「松山常次郎さん」について

松山常次郎さんは、明治41年に東京帝国大学(現在の東京大学)を卒業後、2年間アメリカへ留学し、 お米の増産を目標に朝鮮において土地の開拓に取り組んでいました。

その時、故郷の九度山の人々が、「九度山は耕地が狭いため、若者の活動の場として、 新天地を開く必要がある」と、松山常次郎さんに相談をしたそうです。

そして、地元の有志の人々と協力し、朝鮮に「南海拓殖株式会社」を設立し、 事業は順風満帆ではなかったようでしたが、通算24,000ヘクタールの水田を造成し、 『朝鮮で最も広く開拓した人』と言われ、 朝鮮への進出は、将来に不安を感じていた農家の次男・三男達の進む道を開拓しました。

人生の前半においては『実業家』として活躍しましたが、人生の後半の大正9年から敗戦までの24年間は、 衆議院議員を務め、1936年(昭和11年)に外務参与官に就任し、 廃娼問題、普通選挙、婦人参与権等に力をいれ、極めて進歩的な『政治家』として活躍していました。
しかし、敗戦後に海軍政務次官の経歴{1940年(昭和15年)}のため公職追放となり、 政界から引退をされています。

松山常次郎さんは敬虔なクリスチャンで、利権とはおよそ無縁な政治家と評され、 1941年(昭和16年)にはキリスト教平和使節団を組織して渡米し、日米開戦の回避を図りましたが果たせず、 交換船(外交官や駐在員、留学生などを帰国させるために運航された船)で帰国しています。
そして、数多くの功績を残し、77歳で亡くなった時には、正四位、勲二等が贈られました。

なお、松山常次郎さんの長女美知子さんは、絵画界の巨匠・平山郁夫画伯夫人です。

新約聖書:マタイの福音書5章9節には、このように書かれています。
「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。」

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