「津田梅子さん」について

津田梅子(1864年〜1929年)さんの父は、幕臣で農学者となった津田仙で、男子が生まれなかったことを残念がり、 はじめは、この女児に全く構わなかったようで、誕生して7日間が過ぎても名前を付けない為、 母親の初子が庭の盆栽の梅の花がほころんでいるのを見て、「うめ(むめ)」と名づけたそうです。

梅子(当時満7歳)さんは最年少で、岩倉具視遣外使節団として吉益亮子(当時15歳)、上田禎子(当時15歳)、 山川捨松(当時12歳、のちに陸軍大将大山巌の妻)、永井繁子(当時9歳、後に海軍大将瓜生外吉の妻)と 渡米しています。
渡米した1872年のアメリカは、南北戦争が終わってから7年目の新しい時代と文化が 起ころうとする時期で、新風を全身に浴びたのですね。

そして、梅子さんはワシントンに着くと、吉益亮子と共に、チャールズ・ランマンの家で10年間生活をし、 少女の多方面に及ぼす環境で育っています。
ランマン夫妻は梅子さんをわが子のように可愛がり、決して彼女に信仰を強いることはありませんでしたが、 梅子さんは自発的に「洗礼を受けたいです。」と申し出たそうです。

梅子さんは1892年に帰国しましたが、彼女を最も悩ませたのは、封建的な日本の女性像に自分がそぐわないことを 強く意識してしまったことのようです。
明治政府の示した女子教育とは、教育制度は男性のためにあり、助成には日常的な生活技術教育以外は 修める必要性がないといった良妻賢母教育で、社会的に女性の地位を認めない日本の実態と、 華族という特権を利用して男性につき従って言いなりになり、 独立の精神が欠落している女性の姿に失望してしまったのですね。

その後、梅子さんはアメリカに2度目の留学生活を送っています。
優秀な成績の梅子は、大学から研究者として残ることを要請されましたが、 日本の女性のための女子教育に尽力することが自分の使命と考えて帰国し、 1900年に女子英学塾(現津田塾大学)を創立して、英語教育や個性を尊重する教育に努め、 女子高等教育の先駆者となっています。

しかし、梅子さんは、女性の育成に全身全霊を注いでいますが、 男性と同等の意義を女性に認めさせようと狂ったように走りまわったのではなく、 1900年の女子英学塾の開校式の式辞では、「この塾は女子に専門教育を与える最初の学校であります。
したがって世間の目につきやすく、いろいろの批評も受けることと存じます。
もし、かような批評が幾分でも女子教育の進歩を妨げることになりますならば、まことに遺憾なことであります。
― 中略 ― なにごとによらず、あまりめだたないように、出すぎないように、いつもしとやかで、 謙遜で、丁寧であっていただきたいと望みます。
こういう感度は、けっして研究の高い目的と衝突するものではありません。
婦人らしい婦人であって、じゅうぶん知識も得られましょうし、 男子の学び得る程度の実力を養うこともできましょう。」と語っておられます。

梅子さんは、アメリカでランマン夫妻と10年間思春期を過ごした生活により、 封建的な日本女性では考えられないほど自由で、独立した価値観を持っていたと思いますが、 伝統的な日本人女性の姿を壊すことではないと、日本人女性への配慮を忘れることなく、 謙虚さと慎ましさと寛容な人格を備えた女子教育を目指していたことが分かりますね。

今でも、東京都小平市にある津田塾大学には、創始者の津田梅子さんの墓標と、その周りを取り囲むように、 40本を超える梅林があり、梅の花が咲く頃には、屈託のない人柄だった梅子を表すような、 爽やかな香りの梅花が、満ちているそうです。

私は、一度も小平市の街を歩いたことがありませんが、 いつの日か、津田梅子さんの生きた津田塾大学周辺を、梅の花が咲く季節に散歩したいと思います。

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