酷酔夢譚千倉ぐらし

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昭和3年発行「安房三義民」という本3

 

ようやく万石騒動、安房三義民の書写も3回目になりました。緒言部分の壮大さから、結構なボリュームで話がわかりやすいと思っていましたが、意外とテンポが速く、佳境に入ります。

ではまた前回の続きを書き写しましょう。


6.許可の墨付を渡す

しかし強胆不敵の藤左衛門は、ど百姓らが訴えたからとて何ほどのことやあらんと空威張りした。

けれども、とにもかくにもなだめ、帰してしまうのが一番良いと思って、伊田文左衛門、山口平左衛門の両人に命じて願書を収め、百姓らに向かって申すには、「『願い事があると聞くが、実に大義千万なことである。願い通りにしてやるであろう。』と言ってこの墨付をくだされたから、拝見したら早速旅館に引き取るように」と一通の書面を渡した。
この書面、とても十分に百姓らを満足させるものではなかったが、「すでに御直書、昨日、陣屋へあいまわしたり」との文句があるので、ひとまず旅宿へ帰ったが、このうえは一刻も早く帰国して真正のお墨付を頂戴して安心しようと、翌11月8日の朝早く江戸表を引き取った。

さて百姓一同は江戸をたって房州に着くと家にも帰らず、その足で北條の陣屋に行って、かの書面を差し出したのに、郡代林武太夫聞き見て名主を呼んで言われるには、「江戸表からの御直書はまだ当役所へは届いていないから、その着しだいこの書付と引き換えるから、それまでは大切に預かっておきましょう。」と申し渡したので、不安には思ったが百姓たちは承知して各々家に帰った。
武太夫の言葉通りに行われたなら事件は平穏無事にすんだであろうが、上に立つ役人たちは「百姓は馬鹿なものであるから」、「百姓は分別もなく先の考えもなき者にそうらえば」とか言って、百姓を馬鹿にしてかかったので事件はますます深刻になっていくのであった。

さて墨付を見て、武太夫は江戸表からの御直書が来るまで、これは村々の名主どもで預かっておけとのことであったので、百姓たちはこの上もない大切なものとして、27か村の名主一同が立ち会いのうえ封印して、10日の夜は国分村に、11日には山本村に覚書を引き換えに預けておき、それから大作村、稲村と順次その通りにした。

その当時の百姓がいかに純朴であったかを知ると同時に、その時の世の有様がどんなであったかを少々なりとも思い浮かべることができる。

7.川井藤左衛門墨付を取り戻さんとす

食言とは言行の一致しないのをそしる言葉で、里ことばにこれを虚言(うそ)という。
人が一度嘘をつくと、あとになっていくら本当のことを言っても他人が信じてくれない。それゆえに食言は小民ですらこれを恥じた。まして役人はなおさらのことであった。

しかるに川井藤左衛門は、総百姓の門訴によってお上のお怒りに触れることを恐れて、仮に書状を渡しておいて一時の騒動を防いだけれども強欲非道の藤左衛門のことであるから大いに百姓どもの仕打ちを憤り、大勢の人数を召し連れて、11月12日北條の陣屋に来たり、明け13日領分の名主どもは袴を着け、朝の四つどき(今の10時)に北條役所へ不参なしに集まれと廻状をもって領内へ触れさせたので、村々ではさてはいよいよお墨付の引き換えであろうという人もあり、そうかと思うと、そうではあるまいと言って心配する人もあって、議論がまちまちであったがいつまでぐずぐずしていることもできないので、みんな出立の用意をして13日には早朝から役所へ詰めかけて、その沙汰いかにと待ち受けているところへ川井藤左衛門、一同を呼び出して言葉鋭く言うには「先日、江戸屋敷において渡しおきたる書付は、甚だ不都合なる個所があればひとまず返上つかまつれ」と言い渡したので、名主ら大いに驚き、先日のお言葉と今日のお言葉とが違うからと言って頑として応じなかった。

8.6人の名主入牢のこと

これを聞いて藤左衛門は目をいからし声を荒げ、「お上の御沙汰を用いざるは奇怪千万、者ども彼らを縛れよや」と叫べば、「ハッ」と答えて獄卒らは、湊村の角左衛門、国分村の長次郎、稲村の弥一郎、片岡村の庄佐衛門、中村の九兵衛、薗村の五左衛門(その時分の百姓は苗字を用いない)の6人を高手小手に縛りあげ、そのまま牢屋に打ち込んだのは無法きわまる処置であった。またそのうえその番人として乞食穢多に命じ、三度の食事も彼らに取り扱わせた。
そして毎日拷問にかけあとかたもない罪に陥れようとしたけれども、6人の名主はどうしてもその罪に服するようなことをせず、生死も恐れず苦痛の言葉を口書きに作って死罪の証としたのは哀れだなどなど言ってもとても言いつくすことはできない。

名主6人がこのようなみじめな有様であったので百姓一同は結束して稲村にある墨付きを持ち出して、早速他領の安全地帯に移し、かつ6人の名主を救うため駕籠訴を企てた。
この訴状は長文のもので、以上の事実のほかに川井の私曲、神社仏閣の樹木を伐採したことなどをあげ、文章もよく整い、すこぶる偉観をきわめている。

次に、駕籠訴について少々述べてみることにする。
百姓どもはいろいろに協議を尽くして後、まず第一に、6人の牢舎の御免をお願いしてみようとして種々嘆願をしたけれど暴虐非道の役人どもは猛火に油を注いだようにますます怒りを増し、百姓はいよいよ迷惑難渋に迫ったので、この上は江戸表に出て、恐れ多くも公儀へ愁訴するよりほかに方法はないということになり、あるいは家財を売り払い、あるいは田園家作をもってその費にあて、夜を日についで旅の準備を整えた。