1627〜1705年。江戸初期の儒家。古義学派の祖。京都堀河の材木商の家に生まれる。
名は維驕iこれえだ)。幼少の頃から物静かで、子供らしい遊びを好まなかった。
11歳の時、塾で漢詩文を習い始め、儒学を志す。
若い頃は朱子学に深く傾倒するが、親族や友人は学問で身を立てることに反対し、医者を
生業とすることを勧めたので、その間に激しい葛藤があったらしい。
20代の末頃、10年にも及ぶ長患いをする。今でいう神経症ではないかといわれる。
その為に人と接する事無く、一日中家に籠もり机に向かって書を読んでいたという。
後に家業は弟に譲り別居、数少ない子弟を教えながら苦しい生活を送った。
30代半ば頃、朱子学等宋代儒学の立場に疑問を持ち古学を掲げる。
古義学を提唱し京都堀河に古義堂を開塾。後に門弟は三千人を数えるに到った。
赤穂の大石内蔵助良雄も門人の一人である。
彼の唱えた古義学には対立する学派も多かったが、仁斎は極めて温厚な性格で決して争う
ことはなかったという。
肥後細川や紀州徳川が厚禄をもって招いたが、此れを辞し一生を市井の学者として過ごした。
【古 学】
江戸時代に起こった儒学の一派。
朱子学、陽明学等、宋代儒学の立場によらず、直接経書(いわゆる四書五経)の研究により
孔孟の思想に迫ろうとするもの。あるいは、宋代以前、漢代・唐代の注釈によるべきとしたもの。
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