「価値観の違い」について

ハンディキャップを持った一人の青年が、スペシャルオリンピックス(Special Olympics、略称:SOは、知的発達障害のある人の自立や 社会参加を目的として、日常的なスポーツプログラムや、成果の発表の場としての競技会を提供する国際的なスポーツ組織で、 いつもどこかで活動しているということから、「Olympics」と複数形になっているそうです。)
の100M走に出場し、金メダルを狙って走っていました。

その時、一緒に走っていた選手が転んでしまいました。
すると、青年は引き返して彼を立ち上がらせて、彼と一緒に最後にゴールしたそうです。

もう一人は、私の友人ですが、小学生の時の運動会で、駆け足は決して遅くはありませんでしたが、 徒競走は毎回、駆け足の遅い友達より、後にゴールをしていたそうです。

クリスチャンになる以前の私は、この二人の事を、理解することは来ませんでしたが、 主(イエス様)を救い主として受け入れて生活をするようになって、理解をすることが出来ました。

ちょっと長くなりますが、
新約聖書:コリント人への手紙 第一12章12〜27節には、
「ですから、ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、 その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。
なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、 そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。
確かに、からだはただ一つの器官ではなく、多くの器官から成っています。
たとい、足が、『私は手ではないから、からだに属さない』と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。
たとい、耳が、『私は目ではないから、からだに属さない』と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。
もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょう。
もし、からだ全体が聞くところであったら、どこでかぐのでしょう。
しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。
もし、全部がただ一つの器官であったら、からだはいったいどこにあるのでしょう。
しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。
そこで、目が手に向かって、『私はあなたを必要としない』と言うことはできないし、頭が足に向かって、 『私はあなたを必要としない』と言うこともできません。
それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。
また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。
こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうになりますが、かっこうの良い器官にはその必要がありません。
しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。
それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。
もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。
あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」
と、書かれています。

価値観は人によって異なりますから、感じ方も、人それぞれだと思いますが、ハンディキャップを持った一人の青年が、 引き返して転んだ選手と一緒に最後にゴールしたことや、友人が小学校の運動会の徒競走で、毎回駆け足の遅い友達より、 後にゴールをしていた事は、勝利する事よりも、共にある事を望んでいたからですね。

あなたは、全てに勝利する事が、一番大切だと思いますか?
有名な学校に入学し、有名な企業に就職し、独立してお金持ちに成り、大きな屋敷に住むといったステイタスのみを追い求める事が、 一番大切だと思いますか?

負け惜しみと思われる方もおられるでしょうが、
私は、「主(イエス様)の素晴らしい、溢れる愛の中で過ごしている事を知り、満足して生活する事が一番大切だ。」という事を、 確信しています。

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