大御食神社の神字社伝記と阿知の宮
〜 『実在した神代の文字』(櫻澤重利 著) より 〜

 駒ヶ根市の大御食(おおみけ)神社は通称美女ヶ森に鎮座し、社伝は「あひる草文字」を主とした神代文字で書かれています。この社伝は誰も読めないものであったが、明治2年に伊那県大参事の落合直亮の弟で落合直澄という人が一気に解読してしまったといいます。直澄兄弟は平田篤胤の「神字日文伝(カンナヒフミノツタヘ)」をもとに「あひる文字」を解読したのでしょう。 同年に社格決定の資料として社伝を提出したが偽物扱いされ、大御食神社は「由緒明らかならず」として郷社にとどまってしまったと言います。

 直亮は平田派国学を学んだ人ですが、後に伊勢神宮で和歌等を神代文字で書かせて保存させ偽物騒ぎを起こした人物のため、この神字社伝も捏造された偽書ではないかと言われています。(上伊那郡史)
 一方、直澄は東京帝国大学の国文学教授となり、明治21年に「日本古代文字考」を発表するなど晩年まで神代文字の研究を続けたそうです。

 さて、その社伝によると、大御食神社の由緒には阿知の宮が関係しているので、その部分の要約を紹介します。

 日本武尊が東征を終えて信濃の国赤須の里を通りかかった。赤須彦(アカツヒコ)という者が立派な杉の木の下に仮宮を設け、日本武尊を丁重にもてなした。「汝は誰ぞや」と問われ答えるには、阿知の宮にお祀りする思兼命の御子表春命の末裔に阿知ノ命(アシノマコト)があり、その御子阿知山祇ノ命(アシヤマツチノマコト)の末裔の別裔(わけはっこ)である赤須彦であるという。
 赤須彦は山の幸、川の幸、野の幸で日本武尊を十分もてなしたので、御食津彦と称え名付けられた。後にその仮宮に日本武尊を祀り、大御食ノ社と称した。

 その後、阿知ノ宮と関係する話がいくつかあります。
@応神天皇38年に熱田ノ宮から厳郎姫(イツイラツヒメ)と草薙の剣の御霊代を迎え祀るに当たって、阿知の真主(宮主か?)篠健大人(シヌタケウシ)らと相談した件
A允恭天皇8年に大草の里黒牛に坐す風の神の祟りで嵐がやまなかったので、阿知ノ宮主牛足彦(ウシタリヒコ)らと相談した件
B敏達天皇11年に阿知ノ宮(河合の御陵(カハアヒノマササキ))が損ない破れたため御殿を改築した際に、阿知ノ宮主八葉別ノ大人(ヤツハワケノウシ)と大御食ノ社大足芦津彦(オホタリアシツヒコ)で八意思兼命をお遷しして七日七夜お祀りした件
C文徳天皇の斎衡3年に御神木の杉が枯れたため(2度目)、神殿の建て替えと、杉の植え継ぎをした際、阿知ノ宮の祝(はふり)千幡彦(チハタヒコ)らと相談した件

 さて、この社伝は村上天皇の天暦5年(951)で終わるが、昼神の阿智神社もこの天暦年間に戸隠神社へ社家共々遷ってしまったと言われます。分家の大御食神社にも関係があるのかも知れません。ちょうどこの時期は三代実録奉上(901)、延喜格施行(905)、延喜式撰修(924)、風土記の勧進(925)と、朝廷が体制を積極的に整えた時期であったが、大御食神社は式内社の格付けに漏れています。

 以上、櫻澤氏の著書から要約しました。神代文字に関する櫻澤氏の見解は別の項目で紹介したいと思います。大御食神社社伝の真偽は私には分かりません。本物であったら面白いのですが・・・。
 ( 文責 さんま、 →は参考文献等 )

 → 神代文字・古代文字について(様々な見解の紹介)・・・作成予定

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