吟詠試聴
 
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吟 詠   浪 岡 鼕 山
 

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梅雨排悶(二代瓜生田山桜)

 【題意】

 梅雨の気晴らし。平成5年6月作。

 【詩意】

 そぼ降る雨に煙る新緑の木立

 泉水は溢れ 緑の苔も水に浸かっている

 梅雨空の昼過ぎ 訪れる人も無く

 静かな部屋に流れる箏曲だけが憂さを晴らしてくれる

 二代 瓜生田山桜(うりゅうださんおう)  

 ※作者については二代宗家の頁を御覧下さい。 

 

新緑(武田信玄)

 【題意】

 初夏、新緑の清々しい風趣を詠った。

 【詩意】

 春は去り 夏が来た 若葉の光る木々に

 その濃い木陰に 私はずっと佇んでいる

 常日頃から物静かな世界に没頭する事を好む

 それゆえ 賑やかな鶯より ひっそりと鳴くホトトギスに私は聞き入る

 【鑑賞】

 信玄公も若い頃は詩賦に耽り、政務を忘れたという逸話がある。

 この詩のように新緑の木陰に休息し、詩作を練ったのだろうか。

 武田信玄(たけだしんげん)  

 1521〜1573年。戦国時代の武将、甲斐国(山梨県)の守護大名。名は晴信、信玄は法名。

 21歳の時、父・信虎を隠居させ、家督を継承。直後から信濃へ侵攻を開始し、諏訪・小笠原・

 村上氏等を制圧して一円を手中に収めた。敗走した武将の一部は越後の上杉謙信に救援を

 求め、以後信玄と謙信は好敵手として川中島の合戦等で度々対峙する事になる。

 晩年、激しい戦いを繰り返した北条氏と和睦がなると、織田信長と対立していた武将や石山

 本願寺と結び、将軍・足利義昭の要請を受け入れて、遂に1572年10月、信長を討つべく

 上洛の途についた。

 その年の暮れには三方ヶ原の戦いで徳川家康軍と織田の応援部隊を完膚なきまでに撃破。

 まさに火の如き勢いであったが、病の悪化によりやむなく領内へ引き上げることとなり、その

 帰途伊那駒場にて歿した。53歳であった。もうあと数年信玄が生き長らえていたら戦国後の

 勢力図は大きく違っていたかもしれないとは後世盛んに述べられるところである。

 信玄は法や交通の整備、信玄堤で知られる治水事業等、領国経営にも優れた手腕を発揮

 した。学問への造詣も深く、風林火山の旗を書したと云われる快川紹喜(かいせんしょうき)

 等の高僧を招き禅学を修めた。

 詩文や和歌の才にも秀でており、当時の武将中随一との声もある。

 その詩作は17首が今日に伝わるという。


宇文六を送る(常建)

 【題意】

 宇文六を見送る。

 1.江北の地で江南に旅立つ友人を見送るもの

 2.江南の地で江北へ行く友人を見送るもの

 二通りの解釈が存在する。

 しかし、作品の肝は麗らかな春の描写と、憂いをたたえた我が心との対比にこそある。

 【詩意】

 花はしだれ柳の緑に映えて、漢水の流れも清らかである

 やわらかな風が林を吹きぬけ、花の一枝が軽やかに揺れる

 今、江北もまたこの様な春景色であるだろうが

 君と別れ、江南に残る我が心は深い悲しみに包まれている

 【語釈】

 垂楊=しだれ柳。   漢水=漢口で揚子江に合流する大河。

 愁殺=深い憂い。

 常   建(じょうけん)  

 708〜?年。盛唐時代の詩人。進士に合格したが、仕官は思うようにならず、各地を放浪。

 晩年は王昌齢等と共に名を挙げた。


太田道灌蓑を借るの図に題す(作者不詳)
 【題意】

 道灌が蓑を借りようとした話は有名。その場面を描いた画に題をとった。

 狩衣姿の道灌に対し、若い娘が黄色の山吹の一枝を差し出している絵馬がある。

 【詩意】

 一騎の武者が驟雨の中、かやぶき家の門を叩く。

 その家の少女は、ただ八重山吹の花の一枝を指し示した。

 少女は何も言わず、もちろん花は何も語らない。

 さすがの猛者、道灌も心がもつれた糸の様になり困惑してしまった。

 【語釈】

 孤鞍=供を連れず、一人で馬に乗って行くこと。   茅茨=かやぶきの家。

 【鑑賞】

 この詩だけでは、道灌と同様に、今ひとつ話が見えてこないかもしれない。

 話の詳細は、飯田黙叟「大日本野史」の武臣列伝に、次の様に記載されている。

 太田道灌は若かりし頃、自らの武勇を誇り、驕り高ぶっていた。野や山で狩りをしては殺生

 を繰り返し、情趣というものが全く欠けていた。ある日、山で狩りをしていると、にわか雨が

 降り出した。そこで、一軒の粗末な家を訪ねて、蓑を借りようとしたが、返事が無い。

 しばらくして、一人の少女が出て来ると、山吹の一枝を指差し、ただ微笑むだけであった。

 道灌は意味が解からず、心が結ぼれたまま憮然として立ち去った。

 帰宅後、このことを家来に話すと、一人の老武士が「それは蓑が無いという意味でしょう」

 と申し上げた。道灌が理由を問うと答えて言った。

 「七重八重 花は咲くとも 山吹の 実の(蓑)一つだに 無きぞかなしき」

 道灌は大いに面目無く思い、また後悔し、これより和歌を学び始め、後にその奥旨を得る

 までになった。

 【参考】

 八重山吹は実がならない。つまり、実の一つだに無い。

 【参考2】

 「七重八重…」の歌は平安末期の「後拾遺和歌集」に醍醐天皇皇子、兼明(かねあきら)

 親王作として収められている。元歌は最後の句が「なきぞあやしき」となっている。

 【参考3】

 香雲堂教本に於いては、初めに下記の今様が入る場合もある。

 「若葉の風もさわやかに野辺の獲物も軽からず時をえがおの丈夫が狩衣ぬらす俄雨」

 更に二句と三句の間に以下の和歌を入れて詠う。

 「七重八重花は咲けども山吹のみの一つだになきぞ悲しき」

 【太田道灌

 1432〜1486年。関東管領、上杉定正の家臣。歌人。

 名は持資(もちすけ)、後に資長(すけなが)。

 室町時代中期の武将で江戸城の築城者として有名。主君定正を助け政治を整えたが、

 定正の勢威を恐れた、鎌倉の上杉顕定が道灌を除かんと讒言した為、文明18年7月、

 異志あるものと疑いを持った定正に暗殺された。55歳。道灌は剃髪後の称。

 歌集に「花月百首」等がある。

 【飯田黙叟

 1798〜1860年、徳山藩士。名は忠彦。国学者、歴史家。

 40年近くの歳月をかけ、嘉永5年、歴史書「大日本野史」を完成させた。

 後小松天皇から仁孝天皇までの約420年間が漢文、紀伝体で綴られている。

 作 者 不 詳  

 作者に関しては、大槻磐渓、新井白石、愛敬四山等、諸説伝わっている。

 香雲堂教本に於いては作者不詳を採っている。


 【題意】

 青井阿蘇神社を参拝する。昭和37年の作。

 香雲堂人吉支部は神官さんを中心にこの地で発足した。

 【詩意】

 穏やかな風の吹く晩春の空

 神社の蓮池の周囲は桜も散り 柳が芽吹きだした

 青井阿蘇神社の本殿はまさに国の宝

 遥か古より霊妙なる神力でこの地を守り続けている

 【語釈】

 習々=そよそよと風の吹くさま。  

 国宝=所謂、国の宝。歌が詠まれた当時は重要文化財。2008年、国宝に指定。

 青井宮=青井阿蘇神社。 熊本県人吉市上青井町にある神社。

       平安時代の大同元年(806年)創建。

       国宝である本殿、廊、幣殿、拝殿、楼門の五つの社殿は、

       慶長15年(1610年)から18年にかけて造営された。

 初代 瓜生田山櫻(うりゅうださんおう)  

 ※作者については初代宗家の頁を御覧下さい。 


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