銷夏の詩(袁枚)
 

 【題意】

 夏の暑さをしのぐ詩。陰暦六月は暑さの厳しい季節。

 【詩意】

 官職を辞して半年近くなった

 山の懐で花に囲まれて眠る

 平素、無官である事を楽しんではいるが

 まずはこの炎天下に齷齪(あくせく)せずとも良いことを誇りとしたい

 【語釈】

 花=随園に集う妓女や女弟子達の暗喩との説もある。

 【鑑賞】

 銷夏は夏の暑さをしのぐとの意だが、ここでは官僚生活のわずらわしさを炎暑に重ねて、

 無位無官となり心おもむくままに落ち着いた時間を過ごせる楽しさを詠っている。

 袁   枚(えんばい)  

 1716〜1797年。清代の官僚、詩人。字は子才。号は簡斎、随園。銭塘(今の浙江省)の人。

 各県の知事を歴任するが、40歳で職を辞し、江寧(南京の東南)小倉山下に随園を築いた。

 この頃は女流文学華やかなりし時期でもあり、袁枚には50人以上の女弟子がいたという。

 風流を楽しみ、古文等にも優れた袁枚は、趙翼、蒋士銓と共に乾隆の三大家と呼ばれるが、

 また食通としても知られる。

 袁枚の著した「随園食単」(食単は料理メモの意)は様々な食材の選び方や料理方法、味わ

 い方等を詳述した食の事典として有名である。

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即事(伊藤仁斎)
 

 【題意】

 屋敷周辺の風景を即興で詠った。

 【詩意】

 濃い緑に覆われた山々は、我が家の門に向かい合ってあり

 藍色の広々とした川は、遠く源を発し静かに流れ来たる

 ねぐらに帰るからすの群れが途切れる迄、独り立ちつくす

 川原には涼やかなる風と月、いつしか暮色は濃く漂う

 【語釈】

 柴門=小さな雑木で作った粗末な門。  藍水=水豊かに藍色に澄んだ川。

 伊藤仁斎(いとうじんさい)  

 1627〜1705年。江戸初期の儒家。古義学派の祖。京都堀河の材木商の家に生まれる。

 名は維驕iこれえだ)。幼少の頃から物静かで、子供らしい遊びを好まなかった。

 11歳の時、塾で漢詩文を習い始め、儒学を志す。

 若い頃は朱子学に深く傾倒するが、親族や友人は学問で身を立てることに反対し、医者を

 生業とすることを勧めたので、その間に激しい葛藤があったらしい。

 20代の末頃、10年にも及ぶ長患いをする。今でいう神経症ではないかといわれる。

 その為に人と接する事無く、一日中家に籠もり机に向かって書を読んでいたという。

 後に家業は弟に譲り別居、数少ない子弟を教えながら苦しい生活を送った。

 

 30代半ば頃、朱子学等宋代儒学の立場に疑問を持ち古学を掲げる。

 古義学を提唱し京都堀河に古義堂を開塾。後に門弟は三千人を数えるに到った。

 赤穂の大石内蔵助良雄も門人の一人である。

 彼の唱えた古義学には対立する学派も多かったが、仁斎は極めて温厚な性格で決して争う

 ことはなかったという。

 肥後細川や紀州徳川が厚禄をもって招いたが、此れを辞し一生を市井の学者として過ごした。

 【古 学】

 江戸時代に起こった儒学の一派。

 朱子学、陽明学等、宋代儒学の立場によらず、直接経書(いわゆる四書五経)の研究により

 孔孟の思想に迫ろうとするもの。あるいは、宋代以前、漢代・唐代の注釈によるべきとしたもの。

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玉階怨(謝A)
 

 【題意】

 宮中での失われた愛を怨み悲しむ詩。

 【詩意】

 夕暮れ迫る御殿で珠玉の御簾を下ろす

 蛍のはかない光が宙を飛んでは、また何かに留まる

 長い夜、一人薄衣を縫って過ごす

 君への切ない思いがつのるばかりでやりきれない

 謝   A(しゃちょう)  

 464〜499年。南斉の官僚、六朝期を代表する詩人。字は玄暉。

 中央で高官として活躍するが、皇帝の即位に関して怒りを買い、獄中で歿した。

 謝Aは特に五言詩に長じ、王融、沈約らと共に「永明体」の詩風を生み出し、唐代に近体詩

 が誕生する礎を成したと云われる。

 【参考】

 李白は六朝期の詩をあまり評価しなかったが謝Aの詩は激賞し敬慕した。

 「金陵城西楼月下吟」という詩の中で「古来多くの詩人が現れているが、注目すべき者は稀

 である」「私は謝玄暉(謝A)を慕わずにはいられない」と述べている。

 また李白は同題となる「玉階怨」の詩も賦している。

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半夜(良寛)
 

 【題意】

 真夜中。子の刻から丑の刻までの間。午前零時頃から二時頃まで。

 五合庵に於ける作。五月は旧暦。

 【詩意】

 振り返えれば 五十年余りが過ぎた

 今生の明暗 みな一時の夢ようである

 この山中の庵にまた梅雨が訪れた

 夜中 物寂しく窓辺に降りそそぐ

 【語釈】

 人間(じんかん)=世間一般。人間社会。   山房=山の庵。ここでは五合庵。

 良   寛(りょうかん)  
 作者略歴については、栞/心癒される詩に詳述。
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和歌 東海の(石川啄木)
 

 【歌意】

 東海にある小島の磯辺、その白砂の上で、私は泣きぬれながら蟹と遊び戯れている

 【出典】

 明治41年7月文芸誌「明星」に発表されたもの。

 後に出版された歌集「一握の砂」の巻頭歌である。

 石川啄木(いしかわたくぼく)  

 1886(明治19年)〜1912(明治45年)。明治末期浪漫派の歌人、詩人。名は一(はじめ)。

 岩手県南岩手郡日戸村(現在の玉山村)に生まれる。

 中学に上がると自ら雑誌を発行し始め、また文芸誌「明星」に作品を投稿したりしていたが、

 明治35年、文学で身を立てることを決意して盛岡尋常中学校を中途退学し上京。

 東京新詩社に与謝野鉄幹夫妻を訪ねた。翌年、帰郷後から地元紙に作品を掲載開始。

 20歳で詩集「あこがれ」を刊行する。その後、母校の代用教員や北海道の地方新聞記者を

 転々とするが、明治41年再び上京。翌年朝日新聞校正係として採用された。

 明治43年には代表作でもある歌集「一握の砂」が刊行される。

 明治45年3月に母を亡くすと、ほぼ一ヵ月後の4月13日啄木も肺結核との闘病の末、家族

 や友人若山牧水に看取られ、この世を去った。享年27歳であった。

 死後、歌集「悲しき玩具」が刊行された。

 啄木の作品は浪漫主義、自然主義の強い影響があったが、後に社会主義に傾斜したと云

 われる。口語体の三行書きという特異な表現で生活派の歌を詠んだ。

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青竜寺(徳富蘇峰)
 

 【題意】


 夏場、青竜寺に滞在した際の詩。連作の八首がある。

 【詩意】

 しばしの間、ぐっすりと眠って、日常の事を忘れてしまった

 ここでは長い夏の日もなんら苦にならない

 庭の花は静かに咲き、傍を清らかな水が流れる

 禅院の北の窓から吹き込む風が涼を運んでくれる

 【語釈】

 籬下=垣根のそば。あるいは低い位置にあることのたとえ。

 【青竜寺】

 富士山麓(静岡県御殿場市増田)にある禅宗の寺。

 蘇峰先生は七月下旬から八月末までここで禅院的生活をおくられた。

 当時、初代宗家と現二代宗家も、先生のお供でこのお寺を訪ねたが、

 晴れた日には、富士山を仰ぎ見る事が出来る塵外の仙境であったそうだ。

 徳富蘇峰(とくどみそほう)  

 ※作者については解説の栞・熊本漢詩紀行1で詳述しています。

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木母寺(柏木如亭)
 

 【題意】

 木母寺。東京都墨田区にある天台宗の寺。謡曲「隅田川」の梅若丸の故事で有名。

 人買いにさらわれた梅若丸の行方を捜し求め、狂乱した母は京都から東国にまで下るが、

 隅田川辺りで病死したことを知らされる。母がその場所で念仏を唱えると亡霊が現れる。

 謡曲、浄瑠璃、長唄などに唄われ、また戯作や小説にもなって多く人の涙を誘った。

 江戸時代、向島墨堤の桜見物と木母寺参拝は定番の観光コースの一つでもあった。

 4月15日(陰暦3月15日)には梅若忌が執り行われる。

 【詩意】

 柳を挟んで着飾った麗人達が行き過ぎる

 しらふの人には声を上げて泣く者もおり、酔った人には歌いだす者もいる

 夕暮れ時、細かい雨が通り過ぎたが

 それが塚の上にだけ多く掛かっているように見えた

 【語釈】

 羅=薄物。薄く織った絹布。夏物の衣装。

 柏木如亭(かしわぎじょてい)  

 1763〜1819年。江戸後期の漢詩人。江戸神田の生まれ。市河寛斎の江湖詩社で学んだ。

 生家は幕府の大工職だったが、後に諸国を放浪。詩を教え、書画を揮毫して糧を得た。

 著作に漢詩集「木工集」、旅先での食と漢詩を綴った随筆「詩本草」等がある。

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秋懐(陸游)

 【題意】

 過ごし易い秋に心惹かれる。

 【詩意】

 庭の手入れをする男は棚に沿ってきゅうりを摘み

 村の女はまがきに沿って朝顔を摘んでいる

 街中にはまだまだ真夏の暑さが居座っているようだが

 秋の気配はまず真っ先にこの田舎者の家にやってきた

 【語釈】

 三伏=夏至後の三番目の庚(かのえ)の日から立秋後の一番最初の庚の日までの

     約一か月間。最も暑さの厳しい時期。

 陸   游(りくゆう)  
 1125〜1210年。政治家、詩人。山陰(浙江省)で幼少期を過ごす。字は務観。号は放翁。
 北方の女真族王朝金に対して徹底抗戦論を唱えた熱烈な憂国詩人であるとともに、自然や
 田園生活をこまやかな愛情をもって詠った田園詩人でもあった。平明で豪放磊落な作風は、
 奔放さは李白似で、洒脱なところは白楽天に似、痛烈なところは杜甫に通じると評される。
 南宋最大の詩人と称され、85年の生涯に3万首の詩を作ったといわれる。
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閏月の花(武田信玄)

 【題意】

 うるう5月の牡丹の花。

 旧暦では1年を354日とし、誤差を修正する為に約3年に1度うるう月を設けた。

 【詩意】

 あでやかで美しい紅い牡丹の花は、寿安という地から出たという

 風薫り光溢れるこのうるう五月、庭の牡丹にもまだ面白味が残っている

 風流人達は十三枚の花びらをもつ牡丹を見たいという

 だが中国にはもっと珍しい姚家の黄牡丹というものがあるというぞ

 【語釈】

 騒人=詩人、文人、風流を解する人。   寿安=唐時代の牡丹紅花の名所。

 姚家=洛陽の黄牡丹を産する名家。

 武田信玄(たけだしんげん)  

  ※作者については解説の栞・夏は来ぬの頁に詳述。

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鄂渚の南楼にて事を書す(黄庭堅)

 【題意】

 作者の書院のある鄂渚で所感を賦す。

 鄂渚は武昌(現在の湖北省武漢市)。長江南岸に位置し、水陸交通の要衝でもあった。

 【詩意】

 四方を見渡せば、遠い山の姿も水明かりも一つになり、境が定かでない

 手摺りに寄りかかれば、辺りには菱と蓮の香しい薫りが漂っている

 この爽やかな風や美しい月は誰のものでもない

 皆相まって、今宵この南楼の涼味を成している

 黄庭堅(こうていけん)  

 1045〜1105年。北宋の官僚、詩人、書家、文学者。

 進士に合格後、中央地方で官僚として活躍。後に蘇軾に師事し、蘇門四学士と称された。

 杜甫の詩風を尊び、江西詩派の祖となったが、書にも優れ、北宋の四大家といわれる。

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