「黒田官兵衛」について
如水(じょすい)の由来について、戦国時代にポルトガル人のカトリック司祭・宣教師のルイス・フロイスは、
「黒田官兵衛は剃髪し、予の権力、武勲、領地、および多年にわたって戦争で獲得した功績、それらすべては、
今や水泡が消え去るように去って行った。」
と言いながら『ジョスイ』、すなわち水の如しと、自らを名乗り、
『ドン・シメオン』という洗礼名を持つキリシタン大名で、城攻めの才能がある人物であるが、
人を害する事を好まなかった。」と証しています。
そして、ルイス・フロイスは、黒田官兵衛がキリスト教徒として伝道活動を主導し、宣教師を援助して、
伝道活動を支援していたことを、記載しています。
黒田官兵衛は、戦いに明け暮れる中、他方で伝道活動を主導&支援していましたが、豊臣秀吉が、
天正15年(1587年)九州平定直後に、『バテレン追放令』を発し、キリスト教を迫害し始め、
国分けを行おうとしていた秀吉の所に、黒田官兵衛が参上しても、官兵衛に会おうともせず、
三か国を与えるような期待を抱かせながら、豊前しか与えず、「汝がキリシタンゆえにこそ、これを没収。」と、
豊前国の一部を接収して、毛利吉成に与えています。
その後、官兵衛は、黒田家と藩に関する人々の事を思い、表面上は棄教していましたが、
浅野長政に領国内で司祭たちを庇護(ヒゴ)するようにと、キリスト教を保護し続けました。
又、官兵衛が慶長9年(1604年)に京都の伏見で亡くなった時には、博多の教会でも葬儀が行われ、
心の中では、最後までキリシタンを貫いた、キリシタン大名でした。
1.「キリスト教」
よく質問をされたり、私的に感じている事を書いてみました。
|
2.「東京都北区にある十条の街」
自信を持って紹介できる「十条の街」をセレクトしました。 |
3.「ニュース・リリース」
4.「お薦めしたい本」
5.「聖書のことば」
|