「万石騒動」とググると696件のヒットがある。かなりあるものです。
さすがにWikipediaが簡潔にして要領よく書いてありますが引用するには長すぎるので、関心のある方はそちらをご覧ください。
ここではgoo辞書の大辞林第二版を紹介します。
1711年安房(あわ)国北条藩安房・朝夷両郡で起きた百姓一揆(いつき)。一万石の領地内で起きたので、この名がある。農民たちは藩の年貢増徴策に反対して蜂起(ほうき)、幕府は藩主を改易、家老を打ち首に処し、農民の要求を認めた。
ではまた前回の続きを書き写しましょう。
かの稲村弥一郎の妻瑞江は男勝りの胆勇をもち卓議才能衆に超えた婦人で、始めから万事の上に注目し夫を助け衆を慰め日夜苦心しておったが、夫の入牢以来一層心を励ましてもっぱら尽力していた。
折から衆議一決していよいよ江戸へ出ることに定まったので、衆に向かっていろいろと忠告をし、このたびの請願は無道の役人らをことごとく打ち倒すか、さもなくば不幸にして彼らの毒手に悩まされてかえって無残の死を遂げるか二つの中の一つは到底まぬがれることができない。平素いかに勇敢な人でも進退きわまるというような場合になると不断の男はくじけるのが人情の常であるから心変わりしないということを連判状に表して、ことを未然に固めたならば念願成就の祈祷ともなるであろう。
女の身をもってこんなことを述べるのはおこがましいわけですけれども、現在夫は牢獄に苦しみ、房州の老幼男女飢えになく今日、女とは言いながら他人事とも思われずいささか愚痴を述べるしだいであると、赤心おもてにあらわれ、つゆも乱れぬ弁舌に一同も非常に感激し、一紙に神文を作りおのおの血判してその神文を固守する旨を神に誓った。
瑞江もその神文を見て幾度か賞賛して、このように一同が決心せられたからには、もはや心にかかることはありませんが、片時も早く江戸表にうち上り一心不乱にお計らいください。私は及ばずながら後のことは引き受け留守をしておりますから心残りなく出立なさるようにと、頼もしい言葉に一同も非常に喜んで家路に帰った。
明くれば11月15日、一同旅の装束に身を固め勇んで出立し、17日江戸に到着し、以前に宿った馬喰町伝馬町の両所につき6百余人の百姓ども組み合わせを立てところどころにわかれて訴状を作り訴訟の準備に奔走した。
訴状をもって11月18日から20日まで3日の間ご老中方の通行をうかがい、まず第1に秋元但馬守殿に差し出したところ、屋代家一門のものに願い出よとのことであったので一同大いに力を落としたが但馬守の言葉通り21日に屋代家の縁者なる室岡甚四郎の邸に行って嘆願したところ、室岡は大いに怒り、
「汝らは越中守の百姓なるか、汝ら下賤の身をもって領主を相手取ってご老中方へ訴訟するとは言語に絶えたる無礼者、我が百姓ならば一人も残さず厳科に処し、目に物見せてくれるものを」
と大音声に叱りつけられ、一同は取りつく島もなく涙を飲んで帰ったが、翌日22日はご老中安部豊後守殿の登城先で訴えた。
しかしこれもまた秋元殿と同じようにやはり一門に願い出よとのことで一向に受け付けてくれない。
そこで一同は致し方なく昨日室岡家へ願い出た一部始終を申し上げて、どうかご慈悲を願いたいとの旨を申し上げてその日は宿所に帰った。
話変わって川井藤佐衛門は百姓たちの訴訟と聞いて大いに憤り、彼の領分に押し込めておいた名主どもを引き出して首をはねて暴威を示して鎮定しようとたくらんだ。
村々にも、牢舎の名主6人は近々お仕置きになるだろうとの噂ばかり高かったので、その家族らは言うに及ばず領分一同大いに嘆き、いかにせんと立ち騒ぎ、心の中に川井の横暴を憎んだけれどもいかんともすることはできなかった。
中にも領分の出家沙門はこのうわさを聞き、自分らは人民を救わねばならぬ身分にありながらこれを傍観するのは職務に対しても恥ずるところであるといって、同志の人を集め、領内13寺の僧侶たちが連署して名主の命乞いをした。
ところが悪巧みにたけた川井藤佐衛門は少しも慈悲の心はなく、僧侶たちの骨折りも無駄になってしまった。そればかりでなく、彼らの請願に川井はかえってこれを怒り、出家の身でありながら自分の行為に対してかれこれ言うなどはもってのほかであると、非常に憤っていよいよ牢中の6人のうち3人を国分村字萱野の芝で処刑することにきめてしまった。