「ハーランド・カーネギー(カーネル・サンダース)」について

早くに父親を亡くしたサンダースは、工場で働く母親を助ける為に、6歳で料理を始め、7歳の時に弟妹と母親に焼いたパンで大喜びされ、 その感動が 「美味しい物で人を幸せにしたい。」という、KFCの理念の土台となりました。

10歳から工場へ働きに出たサンダースは、独学で学び多くの仕事に就き、機関士・判事助手・保険外交員等、 その数何と40種を超えていました。
ある日、ハイウェーの横にガソリン・スタンドを作り、利用する人たちの為に1930年6月、物置を改造して小さなレストラン 『サンダース・カフェ』を造りました。

息子を亡くすという不幸を乗り越えながらも、ガソリン・スタンドは、サービスの良さで、カフェは、フライド・チキンの独特な味が評判となり、 来客は列をなしていました。
1935年にはケンタッキー州知事から、名誉称号『カーネル』を授与されています。

しかし、火事や新しいハイウェーの建設により、店を手放すといった苦難は、次々と続きますが、 「働く意欲とサザン・ホスピタリティー(他人を家人のように温かく迎え、伝統的なアメリカ南部の人々の親切なおもてなし)を忘れることなく、 不屈のカーネル・サンダースは、65歳の時にFCビジネスを始め、車で各地を回る強行軍ながらビジネスは成功し、 73歳の時にはチェーン店が600店を超えていました。

その後、権利を譲渡し、自分の調理法が正しく行われ、美味しいフライド・チキンが正確に提供されているかどうか、 世界各地の店舗を見て回り、その旅は年間数十万キロ。

また「成功は、多くの人と分かち合いたい。」と、ビジネスを共にする人たちに、惜しみなく知識・技術を教える一方で、慈善活動を行い、 孤児院の子供たちの為に毎日アイスクリームを作り、肢体不自由児の為には、基金を作りました。

ある日カーネル・サンダースは、かつて自分をクビにした、サザン鉄道の社長が出席していた表彰会で、「私をクビにしてくれて、有り難う。
クビになっていなければ、ケンタッキー・フライド・チキンで成功することは、出来なかったかもしれません。
もう一度、機関車の仕事をさせてくれたら、全財産を失っても良い。」と、スピーチをすると、サザン鉄道の社長が、鉄道保存会と協力をし、 特別列車を走らせて、カーネル・サンダースの夢を実現させ、機関士の格好をしたカーネル・サンダースは、子供のように喜び、 汽笛を鳴らしたそうです。

77歳でイエス様を自分の救い主として受け入れ、心に救いを得たカーネル・サンダースは、設立してあった基金で多くの大学生を支援し、 病院やキリスト教会への寄付をし、「このために自分は、救われました。」と、喜び溢れていたそうです。

そして、カーネル・サンダースは、「人を幸せにする事に、引退は無い。」と、90歳で生涯を閉じる迄、現役を通しました。

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