長・短2度、3度音程を転回する事によって得られる。そしてこの音列は中央のDとAsによる増4度(減5度)音程を中心として、左右の音群の音程関係が鏡像形をなしており、シンメトリックな関係になっている。

 そして、6音ずつの音群として前半と後半とをグループ分けした場合、そのグループ内の音群を1音おきに音をとると、完全5度(完全4度)からなる構造になっているのが見て取れる。さらに前半の音群はC dur = ハ長調の音階の構成音であり、後半の音群はGes dur = 変ト長調の音階の構成音で編成されている。


  


 また、この音列の後半の6音は、前半の6音を増4度移高させた逆行形であり(先に述べたように、それぞれが鏡像関係にあるので)、この事から本質的にいえば、この音列には逆行形は存在しないといえる。

 ベルクはこの作品の中でこの音列を数字的に操作したり、部分的な音の入れ替えを行ったりしている。それはつまり、音列といえどもそれは12音技法の規則に厳格に従うべきものという以前に、楽曲を構成するための素材としてまず在るという事である。




 続いてアントン・ヴェーベルンの音列を取り上げてみたい。以下の音列は”9つの楽器のための協奏曲 作品24”に用いられたものである。

 この音列の際立った特徴は、音列自身を4つのグループに分割した場合の最初の3音からなる音群aを基本に、他の音群b、c、dが密接に関連付けられているという事である。

 以下の譜例をよく観察してみれば、音群bはaの反行逆行形であり、音群cは逆行形、音群dは反行形という音程関係をもっているのが分かると思う。


  


 例えば、この音列をそれ自身の短2度上の反行形音列I2と比較してみた場合、以下のように核となるそれぞれの音群は、その内部構造を改める事無く、逆の方向から現われてくる。


  


 また、基本形音列O
1の反行逆行形IR1は、音群a、b、c、dの位置を改める事無く、それぞれの音群がそれ自身の逆行形となって現われてくる。つまり、a'はaの逆行形といったように。


  


 以上の例はこの音列の堅固な内部的関連の特性による事例のひとつに過ぎないが、このような音列の構造によって、この作品全体を通して同じ音程関係がくり返し聴かれる事となるのである。この音列においてはヴェーベルンにおける厳格な12音技法の理念が集約されているといえる。

 また、この音列を用いての実際の作曲という場面においては、この音列の特性に則った仕方で音を組織化するという事にもまして、音高以外の要素である音価や音の強度、そしてリズムについても組織的に扱おうとしている。それは往々にしてシンメトリックな対称的な関係として書かれている。このようなところに後に展開されるべくセリエルな思考といったものの萌芽がみられるのである。その意味において、後に多くの音楽家から高い関心を集めた所以があるのである。


 次の音列はヴェーベルンの存命中に出版された作品の中で最後のものとなった、”弦楽4重奏曲 作品28”に使用された音列である。

 この音列も先述のものと同様に、非常に巧緻に構成されている。したがって、作品28の本質的な特性は、まず何よりもこの音列の性格によって基礎付けられているのである。

 下記のように基本形音列を分割してみると、作品24などと同様にシンメトリックな構造を持ったいくつかの音群によって構成されている事がみてとれる。


  


 まず12の音を3音ずつの音群に分けた場合、音群bは音群aの反行形の音程関係となっており、音群cは音群aと同一の音程関係である。また、全体を前半・後半の6音ずつのグループとすれば、後半の6音は前半のグループの反行逆行形となっている。さらに全体をみてみれば、基本形Oと反行逆行形IR、また、逆行形Rと反行形Iとではそれぞれ音程関係が同じとなる。したがって、O
1とIR10、およびR1とI10は音列としては全く同一のものとなる。この事からこの音列は本質的には2種類の形態と、24種類の移高形しか持たないきわめて限定的な音列であるという事が出来る。ちなみにヴェーベルンがキーワードとしていたB-A-C-H(バッハ)という音群をO4、O8、R12において含んでいる。




 以上、12音技法における音列の在り方について、いくつかの代表的な例を取り上げてみたのであるが、もちろんこれらの例にしても多様に有り得るであろう音列のわずかな一例に過ぎないのであり、これによって音列というものの全ての在り方を取り上げきれるものではない。しかしながら、たとえ多様なバリエーションからの抜粋ではあるにせよ、これらの音列の持ち得る内部構造の在り方と、その特性と深く関わる用法上の可能性というものについての何かしらの理解、あるいは感触などといったものは感じ取られたのではないであろうか?

 ともあれ、ここまでの私の拙い紹介にお付き合いいただいて、なるほど12音技法による作曲とは机の上で音列の順列を入れ替え、並べ替え、こねくりまわして作者の感覚的・感情的なものなど入る余地など無い、非人間的な作業のような印象を持たれたかも知れない。12音音楽における音列とは、この音楽の唯一の根本的原理である。12音技法によってどのような音楽を作るのか、そのためには如何なる音列を構成すべきか・・・そしてその具体的な組織化とはいかに?。このように考えると努めて理念的・思考的な印象を受けてしまう場合が多々ある。かつてのヨーロッパ伝統音楽などに慣れ親しんだ人にとっては、このような印象を待たれるという事は自然な事かも知れない。このような事から、音列技法による音楽を”頭で作る音楽”、”小手先の作曲”、”作曲家のひとりよがり”・・・等々、様々なかたちでの非難が向けられるのも故無き事ではあるまい(この傾向は12音音楽のみならず、その後に現われるより新しい音楽形態についてはより顕著に現われてくる。・・・これはもはや音楽ではない!等)。

 しかし(私はとりわけこの技法を擁護するつもりは無いのだが)、一口に12音技法とは言っても所詮は作曲のための手段にしか過ぎないのである。そしてそれは過去の行き詰まりを打開すべく試行錯誤の内より生み出されたものであり、その淵源をたずねれば、それは人間の創造力の営みであり、偉大な創造性の発露たるべきものである。であるから問題なのは、この作曲法の特質がどうであるのかというよりも、むしろ人間の側がそれをどのように扱うのか、という事のほうに重みがあるように思う。この技法をどのように扱うかによって、それによる帰結としての音楽作品にもそれ相応の性格が宿る。例えば、(もし、このようなレベルの判断基準を引き合いに出すとすれば)人間味の無い機械的な作品としてそのように作る事も出来るだろうし、その逆もまた充分可能である。そしてその両極の間に広く分布する多種多様な印象は、実際にその作品を聴く人においての判断でしかない。もちろん、文字情報等による伝聞に基づき、聴く事無く何らかの印象を持つ事も出来る。しかしこの場合の判断は大体において良くも悪くも先入見というべきものであろう。どのような種類のものであれ、音楽とは実際にふれてみるべきものである。

 人それぞれに音楽上の好みがあるのは至って当然の事である。しかしながら、その事がもし音楽の表面を辿ること以上のものでないのであるならば、実にもったいない事である。音楽の真の深みとは我々の想いを超えて世界の深淵にまで遠くおよぶ。と、少なくとも私はそう考えている。


 何やら取り止めのない言葉で本稿・第3回目を結ぶ事となりそうであるが、ともあれ次回・第4回までしばしの間合いを・・・。



[ 第3回・終了 ] 2003.7.21/2003.7.27補完




 第4回へ続く。 (本当か?)


参考文献
 20世紀の作曲 現代音楽の理論的展望 ヴァルター・ギーゼラー著 音楽之友社 (理論)
 新訂・近代和声学 近代及び現代の技法 松平頼則著 音楽之友社 (理論)
 新ヴィーン楽派 音楽之友社 (楽曲分析)
 和声の変貌 エドモン・コステール著 音楽之友社 (理論)
 その他。

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