望みはただ、ひとつだけ


  分厚い絨毯の敷かれた部屋の中にあるのは、分厚い本やファイルの納められた本棚と重厚な机、そして本革の応接セットだけだった。
 調度も、置かれた文房具や小物に至るまで、選び抜かれた最高級品ではあるが、豪奢な雰囲気はなく、どちらかと言えばシンプルな印象を受ける。
 しかし、この、どちらかと言えば地味な部屋の主が、その気になれば世界を意のままに動かす事が出来る程の権力の持ち主なのだ。
 今日の執務を終え、壱哉は長く息を吐いて、目を閉じた。
 ふと、今までの事が思い出される。
 元々は、西條グループ傘下の一企業に過ぎなかった壱哉の会社。
 『クロサキグループ』として名の通るまで育て上げたものの、西條グループの妨害で思うに任せず、苛立っていたあの頃。
 ネピリムが現れたのは、その頃だった。
 あれから、全てが変わった。
 悪魔の力を得てからと言うもの、全てが小さくなった。
 あれほど巨大に見えた西條貴之も、子羊のように矮小な存在へと変わった。
 無論、仕事の上では悪魔の力を使わない事を自らのルールとして課していたけれど。
 他者から僅かにエナジーを奪えば、休まずに働き続ける事が出来る。
 どれだけ眠らないでいても、集中力が途切れる事はない。
 そんな壱哉の働きに、ただの人間が太刀打ちできるはずはない。
 ただ、ひたすらに上を目指すうち、いつしか、クロサキグループは世界中に系列企業を持つ一大コンツェルンとなっていた。
 しかも、今のクロサキグループは二回目のものだ。
 西條グループすら吸収し、世界随一の巨大企業グループとなってしまった時、壱哉はもうやる事がなくなってしまった。
 だから、その全てを、一旦手放したのだ。
 そして、もう一度、全くの一から会社を立ち上げた。
 今度はゆっくりと時間を掛けて、再び巨大コンツェルンを作り上げたのだ。
 表立ってはいないもの、壱哉は、電話一本で国を動かし、パソコンのキーを一つ押すだけで世界経済を大きく動かすだけの『力』を手に入れていた。
 しかし。
「‥‥‥飽きた、な‥‥‥」
 誰にともなく、壱哉は呟いた。
 二度目のグループを育てるのには、本当にゆっくり、時間を掛けた。
 自分がまだ人間だった頃から、どれだけ時間が経っているのか、もう数えるのもやめてしまった。
 西條貴之はとうの昔に死んでいる。
 そして‥‥‥今までずっと、側にいてくれた吉岡も、この前、逝った。
 人ではなくなった壱哉の側にいる事を望んだ吉岡に、壱哉は、魔界で調達した薬を飲ませた。
 人間の生の営みを、何倍にもゆっくりと進める事が出来る薬だった。
 吉岡が、従魔となっても永遠に壱哉の側にいるのを望んでいた事は判っていた。
 それでも、吉岡を人間のまま、逝かせる事が出来たのは、唯一、壱哉が誇れる事だった。
 それが、有望な前途も、家族さえ捨てさせた吉岡への、壱哉なりのけじめのつけ方だった。
 吉岡が逝った、そのせいではないが、壱哉は、毎日に飽きていた。
 仕事しか、能力も、趣味もない自分。
 二度も、世界を手に入れたら、この先、何をすればいいのか。
 魔王ザヴィードには、魔界へ誘われていたが、それ程の魅力は感じなかった。
 向こうに行っても、怠惰で目的のない時間が続くのは同じに思えた。
 と、視線を感じ、壱哉は目を開いた。
 常に近くに控えていた吉岡がいなくなってから、いつも身近に置くようになった、従魔。
 それは―――。



大きく尻尾を振る忠犬

真っ直ぐな目をした山猫

穏やかに笑む親兎