「勝海舟」について
勝海舟は、1853年にペリーが来航すると、幕府に海軍の必要性を訴え、翌年、幕府は長崎海軍伝習所を開設し、
勝海舟は生徒監の職に就いています。
さらに、幕府は1860年に日米修交通商条約のため、使節団を米国に送り、
その時の咸臨丸の艦長に、勝海舟を任命しています。
サンフランシスコに到着した勝海舟は、日曜日ごとにキリスト教会の礼拝に出席していたそうです。
幕末の日本は、開国したとは言え、キリスト教は幕府により禁止されたままで、伝道は禁じられていました。
しかし、礼拝堂の建設や宣教に寛容な姿勢を示したのが勝海舟でした。
実は、勝海舟は渡米前に、咸臨丸を日本にもたらしたオランダ人教官のW.H.カッテンディーケの教えを受けていて、
長崎の海軍伝習所では、日曜日毎に礼拝をするカッテンディーケの生活態度を見て、
キリスト教に関心を持っていったようですね。
なぜなら、宣教師たちは、勝海舟に信頼を寄せ、「勝海舟氏はオランダ語を良く理解し、性格も至って穏やかで、
明朗で、親切でもあったから、私たち欧米人は非常に彼を信頼していた。」と、
カッテンディーケが記しているぐらいですから。
将軍慶喜が、1867年に大政奉還(朝廷に政権を返上)をしましたが、
新政府側は、徳川幕府を倒すために西郷隆盛を新政府軍司令官として、薩摩・長州などの兵を引き連れて、
江戸に向かった際、西郷隆盛との会見に臨んだのが、勝海舟でした。
この話し合いで、江戸城の明け渡しが決定し、江戸を火の海にする戦争が避けられています(江戸城無血開城)。
そして、270年間の徳川幕府の歴史は幕を閉じましたが、明治新政府も、キリスト教禁制を続けていました。
しかし、勝海舟は、1871年に耶蘇教黙許意見(キリスト教を黙認する意見書)を発表し、
息子の梅太郎の嫁にクリスチャンのクララ・ホイットニーを迎え、東京の自邸を耶蘇教講義所として開放しています。
当時の宣教師エドワード・クラーク(『少年よ、大志を抱け』のウィリアム・スミス・クラーク博士とは別人)は、
勝海舟について、「彼はキリスト教徒ではなかったが、彼以上にナザレ人イエスの人格を備えた人を、
未だかつて見たことがない。」と、記しています。
神さまは、宣教師達のために、勝海舟という人物をご準備されておられたのですね。
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