「主(イエス様)は、十字架の上で」について

主(イエス様)の心が、旧約聖書:詩篇22編の中に隠されています。

詩篇22篇21〜22節には、「私を救ってください。
獅子の口から、野牛の角から。
あなたは私に答えてくださいます。
私は、御名を私の兄弟たちに語り告げ、会衆の中で、あなたを賛美しましょう。」と、救いを確信し、賛美が始まっています。

なぜ、苦難と嘆きが、賛美へと変わったのでしょうか?

別の箇所では、過去の救いの恵みを思い出して、信仰を取り戻したケースもあります。
しかし、詩篇22篇21〜22節のように、明確な理由が分からないで、嘆きから賛美へと変えられている事は、信仰が無くて も、 起こりえる事かもしれませんが、「解決の糸口が見えず、助けが無い時でさえ、希望を持ち、神さまを信じて、 神さまを賛美する。」
これが信仰です。

困っている時、神さまに祈ると、何となく神さまが助けて下さる様な確信が持て、「神さまに信頼してみようかナッ!」等と いった気持ちが、湧き上がって来た事は有りませんか?

また、賛美歌を歌っている時、歌詞に心が動かされて、「信じて みようかナッ!」と、思えた事は有りませんか?

それは聖霊(せいれい)の働きです。

聖霊(せいれい)なる神さまは、私たちの心の中に来て、私たちが信仰を持つ助けをして下さいます。
クリスチャンは、自分の力でイエス様を信じたのでは、決して有りません。
信じる者に変えられたのです。
それが聖霊(せいれい)の働きです。

もちろん主(イエス様)は神さまの子ですから、そのような助けは、いらないような気がします。
しかし、主(イエス様)が洗礼を受けた時、「聖霊がその上に下った。」と書かれています。

聖霊(せいれい)は、十字架の前に主(イエス様)から離れたのではなく、十字架においても共におられ、 復活後のイエス様が、弟子達に「聖霊(せいれい)を受けよ。」と言って、息を吹きかけて居られたように、 十字架上で「我が神、我が神」と祈った時も、聖霊(せいれい)が働いていました。

今でも、同じ聖霊(せいれい)が私たちの内におられ、私たちを助け、神さまへの信頼を与えて下さり、 嘆きから讃美へと変えて下さいますから、感謝ですね。

次回は、『十字架の愛』について、考えて見ましょうね。

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