八軒屋敷いわれ御書付
〜 以下はほぼ原文です (文責さんま) 〜
前に「駒場の八軒屋敷村」について書きましたが、その後、伍和の大島計夫氏文書の中に「信州駒場町八軒屋舗謂御書付並高附」という縦帳が見つかり、今まで「なぞ」となっていたところの一部分に光をあててくれました。
この文書は安永2年(1773)に領主の沢甚之助から駒場村の惣百姓にあてたもので、今まで基礎資料としてきた寛政重修諸家譜の原譜作製時期よりも二十数年前のものであり、村の起源にまつわる、家康側室おまつに関する記事などは大変に興味もあり、貴重な資料であると思います。
以下、その全文を読み下し文にしてご紹介してみます。
〈表紙〉 (大島家文書)
信州駒場町八軒屋舗謂御書付並高附
覚
一 信州伊奈郡駒場村法光院母先祖よりの屋敷、上見堂と申す処、畑高弐石壱升之内、町屋八間、彼の所に宮壱ヶ所これ有り候に付、法光院拝領仕り度き由、権現様へ願い奉り候処、永代下し置かれ候由、御直の上意にて慶長五年拝領仕り候。
一 法光院儀は若き時分おまつと申し候。駿河にて権現様へ召し出され御傍にて御奉公仕り候。春峰院義は法光院姪にて御座候。別に娘御座なく候について春峰院儀養子娘に仕りおき候。法光院相果て申すべき前年、清雲院殿をもって大猷院様御台様女中おこわ殿、おひで殿、しゅりん殿、この三人の衆をもって右屋敷の儀、権現様拝領仕り候段々申し上げ、法光院養子の娘御座候、問屋敷譲り受けたき由願い奉り候えば、則ち大猷院様へ仰せ上げられ候ところ相違なく下し置かれ候旨、右三人の衆法光院様に仰せ渡され候より、法光院義寛永十九午ノ九月十八日相果て申し、法光院相果て候時分酒井紀伊守殿、杉浦内蔵亮殿へ市岡左太夫御両人へ罷り出て、法光院相果て申し候段申し達し、法光院存生の内右三人の女中衆をもって申し上げ候信州駒場村宮屋舗の義、養子娘に下し置かれ候義に御座候やと窺い候えば紀伊守殿、内蔵亮殿、松平伊豆守殿へ仰せ上げられ候に、法光院存生の内願いについて下し置かれ候屋敷の義に候間、下し置かるる旨、翌日伊豆守殿仰せ渡されし旨、紀伊守殿、内蔵介殿、市岡左太夫に仰せ渡され候。
右信州伊奈郡駒場村八間屋敷知行所、書面之趣相心同(得)べきもの也。
安永二年巳十一月
沢 甚之助
駒場村 惣百姓へ
この文書の内容について若干の解説をしてみます。
1 駒場村に法光院(旧名おまつ)の母及び先祖よりの屋敷で上見堂(上御堂)と申す所があり、畑の石高が二石一升(三石一升の誤り)の内、町屋が八軒ある。そこに宮(神社)一ヶ所もある。これを私に下さいとおまつが権現様(徳川家康)に願い出たところ、永代に下さるとの直々の上意で、慶長五年に拝領した。
2 法光院は若い時はおまつという名で、駿河(静岡)で家康公に召し出され、身辺に仕えた。おまつには子どもがなかったので、おくに(のち春峰院)という姪を養子娘(養女)にすることにしてあった。法光院が亡くなる前年(寛永18年)に清雲院殿(おなじ家康の側室で本名おなつ)を通じて大猷院様(三代将軍家光)の御台様の女中三人の衆から八軒屋敷の由来を申し上げ養女のおくにに譲る願いを許可された。寛永19年9月18日法光院が死んだ時、酒井紀伊守、杉浦内蔵允殿(勘定奉行)へ市岡左太夫がまかり出て法光院の拝領した八軒屋敷を養女の春峰院に譲って下さるかと伺った処、法光院の存命中に許可されたことであるからと松平伊豆守(老中)の許可もあって酒井・杉浦両勘定奉行から市岡左太夫に仰せ渡しがあった。
以上がこの文書の大意でありますが、その内容について考察してみることにします。
前にも書きましたが、この八軒屋敷村を家康から拝領したヒロインの「おまつ」は宮崎泰景の娘「おせん」と共に家康の側室となった人です。その出生については「林丹波の娘」ということはまず間違いありませんが、その林丹波なる人物が判然としません。諸説を列挙しますと、
@ 備中原の領主(郷士)林久左衛門が林丹波であるとし、宮崎泰景の娘おせんが林久衛門に嫁しその子が「おまつ」で、久左衛門の死後、母子共に家康に召し出されたとする説。(中関宮崎系図)
A 駒場の林丹波の娘おまつが、宮崎氏の娘おせんの手引きによって家康の側近に仕えたもので、おまつはおせんの実子ではない。(駒場八軒屋敷に住んでいた山田家の伝承、下条記の著者佐々木喜庵の記述)
B 前原の領主市岡喜左衛門のところへ宮崎氏の娘おせんが嫁ぎ、その子がおまつであるとする説。おせんの嫁した相手が違うだけで、武田勝頼の人質に母子がとられたこと、夫の死後家康に召されるなど、@と全く共通しているが、その後の記事が粗雑である。(信陽城主得替記・ほか)
以上書きましたのは、文書の一行目にある「法光院母先祖よりの屋敷上見堂と申す処」の中の「母・先祖」を考えるためです。おまつの母や先祖にゆかりの地が八軒屋敷であったようです。寛政譜の沢氏の項にも「先祖田宅の地」に「今宮八幡宮を造立せむ事を」おまつが願い出たとありますが、この文書ではさらに「母」の一字があることに注意したいと思います。
次に、八軒屋敷をおまつが拝領した時期について、今までわかっておりませんでした。@の説で考えますと、おまつがおせんと共に家康にまみえるのは八才前後と推定されますから、やがて成人して初めて家康の「お伽」に召されたとき、この地を拝領したのではないか? と想像していましたが、この文書では「慶長五年拝領」と書かれています。慶長五年というのは、宮崎一族・市岡氏らが武蔵国府中から旧知行所であったというこの駒場周辺に釆地を移された年で、宮崎半兵衛・太郎左衛門・藤右衛門・市岡理右衛門らへの所領配当の過程の中で、八軒屋敷はおまつに与えられたとみるのが妥当のように思います。私の推定では、おまつはこのとき二十才位になっていて、前記の想像ははずれているようです。
二項のはじめに「法光院儀は若き時分おまつと申し候」とあります。浄久寺境内の「お姫様のおたまや」に残る位牌には「芳杲院殿名誉貞珠大禅定尼」とあるため、別人ではないかとの疑念をもたれる向きもありましたが、法光院=芳杲院は宛字による書き誤りかと思われます。ただ一つ気になるのは、家康にはもう一人「おまつ」という側室がいて、その法名を「法光院」といい、本名・法名ともに同じです。こちらの「おまつ」はおせん・おまつよりも数年早く奥勤めに入り、天正十年男子を生んだが家康が四十一才の時の子であるため、俗忌(厄年)を避けて越前の兄秀康の養子にされた松平民部であるといわれます。この法光院については、松平民部が三十四才で病死したこともあって、出自も出産後の消息も記録されておりません。駒場から召し出されたおまつは、いわば二代目おまつになったわけですが、何故か正式に側室として記録されず、さきのおまつの法名までもそのまま「法光院」をいただくとは、どう解釈したらよいのかわからない大奥のなぞです。
つづいて「春峰院儀は法光院姪にて御座候」とあります。法光院(おまつ)の出自がつまびらかでないのに比し春峰院は寛政譜にも記録があり、浄久寺の記録にも「春峰院殿 ヲマツドノメヒ子、ヲクニドノ事」とありますので、おまつの養女となった春峰院はおまつの姪で本名「おくに」といい市岡権兵衛の娘と分かりますが、どのような続柄で叔母・姪の関係なのか、判然としません。念のため市岡氏の略系をのせておきます。
市岡氏略系(春峰院)
<上中関村領主>
市岡 理右衛門(忠次)(*妻は林久左衛門娘)
┃
┗┳多右衛門(定次)<武蔵・上総>(妻は宮崎半兵衛娘)
┃
┣左太夫(正次)<江戸>(妻は小栗氏娘)
┃
┣権兵衛(忠重) (妻不詳)━┳理右衛門(清次)(妻は宮崎三左衛門道次娘)
┃ 30才で死亡 ┃ <祖父忠次が養子>
┃ ┗女子(*おくに 春峰院)
┃ <叔母法光院に養われ、沢清兵衛が妻となる>
┗理右衛門(清次)
<忠次の采地のうち200石相続、その余130石は納められる>
この系図で見るように、おくには市岡理右衛門忠次の孫にあたりますが、父がその兄二人に代わり家督を継ぐはずのところ、三十才で父に先立ち死亡したため、おくにの兄清次が祖父の養子となり上中関を相続しました。「高三百三十余石のうち二百石をたまい、その余百三十石はおさめらる」と寛政譜にありますが、これは義兄(実は伯父)二人が父よりも多くの祿を賜っているため、相続にあたって百余石を減じられたもので、この百余石は幕府直轄領榑木成として榑木で年貢を納める定めになっていました。
余談をはさみましたが、この系図ではおくにの生母が記されておりませんので、叔母というのは母の妹ではないかという想像しかできません。また宮崎言周編の宮崎系図によれば、祖父理右衛門忠次の妻は林久左衛門の娘となっています。おせんが林久左衛門の妻になったという中関系図説をとれば、おせんの子供が忠次の妻ということになりますが、これは年代的に少しずれていますし、系図も実子ではなく、おせんに対して点線で示されているのは継子又は養女という意味でしょう。 このように、宮崎・林・市岡三家の縁組の交錯がいろいろの説を生じた原因であろうと思います。
さて、おまつは亡くなる前年(寛永18年)、清雲院殿を通じ家光の奥方の女中に頼んで八軒屋敷を養女おくにに与えて下さいと家光に願い出ています。清雲院殿というのはおまつと同じ家康の側室で名を「於奈津」といい、「幕府祚胤伝」によれば慶長2年17才で奥勤めし、家康の側室としては最後まで生き残り万治3年80才で没したとあります。於奈津はおまつと同年輩位で特に親しかったのではないかと想像されます。
家光から八軒屋敷相続が許された後、寛永19年午の9月18日おまつは亡くなりました。改めておくにの伯父である市岡佐太夫正次(市岡系図参照)から幕府の酒井・杉浦両勘定奉行へ届け出て、老中松平伊豆守の裁許があり、八軒屋敷の地は正式におまつの養女おくにの所領となり、おくにはこれを化粧料として沢清兵衛久吉に嫁ぐのですが、この沢清兵衛の親は百六十石余の直参で、寛永8年奥方番を勤めたとあります。これは、おくにと沢清兵衛との婚約に何か関係があるかもしれません。
おくにが沢家へ化粧料として持参した八軒屋敷の三石一升余は、おくにの生存中はおくに(春峰院)の名儀で管理されたようです。篭平文書に次の一札があり、春峰院の所有を立証しています。
一札之事
一 駒場村之我等屋敷之出入、久兵衛無届千万ニ候。只今迄之通り貴殿仕配可被仕候。其上ニ而久兵衛我儘申候ハヽ此方より急度可申付候。為後日一札如此ニ候。以上
貞享五年辰ノ五月十五日
春 峰 院
信州中関村 助右衛門殿
おくにの夫沢清兵衛は延宝2年に71才で没していますから、これはその後14年も経た頃、老令の寡婦となった時期のものです。おくにが元祿年中に没した後は、この八軒屋敷は沢家の領するところとなり、以下別稿で述べたような経過をたどって明治維新の上知となるまで、町中のミニ村として存在したわけです。最後に、なぞ多き女性三代の略系をのせ筆をおきます。
1おせん(泰栄院)
宮崎泰景の娘、佐々木新八郎、林久左衛門、市岡理右衛門のいずれかの妻、後家康側室。
2おまつ(法光院)
林丹波の娘、或はおせんの実子か。おせんと共に家康に仕える。八軒屋敷を賜わる。
3おくに(春峰院)
市岡権兵衛の娘、叔母法光院の養女となり、八軒屋敷を相続。沢清兵衛に嫁し、八軒屋敷を化粧料とする。
(S55・8)