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 醫王山満願寺(伊那秩父10番札所/長岳寺末寺)

    所在地(江戸時代の村名):阿智村駒場馬場(駒場村)      
<御詠歌>
 朝日さす夕日かがやく満願寺
 仏のちかい浄土なるらん

 馬場(ばんば)は、慶長6年(1601)に宮崎藤右衛門が下条方面の代官・材木奉行として赴任した際に、館を建てて住んだゆかりの地である。領地は駒場村下町300石である。下町宮崎氏は寛文9年(1669)に改易となったが、城館の中心部は延宝4年(1676)の絵地図によると、現在の役場庁舎当たりと推定される。また、大樹のもとにお堂らしいものが描かれているのが満願寺と思われる。下町宮崎氏の内庵として建てられたのかもしれない。
→ 愛郷 p.440 下町宮崎氏の馬場館跡

 安永5年(1776)の長岳寺並門徒分限書上帳によると、「駒場村医王山満願寺、境内御除地、寺弐間三間、無住」となっている。また、境内にある住僧の墓石は天保5年(1834)の妙心法尼の1基のみである。
 石塔類は馬頭観世音が多く(7基/15基中)、その他に変わった甲子塔などがある。

 安置されている仏像は、本尊薬師如来座像、千手観世音立像(札所)、弘法大師座像である。弘法大師座像は弘化3年(1846)に住僧善入が奉造したもので、千手観音の厨子にも善入の名がある。薬師如来の光背裏には一刀三礼弘法大師作と幽かに墨書されているが、これも善入が書き入れたものと見なされている。
 尚、これらの仏像と共に、穴の開いた願かけ石も安置されている。薬師如来を本尊とし、医王山の山号にも見られるように、病気快癒を祈願したものだろうか。天保11年(1840)奉納。

 満願寺は無住の時が多く、善入の中興後は後継者もなかったため、地域の住民によって維持されてきたようだ。
 明治40年(1907)再建の堂屋は、昭和55年(1980)に生活改善センターとして生まれ変わり、地域住民の交流の場として活用されている。 (2004.8.4 撮影)
馬場五反田コミュニティーセンター(現満願寺)
医王山の額
石仏群(主に馬頭観音)