「新島 襄」について

新島襄(にいじまじょう)は、福澤諭吉らと並ぶ、明治の教育者ですが、新島襄の人生は、 まさに『苦難と誠実』の連続だったんですね。

新島襄は、天保14(1843)年に江戸の神田で、上州安中藩板倉藩士の子として生まれています。
本名は新島七五三太(しめた)。七五三太(しめた)といった、おめでたい名前は、新島家に女の子が4人続いた後、 初めて男の子が生まれたので、祖父が喜んで「しめた!」と叫んだことから、命名されたそうです。

そして、新島襄が10歳の時、黒船がやって来ました。
江戸幕府の外交は、鎖国か開国かで大きく揺れていた時代です。

後年、新島襄が書いた『同志社大学の設立旨意』に、当時を振り返った一文があります。
「回顧すればすでに二十余年前、幕政の末路、外交切迫して人心動揺する時に際し、余不肖、海外遊学の志を抱き、 脱藩して函館に赴き、遂に元治元年六月十四日の夜、竊(ひそ)かに国禁を犯し、 米国商船に搭じ、水夫となりて、労役に服するおよそ一年間、ようやく米国ボストン府に達したりき。」

新島襄は、海外渡航の志を抱きますが、まだ鎖国の世です。
元治元(1864)年、満21歳で脱藩して、一人国禁を破ってアメリカに密航しようと企てて函館に向かい、 ロシア領事館付の司祭だったニコライ・カサートキンと出会い、彼の協力を得て、 函館から米船ベルリン号にもぐりこませてもらいます。

そして上海で、アメリカに向かうワイルド・ローヴァー号に乗り換えたことが、新島襄の運命を大きく展開させています。
新島襄は船中で、船長から、「ジョー」と呼んで可愛がられていますので、働き者の好青年だったようです。
慶応元(1865)年7月にアメリカに到着します。

そこで船長から、船主のアルフュース・ハーディを紹介されます。
しかし、ハーディは、過去に何度か貧しい青年を支援したことがありましたが、青年達は、 途中で学問から逃げてしまっていました。
ですから、外国人の青年の支援は止めようと夫婦で話し合っていたので、 船長から新島襄の話を聞いた時は、「もういいよ。」と断ったそうです。

しかし、船長はあきらめないで、「とりあえず、これを読んでみてください。」と、 新島襄の書いた手紙をハーディに差し出すと、ハーディは、いぶかしりながらも、手紙を読んだそうです。

そこには、たどたどしい英語で、新島襄が、初めてオランダの軍艦を見た時の衝撃からはじまり、 日本の青年が外国に出て学ぶべき必要性が切々と書かれてあり、ハーディは、新島襄の誠実な人柄を感じ取り、 新島襄の全面的支援を約束しました。

ハーディの支援のもと、新島襄はボストンの北の町アンドーバーにある名門私立学校フィリップス・アカデミーに 入学します。
そして、1年後、新島襄はカトリックの洗礼を受け、『禁酒禁煙/女色にふけらない/怒鳴らない/ 人の悪口を言わない等の誓いを立て、生涯誓いを守り通し、没後も「道楽を知らない真面目人間」と、言われたそうです。
新島襄にとっての『誓い』は、『武士の一言』でもあったのですね。

その後、アマースト大学とアンドーバー神学校で学び、明治3(1870)年に、アマースト大学を卒業し、 理学士の学位を取っています。
これは、日本人初の学士の学位取得です。

このアマースト大学で新島襄は、後に札幌農学校教頭となるウィリアム・スミス・クラーク博士から、 化学の授業を受けています。
クラーク博士にとっては、初めて見る日本人でした。
今まで世界中の学生を相手にしてきたクラークは、新島襄を通じ、とても日本に興味を持ち、後年、 クラーク博士は来日し、日本の教壇に立っています。

新島襄のまじめな学生としての態度は、初代の駐米公使となった森有礼にも知られることになります。
森は、新島襄を誇るべき日本人と認め、本来なら脱藩し、無許可で出国した咎人である新島襄ですが、 正式な日本人留学生として認可します。

さらに新島襄は、明治5(1872)年にアメリカ訪問をしていた岩倉使節団と会い、使節団に同行していた木戸孝允が、 新島襄の語学力に目をつけ、新島襄を4月16日から翌年1月にかけて、 自分付けの通訳官として使節団に同行させています。

新島襄は、使節団のお抱え通訳者として、ニューヨークからヨーロッパへ渡り、フランス、スイス、ドイツ、ロシアを訪ね、 ふたたびベルリンに戻って約7ヶ月間滞在し、使節団の報告書である「理事功程」を編集しています。

この報告書の出来が素晴らしかったことから、新島襄は、日本の『欧米教育制度調査の委嘱』を受け、 文部理事官の田中不二麿に随行して、欧米各国の教育制度調査にも同行しています。

新島襄は、アメリカで学び、ヨーロッパを歴訪し、日本型封建主義とはまったく異なる、 欧米型の自由と個性を尊ぶ徳育教育の重要性を実感して、「日本にも知徳兼備の学校を作ろう。」と決意します。
神学校を卒業して帰国を目前に新島襄は、アメリカン・ボード(外国に宣教師を派遣するキリスト教組織)の年次総会に 招待され、講壇でこれまでお世話になった様々な人達に、心からの謝辞を述べた後、 「自分は日本に帰って、日本の将来のために、キリスト教主義の学校を設立し、 自治と自立に目覚めた青年を育てたい。」という志を語り、最後に、そのための基金のお願いを訴えました。

「学校建設のための基金を得ることなしに、日本に帰ることはできません。
私はそれを得るまでは、ここに立たせていただきます。」と、締めくくって講壇に立ちすくんだ新島襄の目には、 涙が溢れ出ていたそうです。

新島襄の熱意は聴衆の心を打ち、新島襄の元には、5千ドルもの大金の寄付が集まりました。
明治7(1874)年11月に、新島襄は客船コロラド号に乗って、横浜に帰着します。
21歳で日本脱出を果たしてから、10年ぶりの帰国です。

新島七五三太は、アメリカでジョセフと呼ばれていたことから、日本では襄(じょー)と名乗ることにします。

新島襄は、明治8(1875)年11月29日、官許同志社英語学校を開校します。
ちなみに、この開校は決して順調に進んだ話ではありません。
そもそも学校の候補地は、神戸か大阪だったのですが、府知事の許可が出なかったのです。
ついこの間まで、日本は鎖国していて、キリシタンは、ご禁制だったためでした。
そのキリシタン学校を造るというのですから、そりゃあ、反対もされますよね。

ようやく知事の認可をもらえたのが京都ですが、京都は古都ですから、神社/仏閣があります。
もっとも日本的なものが色濃い街に、「キリスト教の学校を作るとは何事か!これはまさに暴挙である。」ということになって、 猛烈な排斥運動が起き、キリスト教系学校設立反対の大集会が、繰り返し行われましたが、 新島襄は、どんな罵詈雑言やあらゆる罵声にも、じっと耐え、 「私は自由を尊び、それを守る精神を青年たちに植え付けるために学校を建てるのです。」と、 誠実に説得を繰り返したそうです。

敷地については、新島襄の旧主家の板倉氏を通じて、かねてより親交の深かった公家華族の高松保実子爵の紹介を 得て、京都にある高松家の別邸の半分を借り受けることに成功します。
もと主君の板倉家は、京都所司代を務めたこともある家柄です。

そのご縁で、公家華族とも広く親交があり、新島襄は、京都府知事槇村正直、府顧問山本覚馬の賛同を得て、 官許同志社英学校を開校にこぎつけます。
32歳の若い学校長です。
ちなみに新島襄は、翌年、この山本覚馬の妹を妻に迎えました。
世間からは、ありとあらゆる非難中傷を浴びた新島襄ですが、見る人はちゃんとその人物を見ていたのですね。

しかし、ようやく開校にこぎつけた同志社英語学校は、開校時の教員は新島襄本人と、デイヴィスの2名だけ。
他の教員予定者には、拒否されています。
教師予定だった宣教師たちは、「学校はあくまで建前で、本音は伝道師養成機関だ。」というのです。

しかし新島襄は、聖書と神学を学ぶ学校ではなく、キリスト教精神に基づいて、あくまで『日本』の独立のために 命がけで働く人材を育成する学校にしたいと主張したのですが調整が付かず、結局、 教師は2名だけでの船出となりました。
また、生徒の方は、元良勇次郎、中島力造、上野栄三郎等、たった8人だけでした。

これではとてもじゃありませんが、学校の維持運営はでません。
新島襄は、アメリカで集めた寄付金も底を尽き、教師としての役割よりも、紹介を訪ねて、 日本国中を飛び回っての金策に追われるようになりました。
すると、「新島襄は、金集め/人騙しの詐欺男だ。」と、ののしられました。

経済的には恵まれませんでしたが、新島襄の誠実な態度に、同志社英語学校は、 徐々に生徒数や教師数を増やして行きました。

ところが、明治12(1879)年になって、大問題が発生。
生徒たち全員が無届けで、集団欠席をしたのです。
教師が朝来てみると、生徒が誰もいません。
実はこの時、学校側は、前年の新入生の数が少なすぎたために、授業料では必要な額が集まらず、 学校運営に支障をきたしていました。

そこで、この年の一月、生徒の再募集をかけていました。
当初からの一年生と、途中入学した新一年生とでは、カリキュラムの進捗が異なります。
そのため、当初は、同じ1年生でも、クラスを別々にしていましたが、経営難であるという理由から、 新島襄校長不在中に、幹部教師らが相談して、これを一つのクラスに纏めてしまったのです。

これに生徒たちが反発し、「学校はまともな授業をする気があるのか!?」 というわけです。
そこへ、もともと学校運営には不満を持っていた上級生が相乗りして、全学年全員の集団欠席事件となったのです。

知らせを受けた新島襄は、急きょ学校に戻り、不満組の生徒を説得し、とりあえず授業は再開します。
しかし、今度はストライキをした生徒たちが、別の問題で騒ぎだしました。
「校則の違反者を処分しないで、放置するのはおかしい。」というわけです。
さらには、新島襄校長不在中に勝手にクラスを合併した幹部教師の行動も問題になり、 「一方的にクラスを再編した教師の責任は、どうなるのか?」と言うわけです。

明治13(1880)年4月13日、新島襄は、朝礼に全校生徒と、教師全員を集めます。
そして「このたびの事件は、教師の罪でも、生徒諸君の罪でもありません。
すべて私の不徳から生じたものです。
しかし校則は厳としたものです。
されば校長である私は、その罪人を罰します。」と述べます。

「罰する? 何に? 誰を?」と、みてみると、新島襄が右手に持っていたステッキで自らの左手を打ち据え、ビシッ! と音がします。
あっという間の出来事でした。
誰もが呆然と見ている時に、ステッキが空気を切り裂き、ヒュン!と音がして、ビシッ!と左手に当たり、 またステッキが振り上げられ、打ちおろされます。
左手に3度、4度、5度・・・・・全力で打っています。
丈夫なステッキが、真っ二つに折れましたが、新島襄校長は、短くなったステッキでなおも左手を打ち続けました。
6度、7度、8度・・・・・処分を求めた生徒たちは、頬が引きつり、青ざめてうなだれ、 時折、嗚咽する声も聞こえてきたそうです。

15度、16度、17度・・・・・生徒の一人が壇上に駆け上がり、新島襄が振り上げたステッキを持つ右手を抑え、 首を横に振りました。
「校長、もうやめてください。」とその眼が訴えていましたが、涙で声も出てきません。
ただ、涙を流しながら、首を横に振り続けました。
その生徒は、処分を最も強硬に主張していた生徒だったそうです。

折れたステッキを持つ手を押さえられたまま、新島襄は生徒たちに言います。
「諸君、同志社がいかに校則を重んずる所かがわかったでしょう?」。新島襄はステッキを投げ捨てて、 朝礼台を降りました。
これが有名な、新島襄の『自責事件』です。

明治21(1888)年、新島襄は20をこえる新聞、雑誌に『同志社大学設立の旨意』を公表します。
官許同志社英語学校を、大学にするというのです。
文章は、前半で同志社諸学校開設にいたる経緯を語り、後半で今なぜその上に大学が必要なのか、 いかなる大学であるべきかを論じています。

この『設立旨意』は、同志社大学では毎年、入学式で一部朗読されているそうです。
すると、卒業生の多くは、これを聴くと、胸の高まりを覚えるといいます。
実は、これが書かれた当時、日本の大学は、東京大学ただ一校だけでしたが、教育は「人民の手に拠(よ)って設立 されるべき」と考える新島襄は、官立大学ではなく、私立大学の必要性を説いたのです。

国家がお金を出す官立ではなく、全国の賛同する志士によって、自発的な教育機関を創ろうというのです。
いちばん最初に、新島襄がアメリカで寄付金集めに成功した時の成功体験が、新島襄にはあったのかもしれません。
しかし、その頃の日本には、『寄付』という概念はありませんから、新島襄は、同志社英語学校の大学化のため、 さらに資金集めに追われることとなります。

そして経営、資金繰り、資金集め、学校運営、教壇と、毎日寝る間も惜しんで走り回る新島襄は、 この『自責事件』の頃から体調を崩します。

時折、視線がさ迷うようになり、吐息や頭痛が出るようになり、体が動かず、しばしば早くから寝込むことになりますが、 衰えることのない同志社への『拒絶運動』と『慢性的な経営難』。
新島襄の心臓は、心労で蝕まれますが、無理に無理を重ねながら、寄付集めに東奔西走する新島襄の姿は、 涙を誘うものすらあったといいます。

明治22(1889)年秋、新島襄は、遊説と寄付集めの途上、過労のために前橋で倒れ込んでしまいます。
そして、年が明けた1月23日、静養で訪れていた大磯で、妻の八重や教え子たちに見守られながら、 息を引き取りました。

享年47歳。
遺体は翌日、自宅のある京都に運ばれます。
駅から自宅まで、生徒たちによって、かわるがわる棺が担がれました。
粉雪が舞う夜道を、ゆっくり進む生徒たち、OBたちの誰もが、その時目を腫らし、嗚咽していたそうです。

新島襄は、「一国の良心たる人物を育てたい。」という思いを、自らの肉体を犠牲にし、 一直線に進んだ男であることを、誰もが感じていたのですね。
新島襄の思想は、やや日本の江戸時代的厳格教育とは、一線を画し、自由な精神を解放する『正義』のために、 生涯をかけて身を清め、苦労を重ねた新島襄の人生に対する姿勢は、実に素晴らしいと思います。

いつでもどんな時でも、いかに苦境の中にあっても、『道を正して生きる』ということは、とても大切なことだと思いますが、 これが、なかなか難しいんですよね。

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