酷酔夢譚千倉ぐらし

»南房総見る遊ぶ 

昭和3年発行「安房三義民」という本2

 

いやはや不思議なことは起るものです。ちょうどこの記事を書き始めた翌日、つまり今日2008年5月29日の地元紙『房日新聞』に「万石騒動で農民側の代官親子 永眠の地に標柱建立」という記事が掲載されました。

北條藩代官の生貝弥五兵衛とその子弥七郎も万石騒動の名主達とは別に処刑され、その墓が北條のか金台寺にある。処刑されたのは農民の味方をしたせいだろう、と館山市文化財保護協議会が、寺に墓を示す標柱を立てた、という内容です。

ではまた前回の続きを書き写しましょう。


3.屋代越中守および川井藤左衛門のこと

わが万石騒動は、わずかに房州一万石の小大名、屋代越中守中至(やしろえっちゅうのかみただたか)の家に起こったもので奸臣の不法の計らいから生じたものである。
中至の領地は安房国安房郡石高おおよそ一万石、北條村を筆頭として27か村あった

その臣に川井藤左衛門という新役人があって大いに殿様の信任を受けていた。川井はますます主君の歓心を得ようとして、頃は人皇114代中御門(なかみかど)天皇の御宇、徳川将軍6代家宣の正徳元年9月、村々を巡検し、見分を終えて北條の役所(旧郡役所跡)に帰り、同月7日、今までの年貢のほかに更に6000表の増米を申し渡し、翌8日、江戸に帰ってしまった。6000表といえばさらに1倍の増額で実に不当の処置である。
正徳といえば関ヶ原の合戦後徳川氏が武断の政治を立ててここに111年である。

いったい徳川幕府の農民に対する方針は、口には、「農は国の大本なり」といえどもあたかも労働機械のような観察で、昔農奴と言われた時と少しも変わりはないのである。
「油と百姓は絞るほど出る。」とか「百姓の手元には財の余らぬようにすべし。」との言葉は、彼らが平生から信じ切っていたことで、わが万石騒動における川井等の方法もまたもとより怪しむに足らずとするところであった。

4.総百姓、北條の役所に嘆願のこと

しかるに27か村の百姓は、このような過酷な年貢を納めることは不可能なことであったので、一同は蓑傘に身を固め揺曵として9日から18日まで北條の役所に詰めかけてこれを訴えた。
その訴意は、今回の増米取り立てを取り消して、元禄14年から宝永7年に至るまでの10年間の中のいずれかの年貢に準じて取り立てられんことを乞うたのであった。

百姓は、これを訴えたなら必ず幾多の辛苦艱難を伴うということを十分に知りながらもにわかに倍額の年貢を納めることもできず、また兄弟離散の苦しみを救い、時の苛政を排して、房総いく十万順良の民を塗炭の苦しみから救い出そうという真心からほとばしり出たものでやむをえないことである。

5.総百姓、門訴のこと

さて村々の人々は、かねて示し合わせた約束の場所で勢ぞろいをし、各々蓑傘に身を固め願書を竿の先にはさんで、それを押し立て総勢6百余人一斉に地頭の屋敷に押し寄せたのは雄々しくもありまた騒々しくもあり、当時の世の有様を物語るものということができる。

時に正徳元年11月7日(昭和3年より218年前)のことで、彼らはその訴状を8尺ばかりの竹の先に挟み、家老の門前の中央に押し立て、その周囲には房州村々の総百姓6百余名立ち並び、お願いの筋あって一同推参したからどうかお取り上げになって逐一ご意見下さるようにと声を限りにお願いした。
その勢いが非常にすさまじくてその意志を貫かない間はどうしても退くまいと死を誓ったその様子は実に侮りがたく見えたので屋代家では驚きうろたえてどういたらよいかと、あわてふためいた。