浦城趾本丸
制作 北嶋雄一
古城趾 浦城
浦城の歴史を伝える会
古城趾を巡る
事務所
浦城主、三浦兵庫守盛永の祖は鎌倉時
代相模の領主で北条氏と覇権を争い。
北条氏の謀略で。 和田合戦(1213)
(三浦和田) 宝治合(1242)で破れ全国
に敗走特に隣国武蔵・甲斐・上野・下野・
信濃若狭・越後なで活躍した武将も多い。
三浦氏は各地の戦乱で、領主の主従
関係も深まり、30幾つもの氏の分かれ
ている。
浦城の三浦氏は古文からの詮索で
三浦和田系も濃厚である。
「秋田軍記の祖本」は湊合戦終結後
126後に記録されたらしく、史実性も
高い。
浦の城主は三浦兵庫守盛永で弓取
りの名が高かった。祖先は・鎌倉落城
の時・甲斐の国より当国へ着く。
三浦平治臣近江守盛実の子孫であり
甲州武田に付いて、文武のほまれ高く
世の人々認めるところであった。
安藤安芸守太郎近吉(湊城主)聞き及
び東夷退治の節、一騎当千と頼まれそ
れ以来、近吉と内縁となり、一城主とし
て、浦の城の三浦氏に三百余町、を添
えて湊城の要心のため、外城に構え置
かれた
【地図中の名称は各種軍記・菅江真澄の記述・三浦家代々記・中世の城造り・城下の伝承等を基に
作成したものですが、浦城趾をご訪問下さり、ご教示戴ければ、訂正の上、掲載することもあります。】
浦城の歴史
高岳山との峰続きを深く遮断し薬研堀をつくり、周囲は急傾斜地で深い谷状をなし、城郭内は梯子をよじ登り、行き来をしたらしい。
近年浦城趾を整備して、城郭の形状が明らかになり、杉樹林の中の浦城趾を巡り、遺物等によって戦国時代を彷彿とさせる。
浦城が関わった数回の戦と激しい落城は、数種の戦国記の古文や伝承に残されている。
浦城の三浦氏(羽州の三浦氏)は浦城に至るまでは数奇の謎に包まれ、多くの研究者が日本各地から訪問され、沢山の示唆を与えてくれている。
浦城主や家臣の末裔は大きな裾野をひろげ話題は尽きない。有難いことです。
浦城趾 詳細地図
虎子踊り
urajyu
NPO法人浦城の歴史を伝える会
浦城趾
北嶋雄一
ura
浦城
羽州の三浦氏の居城跡
古城趾 浦城想像図
②薬研堀
秋田国民文化祭リンク
菅江真澄の紀行文にあり
「浦の城から出ためらし(少女)年は17 名 は虎子 今を盛り と咲きたる花よ 人が見たがる
折りたがる」
と盆踊りで唄い踊 っていた。
これは浦城のあ る頃から唄い踊り継がれたものであろう。・・・・・・
浦城の歴史を伝える会
では高校生に伝承して
いる。
本丸燈籠
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想像図