雪の山越えの文章

  前日横町 浦横町という村にきて、児玉嘉兵衛(現、小玉嘉右門)という人のもとについた。近所からきた女に童があとを追って慕い寄ると「この童(わらし)いざと(いさど)(留守居)しろ」といっている。また人々は、「さあめよう、ああこわい(こや)という。こわいは疲れたという方言であった。
 外に出て見ると、森山のうしろの方に月ががさしかたむいて、霞のかかった風情に趣きがあり、寝るのが惜しかった。  16日 朝早く、宿をでて行くと、盛医山東国寺常福院という古義の真言の寺があり、花がことにおもしろく咲いていた。
  高岡の神に詣でようとわけのぼる。一の鳥居にはいると、羽黒権現をまつってあり、(現在不明)この祠に祀っあるのは阿弥陀・薬師・観音の種字のある石碑を掘りだしたものを
納め祀るという。槻(けやき)の大木のあやしい空洞のもとに、小さな祠があり、山の神をまつっていつる。
 ここから眺める四方の風景は格別おもしろい。「もし梅の盛りであったなら」とか、「柿の紅葉だったらどうであろうか」などどと言いながら、人々はたたずんでいた。桃・桜・梨・李など、そして何だとも見わけがつかない遠方の家々の庭のたくさんの花が、めもあやに眺めわたされのぼっていくのも忘れてしまう。
 やがて、そばだつけわしい峯をはるばるとたどって、二の鳥居についた。この高岡権現と申し奉るのは、なかむかしのころ、副河の神社(式内社)が鎮座されたころはどこともじらずに、添川(秋田市)のほとりを尋ねわびていたとき、この山から独鈷花皿(どっこはなざら)をほり得たことがあった。それで、ここがこの神の鎮座のあとであろうということになって、副河の神社とさだめ、保食神(うけもちのかみ)を斎(いわ)い祀ったというのがその由来である。

 十八坂を越えて滝の沢と言う所に着いた。
(むらくの滝のことで、名称はなっかった。)
寺の跡は(盛医山東谷寺跡で、今は寺屋敷跡
と言う。)はどの辺だろうか。滝が細く落ちてい
た。
 三浦兵庫頭義豊がいたころの城跡は高く今
は田や畑になっているが、その昔の様はわか
らない。「本廓、御坐の間、馬だし、大鐘をかけ
た櫓跡はあそこ」とそばにいた人が教えてくれ
た。今は田や畑になっている。からめてのほと
りに、田に水を引く大きい池があった。堀の跡
かも知れない。(盥沢の堤こと)なにかと昔を偲
ぶことができる。浦大町の人が教えてくれた。
 義豊は三浦の介 平の義明の子孫で、鎌倉を
出て北条方に破れる。鎌倉を出て飽田路をたど
り、城介実季につかえこの浦城に住む。主君に
逆意があるのをいさめ、腹をかきって死んだと
いう。

 坂を下って見ると、名だたる浦の梅の花も散り
果てて、桃桜の夕栄梅はさかりでると見ていた。
柿のその多くは、秋は実も色づき葉の紅葉を見
ることが出来るとか。日もやや暮れて、浦の村へ
おりて来た。ここに今いう矢橋、元町、浦大町、
小盾鼻、鐙沢、白水沢などの村こそ、その在りし
世の町であろう。

落款は秋田欄画の「五十嵐嵐児」のものであろうと専門家は言う。
菅江真澄は旅先の定宿としていた秋田市の奈良邸で、五十嵐嵐児と出会い「浦の虎子」
の話しをした。五十嵐嵐児は巧みな運筆でその様を描いた。との説がある。

図絵の文

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『浦の虎子』

文化三(1820)
雪の山越 より

浦城と菅江真澄

柳の社【御前柳】のふるごと
文化6年(1809)

 それのむかし、浦山の城のあるじの公を三浦兵庫頭盛長とて、平盛實の末の胤にしてお
わしたりけるが、秋田城介実季の君と戦ひ、うち死せり。盛長に嬬(メ)なにの方、妊める身
をもて、小池しいふ別業(ナリトコロ)にかろうじてのがれかくろい、子うめるにいたりて、あ
つかいなやみぬるを、里の女ども集まりてたすけまゐらすれば、あなうれし、われここに身
まかれば霊神となりて、女たらん身のかぎりを守り、産るに安からしめんと、消へはつる息
の下にのたまひて、いまかくれ給うを、あわれの世ありさまかなと、人々かしこの土を掘り
なきがらをかくし、壟(土を盛り上げる)して柳を栽して御前の怩カるしと人ごとにたとび、
近き世となりては怩烽ばれ柳もとしへ朽ぬれば、こと木の柳を植て御前柳としかいへり。
 国の守のそもふを出て枝葉四方になり栄ふそのひんがしののうし(佐竹東家)義路と
聞え給ふのほん嬬のいのり給ふに、みやしろを作ればただやけにやけて、いまは、さらに
みやしろもやふらむよしのゆゑをそまをせば、義路のうし、われ神にいのりていさみやしろ
を作りてんとて、明和3(1776)とせの秋の末きよらかに神門をたてて、2石の稼穡(ヨネ
・カショク)ととよみきの料(シロ)によせ給ふとなん。毎年の9月朔日の日神事ぞせりける
こと、今に至る。そのころ滋野井大納言公麗卿のおほん手として、御前柳大明神の額な
ん、こがね色の文字して掲りぬ。小池の村保、斎藤甚兵衛盛敦が砌のそのなれば、あさ
ゆさ御社をきよめ幣とり仕へつる。柳の葉の守札は、この怩フ柳葉を採りて護りと負る女
は、鵜の羽軒に葦くよりもいとやすく産らん。
 近きころは三越路、陸奥かけてこの社にいつ人あり。遠きさかひの人は、出羽の国秋田
の女なりとて柳の社にいのり奉れば、必、子うめるにいとやすけく生れなん。その子の末葉、
子子孫孫八十聯綿までいや栄えなん事、柳の宮のみしめ縄うけひきなびく、神垣のいわれ
聞つたへて、ここにかいつけるものか。

図絵の文

 あちこちの岩根、岩群の松杉のなかに、雲のようにかかってにみえるのはみな桜である。詣でてから、この眺めもまたおもしろかった。三浦義豊の居城のあった山を左手の、五十野目内記秀盛(檜山安東
氏の臣)の城山は木々のなかに隠れて見いだせなかったが、安東季村(すえむら)のいた岡本の古城はまのあたりに見える。田の面では農夫の働いてるさまなど、馬も人も小さく、まるで絵をみるようである。花の林の中にかくれている浦の部落をはじめ、麓の里はたいそう多い。右手には男鹿の浦山など、潮瀬も湖(八郎潟)もひとつに霞んで、真帆・片帆とつらなって漕ぎ離れずにいるのは、釣りの小舟であろう。

『浦城趾』

文化3年(1806)【霞む月星】

 浦の城主三浦兵庫頭世に在りしころ、浦の里にて盆躍する群女(みれめり)に交じ
りて、紅の帽子なよなよにきなして、みめよりはじめ姿(ふり)よき女、夜な夜なごと
に此の柵(しろ)より出来(いできて)声能(こえよく)唄ひ、しなよく踊るさま人にこえたり。
群たつ人みな、此女見てむ、唄聞てむと、日ふるるをおそしと、かなたこなたにつきま
つわり、女の帰らむかたはいずこの宿ならむと、うち群れしたがひ行に更にふけて、
うしのすてつづみうつころ深き林の中に女の声にて、虎子虎子と呼ぶにいらへして、
かいけつように見えざりしとなむ。そは、とらこという少女狢(むじな)にありしとなむ。
今も盆踊りの一節に残りて、

     「浦の城から出た丁女(めらし)、
         としは十七名はとらこ、いまを盛りと
           咲きたる花よ、人が見たがる、折りたがる。」
         とうたふは、そのうじなへんぐ
ゑの女のことなむ。

浦浦の城
三浦兵庫頭義豊
ここに住めり。湊九郎
うまいくさを致して、
伯父の実季をうちてんと
かねてはかりこち聞えし
かは、ひたにいさめしか
ときゝうれたまねは、瀧
のもとにはらかいきりて、
死せり。寺を建て石頭寺
といふ、その寺一日市の
うまやにうつせり。義豊
の子、三浦五郎丸義包か
みたままつりて石頭寺に
そのありける。城はあり
しむかにことならせすし
て田畠となりぬ。

 秋田の盆踊りではどこが一番いいというけれど、とりわけ馬場目の山里の
盆踊りは、たいへん古風で情緒がある。さらにまた、五城目の近いあたりで唄う。
 浦の館から出た處女(めらし) としは十七名は虎子
 そうはいうものの浦の城主であった三浦統の乱の頃から唄ったものかと思い、
その世が偲ばれる。
 又、恋し「北の」はせちぱな男通えば二度はらむ「北野」 は「立野の牧」という
論議もあるが、昔は「広野」今も変わらず田圃や畠が作られている。ところどころ
に人も住んでいるが、住まいは小さくない。 の歌の文句を考えると、松島に伝わ
る宮千代麿の物語にある芒はらむや(たがこなるらん)という文句の情趣がある。
 (解読 秋田博物館  松山氏)
 松山氏)