「賀川豊彦」について

賀川豊彦は、1888年(明治21年)に、神戸で海運業を営む賀川純一と、菅生かめの次男で、 裕福な家庭に育ちましたが、4歳のとき相次いで両親を亡くし、父親の実家がある徳島に引き取られました。
しかし、正妻の子ではなかったため、周囲から嫌がらせを受けることも多く、孤独な少年時代を過ごしたそうです。

そして、1900年(明治33年)に、県立徳島中学校に入学し、勉強熱心な豊彦は、 キリスト教会でアメリカ人宣教師のローガン師とマイヤース師に英語を習い、 二人の暖かい人柄に触れキリスト教の教えに惹かれるようになったようです。

その頃、父親の海運業を継いだ長兄が、事業に失敗して賀川家は倒産してしまいましたが、
「泣いている目には、太陽も泣いて見え、微笑む目には太陽も笑って見える。」と、 マイヤース師に頬に手をあてられて言われた経験が、賀川豊彦の将来に深い影響を及ぼしたそうです。

1905年(明治38年)、17歳で伝道者を志し、東京の明治学院高等部神学予科に入学し、 1909年(明治42年)12月24日のクリスマスイブには、神戸の貧民街に移り住み、 社会運動家としての救済活動と、キリスト教伝道者としての宣教に努めています。

そして、1913年(大正2年)に賀川豊彦の路傍伝道に共鳴したハルと結婚式を挙げましたが、 式が終わるとすぐに自宅に戻り、病人の看病や困窮者の世話を続け、伝道と救済活動を広げながら、 収入のほとんどをこれらの仕事につぎ込んでいったそうです。

賀川の妻となったハルは、巡回看護で眼病治療を行っているうちに感染して、右目が失明状態となりましたが、 その後も変わることなく、身を粉にして救済活動を続けられました。

大正〜昭和にかけての賀川豊彦は、全国を巡ってキリスト教の伝道に力を注いでいます。
又、第二次世界大戦防止のための「祈とう会」を行いますが、願いは届かず日本は真珠湾を攻撃し、 太平洋戦争に突入してしまいました。
しかし、敗戦後間もない1945年(昭和20年)9月には、戦争の悲劇を繰り返さないよう、 賀川豊彦が中心となり国際平和協会を設立し、国際的な平和運動にも尽力し続けています。

1951年(昭和26年)には、生協の全国組織である『日本生活協同組合連合会』が設立され、 賀川豊彦は初代会長に就任しています。

さらに、1958年(昭和33年)の第1回ICAアジア大会に、灘生協の田中組合長と共に日本代表として参加し、 生協活動への情熱は、晩年まで衰えることがなかったそうですが、1959年(昭和34年)に伝道のため 徳島へ向かう途中、心筋梗塞拡張症で倒れ、翌1960年(昭和35年)4月に療養中の松沢の自宅で、 71歳の時に召天しています。
神戸のスラム街に飛び込んでから、50年の月日が過ぎていました。

賀川豊彦が説いた「一人は万人のために、万人は一人のために」の社会を実現するための 『協同組合の中心思想』を7つの短い書が残されています。
1.【利益共楽】生活を向上させる利益を分かち合い、ともに豊かになろうとする。
2.【人格経済】お金持ちが支配する社会ではなく、人間を尊重した経済社会へ。
3.【資本協同】労働で得たお金を出資し合い、生活を豊かにする資本として活かす。
4.【非搾取】みんなが自由と平等で利益を分かち合う、共存同栄の社会をつくる。
5.【権力分散】全ての人が人間としての権利を保障され、自立して行動する。
6.【超政党】特定な政党にかたよらず、生活者や消費者の立場で考え主張する。
7.【教育中心】豊かな生活には、一人ひとりの教養とそれを高めるための教育が重要。

戦後の聖人は、『マザー・テレサ』で、戦前の三聖人は、インドのガンジー・アフリカのシュヴァイツァー・ 日本の賀川豊彦と言われています。

神様の言葉を説明する人は多いですが、
賀川豊彦は、神様の生きた言葉を、身を持って語った人の一人に、間違いありませんね。

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