§7 ケインズ投資乗数を巡る過去の難問題
工博 林有一郎
2006年10月17日 
ケインズ投資乗数1/(1-MPC)の形は、投資財以外の他の経済項目関数にも誘導される。ここから、Lange,o(文献(1))等により、難しい問題が提示されたが、この経緯は、日本語では、文献(2)の第5章、第3節、「国民所得乗数とその理論の諸形態」に詳しい。
Langeの論点を追ってみよう。Y=C+I、dC/dY=MPC、dI/dY=MPI、dS/dY=MPS( S = Y - C:貯蓄)とする。
もし投資Iが独立変数であれば、MPC(定数)が存在するので、ケインズの乗数論理により、投資増分dIと国民所得増分dYとの間で、次式が成立つ。
                      dY = dI + MPC·dI + MPC2·dI + · · · 
                             = dI (1+ MPC+ MPC2 + · · · )
                       = dI / (1 - MPC) (7-1)
ここに
                       | MPC | < 1 (7-2)
もし消費Cが独立変数であれば、MPI(定数)が存在するので、同様に、消費増分dCと所得増分dYとの間で、次式が成立つ。
                       dY = dC(1+ MPI+ MPI2 + · · · )               
                            = dC / (1 - MPI)  (7-3)
ここに
                   | MPI |<1  (7-4)
式(7-1)において、投資増分dIの中に含まれる自律的な初期投資増分をdI0と表す。dI0は、所得増分dI0に変わり、その所得増分dI0は、新しい消費増分(dC/dY)dI0と投資増分(dI/dY)dI0、即ち合計額((dC/dY)+(dI/dY))dI0の最終生産物を誘発する。そして、その生産物は次の所得増分に変わり、それは次の段階の生産物((dC/dY)+(dI/dY))2 dI0を誘発する・・・。
初期投資増分dI0を含む誘発生産物の合計額は、全体の誘発所得増分のはずであるから、次式が成立つ。
                      dY = dI0 + (dC/dY + dI/dY)dI0 +  (dC/dY + dI/dY)2dI0 + · · · 
                             =  [1+ (dC/dY + dI/dY) + (dC/dY + dI/dY)2+ · · · ]dI0       
                             = dI0/( 1 - (dC/dY + dI/dY) )   (7-5)
同様に、この論理は、自律的な初期投資dC0についても成立つから、次式を得る。
                    dY = dC0/( 1 - (dC/dY + dI/dY) ) (7-6)
二つの式 (7-5)と (7-6)を見るに、被乗数である初期値dI0とdC0は、同一の乗数1/( 1 - (dC/dY + dI/dY))によって拡大されて、 dYとなっている。即ち、初期値が消費増分であっても、投資増分であっても、所得増分効果の乗数は同一である。この結果と式(7-1)、(7-3)とを見比べると、結局は、式(7-8)で定義される「限界複合支出性向MPE = dE/dY」が存在し、式(7-9)が成立っていると推定せざるを得ない。
                    E = C + I   (7-7)
                    dE/dY = dC/dY + dI/dY
                             = MPE (7-8)
                    dY/dE = 1/(1 - dE/dY) (7-9)
乗数1/( 1 - MPE) を「複合乗数」と呼ぶことにする。
式(7-7)の安定条件は,次式である。
                    | dE/dY |<1 (7-10)
                                
式(7-10)は、ケインズによる基本式Y=C+Iから導かれる1 =  dE/dY と矛盾する。この矛盾を解消するために、[1 - dE/dY]なる値を導入し、これを限界複合非支出性向と名づける。そうすると、安定条件式(7-10)は、限界複合非支出性向[1 - dE/dY = (dY(所得) -dE(複合支出))/dY]が正値である、即ち、複合非支出性向は所得の増加関数であるという条件に置き換えられる。
この条件は、dS/dY > dI/dY、つまり、限界貯蓄性向が限界投資性向より大であるとき、満足される。この関係は、均衡理論における良く知られた関係である図7-1を示す。 しかしながら、dS/dY> dI/dYは、ケインズの基本式 I = Sと矛盾する。

図7-1 文献(1) p.228
この論述の矛盾は、Y=C+Iの系に定数であるMPC(又はMPI)の存在を仮定した瞬間に、この系が1自由度系になった(YをIとCに分ける意味がなくなった)ことに、Langeを含む全ての人々が気付いておらず、この系がCとIの2自由度系のままであると思い込んでいることから生じている。なお、この系が1自由度系であるという論拠は、CとYはMPCで結ばれる線形関係にある(線形関数でなくても逆関数を持つ非線形関数でもよい )ということから導かれる(クズネッツ型でもケインズ型でもどちらでもよい。)。
Langeの問題提起とそれに対する矛盾の指摘が解決されずに残っているところを見ると、今もって、このY= C+I 系における1自由度と2自由度の違いが認識されないままになっているのであろう。なお,1自由度系としての有効需要の量は、それを最も知りたいと思う経営者を含めて、自由意志に基づく資本主義社会では、誰にも事前には分らない。何故なら、それは、顧客の頭の中の意志次第にあり、人間の今日の事情は明日の事情と常に異なるからである。
なお、文献(2)の同節の中に、ケインズ投資乗数が巨視的な経済を対象にしたものであるのに対し、多部門乗数(行列乗数)、即ちレオンチェフ逆行列乗数が微視的な現象に対象を広げた乗数であり、乗数効果としては基本的に同質のものであると論じている。これは、文献(2)の著者のみの考えによるものではなく、世界全体の考えである*。筆者が指摘するように、レオンチェフ逆行列乗数は、所得乗数効果を表すものではなく、最終生産物に中間需要を加算しているだけのもの、あるいは、GVAが最終生産物GDPに到る重なり合った数の取引を加算しているだけのものである。
* この部分(「・・世界全体の考えである。」)の記述は、筆者の誤解(筆者は誤解していないが世間が誤解している。)であった。下記文献を紹介する。①産業連関分析における「生産誘発効果」と、いわゆるケインズの「乗数効果」とは似て非なるものであることに注意する必要があります。(かなり経済学に馴染みのある人でも、誤解していることがあります。)。さらに、②・・・この生産誘発過程における付加価値額の増加額は、丁度追加最終需要(ここでは、公共投資)の額に一致するはずです。しかし、ここにおいて、雇用者報酬の増加が新たに家計部門の消費需要の増加を生むとしますと、第二次追加最終需要が発生することとなる訳です。筆者(林)の解析によれば、①は正しく、②の「しかし、以下」は誤りである。「産業としての金融サービス、ECONOMICS-栃本道夫のホームページサブファイル」。http://www.geocities.jp/mt02002/econometrics/econometrics.html。 2009/8/31追加

レオンチェフ産業連関表理論における閉鎖型モデルには、家計の投入部分に消費財が現われ、それは丁度総生産財に対して、各産業セクター生産消費財への消費性向に当たる。レオンチェフ産業連関表解析によれば、最終需要増により総財貨増分に対して相乗効果が生じるという理論的説明がなされている。これは全くの誤りであることが筆者により第2章で証明される。(2010/7/5)レオンチェフ産業連関表解析法に代わる新しいキャッシュフロー行列解析法の提案(概要)

筆者の見解では、封鎖経済では、経済全体が消費と投資を包含した一種の1自由度系であり、レオンチェフ逆行列乗数や筆者の導いたC/F行列中のP行列は、GVAから総生産物(最終生産物+中間消費)に到る需要や供給を通じて、その国固有の、国民生活様式や文化における好みや習慣、国内商取引様式を規定する総合的な一定数のようなものである。要するに、それらの行列は、個々の国の文化や経済構造の違いを表す総合的なパラメーターであると考える。1生産者の中にも自社GVAと売上げに対して同じような企業構造行列が存在する。その行列内容を大きく変えることが経済構造改革や企業構造改革であり、根本的に変えることが経済革命である。
中間消費付加行列(前述のP行列)は、結局は産業の能率を表すのであり、式の上からは今のところ明らかには誘導できていないが、多分、最終生産物の量自体(職場の量)にも関係する。このことは、各種の経済規制や経済慣習は、その制約分の職業(所得)を生むが、国際競争力は弱めるであろうことを暗示する。この中間消費付加行列には、経済成長や失業問題にも関わるようなことも含めて、様々の秘密が隠されているような気がする。
筆者は、各節で、一貫してCはYの線形独立関数、IはYと比例関係にない独立変数という関数性状を維持しつつ、投資乗数効果問題を解析している。誤解の無いように注意しておくが、この条件はケインズ(あるいは、ケインズ学派)が設けた前提であって、筆者が設けたものではない。
筆者は、MPCが定数(多少、非線形性を伴う。)として現に経済の中に存在しているのだから、CとIとYは、互いに或る定まった割合関係を有する1独立変数に帰するということを主張している。即ち、Y=C+Iで表され、MPC(定数)=dC/dY、又はMPI(定数)=dI/dYが統計的に観察される或る経済システムにおいて、Σi inputi = Σoutput である限り、dY = dC/MPC = dI/(1 - MPC) = dI/MPI = dC/(1 - MPI)が成立する。そして、その全体としての1独立変数であるY(=C+I)は、Y(Cも、Iも)全体の大きさに比例して生じるGVAと、それとは独立に生じるGVAから成立っているようだといっている。なお、MPCがYに対し、多少の非線形性を伴うのは、MPCが人間の経済における一性向を表す統計値であることから当然である。
 
参考文献
 
(1) Oskar Ryszard Lange,The Theory of the Multiplier, 1943, Econometrica
(2)林田睦次, 「ケインズ学派」, 多賀出版(株),1986. 
 
2006/10/17 発表

(c) Dec. 2003, Yuichiro Hayashi