創建は明らかでないが、
江戸時代初期には既に存在した事が社木伐採の出入り文書によって知られる。
旧国道(明治23年頃開通)を飯田方面に向かって右側に20mほど入った所にあり、左側が七久里公会堂、右側が七久里地区の共同墓地になっている。
山の神は七久里公会堂の中に祀られているが(写真中)、元々の社屋は現在石碑のある場所にあり、地芝居の舞台としても使われたようだ。三遠南信道の工事に伴い墓地の移転があり、共同墓地には新築の墓所が目立つが、この場所は
地芝居を見るための広場だったという。
旧三州街道は旧国道の西側にある一直線の坂道で、飯田市(旧山本村)と阿智村(旧上中関村)の境界になっている。この道が
東山道跡だろうというのが最近の通説である(いわゆる上手線)。この延長は七久里バス停を過ぎて、最近まで「かどや」という店のあった通りに入る。この道も直線状で、旧山本村と旧竹佐村の境になっており、集落のできる以前に道があった事を示唆している。
境内にある金毘羅大権現は
白隠禅師(1685〜1768)の筆で、村の文化財に指定されている。また、共同墓地の中に
徳本上人筆の名号石がある。小振りであるが台座が凝っている(写真より下の部分で、写っていない)。
尚、境内にある
イヌツゲは村の天然記念物に指定されている。老木のためか半分ほど枯れており、手当が必要である。
(2004.5.3 訪問、撮影)
→ 『探史の足あと』
p.28 七久里の山の神
p.46 七久里の境界線
→ 『阿智村誌』 p.735