「サドカイ派、パリサイ派、熱心党」について

サドカイ派の主要メンバーの多くは、エルサレムの貴族と祭司集団(大祭司・祭司長・長老等)で形成され、エルサレム神殿を基盤に活動し、 宗教・政治・経済の実権を握っていました。
サドカイ派は、新約聖書:マルコの福音書12章18節には、「また、復活はないと主張していたサドカイ人たちが、イエスのところに来て、 質問した。」とあるように、復活を信じていませんでした。

また、使徒の働き4章1節〜18節「彼らが民に話していると、祭司たち、宮の守衛長、またサドカイ人たちがやって来たが、この人たちは、 ペテロとヨハネが民を教え、イエスのことを例にあげて死者の復活を宣べ伝えているのに、困り果て、・・・・・そこで彼らを呼んで、 いっさいイエスの名によって語ったり教えたりしてはならない、と命じた。」と、イエス様の復活を伝える弟子たちを迫害しています。

その後、エルサレム神殿が、紀元70年にローマ軍によって破壊され、神殿もどきを拠り所としていたサドカイ派は、 歴史上から消え失せてしまいました。


パリサイ派は、マルコの福音書2章16節「パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちといっしょに食事をしておられるのを見て、 イエスの弟子たちにこう言った。
『なぜ、あの人は取税人や罪人たちといっしょに食事をするのですか。』」と、『収税人や罪人』と食事をするイエス様を批判する者として、 登場しています。

パリサイ派は、律法の解釈についてイエス様と論争する悪者のようですが、律法を忠実に守り、誠実に歩む人々でした。
パリサイ派は、都市だけでなく、ユダヤやガリラヤの村々に住み、農民や職人として自ら働き、生計を立てながら律法に基づく生き方を していました。
そして、律法の教師『ラビ』と呼ばれ、立法を教えていました。

パリサイの名は、ヘブライ語の『ペルシーム(分離・区別する)』に由来し、自らを『ペルシーム』と呼び、 特に律法を知らない人々や従わない人々や、パリサイ派の理解する『律法』に照らして汚れた者、罪人らを分け隔て差別をしていました。

イエス様と食事をしていた収税人たちも、パリサイ派にとっては汚れた者とされていますが、自らを清く正しいと自認し他人を批評する時は、 主(イエス様)に祈りつつ歩みましょうね。

パリサイ派は、サドカイ派のように神殿もどきを拠り所としてはいなかった為、エルサレム神殿が、紀元70年にローマ軍によって破壊されても、 新しい『ラビ的ユダヤ教』を再建し、2世紀になるとガリラヤを拠点に活動を続けました。


熱心党は、ローマ帝国に仕える事を不信仰と考えて、武力闘争という手段を用いました。
その発端として、新約聖書:使途の働き5章37節「その後、人口調査のとき、ガリラヤ人ユダが立ち上がり、 民衆をそそのかして反乱を起こしましたが、自分は滅び、従った者たちもみな散らされてしまいました。」と、 ガリラヤのユダがローマ軍に抵抗した事が書かれています。

熱心党は、主にガリラヤ地方出身の農民で、ヘロデの独裁及び、ローマ皇帝を主と呼ぶ事とローマ帝国の支配に対して、 抵抗運動を起こしました。

主(イエス様)も、ローマ帝国にとって危険人物とみなされ処刑された事は確かです。
しかし、主(イエス様)は、熱心党のような武力革命による運動とは一線を置き、非暴力を貫いて、永遠の救いと癒しを伝えています。

私たちも、主(イエス様)の愛を人々に伝える時は、「主(イエス様)よ、知恵を与えて下さい。」と祈り求め、歩んで参りましょうね。

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