抱き締めてくれる父の手
「‥‥どうしたんだい、黒崎君」 柔らかな笑みを浮かべ、山口が言った。 今は、山口は人間と変わりない姿をしている。 前に一也に会わせるために戻してから、そのままなのだ。 デスク脇に立つ山口を、壱哉は何となく見上げた。 吉岡が逝ってから、山口は吉岡のいた場所に立って、吉岡ほどではないにせよ、手助けしてくれるようになっていた。 いや、吉岡のいた場所、とは微妙に違う。 吉岡よりも、明らかに距離を置いた場所に控えている。 それが、山口なりの吉岡へのけじめなのだろうか。 もう一度、大きく息を吐く。 疲れていた。 理由は判らないけれど、酷く、疲れている気がした。 そっと、山口が近付いてくる気配が判った。 面倒なので視線を向けずにいると、山口はいつものように、椅子の斜め後ろに立つ。 「疲れてしまったのかな?」 見通した言葉にも、驚く気にはなれない。 山口にはずっと、壱哉が心の中に隠しているものさえ、全部見えているのだから。 「‥‥確かに、疲れても無理はないと思うよ。君は、ずっと走り続けてきただろう?脇目もふらず、休みもせずに。普通だったら、もっと前に倒れてしまっているよ」 笑みすら含んだ声に、そうだろうかと考える。 確かに、今まで、仕事の事しか考えた事はなかった。 常にグループを大きくする事だけを考えていた。 しかし、二度も、世界を動かせるほどグループを大きく育てた。 これ以上、何を目標にすればいいのか。 いや‥‥もう、壱哉は全てに疲れていた。 そう――生きている事さえも。 壱哉は、山口を見上げた。 そこには、ただ優しく、静かに包み込むような笑顔がある。 「山口さん‥‥何か、望む事はないか。何だっていい」 壱哉の言葉に、山口は少し驚いたような顔をした。 「僕が望む事かい?」 「あぁ。なんなら、人間にだって‥‥‥」 「黒崎君」 言い掛けた言葉は、途中で遮られた。 「僕はね。君には、感謝しているんだよ」 あまりにも意外な言葉に、壱哉は驚いて山口を見詰めた。 「走る事さえできなかった一也が、あんなに健康になって、大きくなって‥‥‥我が子が、幸せになって、そして天寿を全うするのを見届けられる親なんて、普通はいないよ。だから僕は、本当に君には感謝してる」 山口の言葉には全く偽りは感じられなくて、本心からの言葉だと知れる。 しかし、我が子が死ぬのを見届けなければならなかった事は、裏を返せば、辛い事ではなかったのか。 いや、それよりも。 一也から引き離され、直接会ったのは数える程だった。 成長するに連れ、外見が全く変わらない山口と会わせる訳には行かなくなり、せいぜい電話で喋る程度だった。 聡い一也は、父が姿を消した事と自分の手術に何か関係がある事、そして壱哉がそれらに関わっている事に薄々気付いていたらしく、会えなくても、不満は全くと言っていいほど口にしなかった。 怪しんではいただろうけれど、電話で話す時にもそんな疑問は全く口に出さなかった。 息子にそんな我慢をさせている事に、山口は胸を痛めていたはずだ。 しかし山口は、まるで壱哉の心の中を読んだかのように口を開いた。 「‥‥一也のためと言いながら、辛い思いばかりさせて、僕は、本当に不出来な父親だった。でもせめて、一也が幸せな家庭を築いて、家族に囲まれて幸せな一生を終えてくれた事は、百合子にも少しは顔向けができるんじゃないかと思うんだ」 しかし、現に辛い思いはさせたのだし、それには壱哉も責任がある。 そう言おうとした壱哉の言葉を遮るように、山口がそっと肩に手を置いた。 「黒崎君。今度は君を、父親として見送ってあげなきゃね」 またしても意外な言葉に、壱哉は面食らう。 しかし、『父親』と言う言葉が妙に気恥ずかしく聞こえて、壱哉はそっぽを向いた。 「馬鹿にしないでくれ」 しかし、そんな内心など、『父親』にはお見通しだった。 「僕にとっては、君も可愛い息子みたいなものだよ?」 笑みを含んだ声が言う。 少しむっとして見上げると、山口は、どこか悲しげな笑みを浮かべていた。 「君は‥‥ずっとずっと、苦しんで、それでも必死にがんばって来た。疲れたなら‥‥立ち止まって休んでもいいんだよ」 手が置かれた場所が、不意に熱を持った。 胸が熱くなって、何か言いたいのに、言葉が何も出て来ない。 と、山口が、そっと壱哉を抱き締めてきた。 丁度、胸に顔を埋めているような状態になって、壱哉は、自分が小さな子どもになってしまったような錯覚にとらわれる。 「そうだね‥‥僕の望みは、君が消えるまではこうしていたい、って事かな」 優しく、頭を撫でる手に、訳もなく涙が出そうな気持ちになる。 「そして、君が消えたら、僕もすぐに後を追いかけて行くよ。君が、天国に行こうが地獄に行こうが、すぐに追いつくから」 「‥‥‥あなたが行く場所は、天国しかないじゃないか」 拗ねたような呟きに、山口は、小さく笑った。 「僕は、そんなにいい人間じゃないよ?それに、君が地獄に落ちるとは限らないさ。‥‥どっちにしても、僕は君と一緒に行くって決めたんだから、どこに行くのも同じだよ」 壱哉は、半ば無意識に、山口の背に手を回し、背広を両手で掴んでいた。 まるで、置いて行かれまいとする子どものように、強く、強く。 「ずっとこうしていてあげるから。ゆっくり、休んでいいんだよ」 優しい言葉と、全てを包み込んでくれるような力強い腕。 心地よいぬくもりは、初めて経験するような、それでいて遠い昔に感じた事があるような、不思議な感覚だった。 安らかな眠りに就く時のような穏やかな気持ち。 ずっと憬れていたものを手に入れたような、そんな満ち足りたものを感じながら、壱哉はゆっくりと目を閉じた。 |
闇の玉座へ |