共にある心


 大きくて茶色い、真っ直ぐな瞳が壱哉を見詰めていた。
 少年の姿をして、少年の顔をして、少年の純粋な瞳をして、それなのに、そこに宿る光は、全てを見通すかのような酷く大人びたものだ。
「新‥‥‥」
「なに?黒崎さん」
 すぐに答えが返ってきて、言葉に詰まる。
 何か用事があって呼んだ訳ではなかったのだ。
 すると、新は小さく笑って、近付いてくると、大きなデスクの端に座った。
 ぴんと立てられた、黒い、しなやかなしっぽがゆらゆらと揺れる。
 少々行儀の悪い仕草も、まるで野生の猫のようで、新らしい、と壱哉は思った。
 茶色い宝石のように深い輝きを帯びた瞳が、壱哉を見詰める。
「‥‥やりたいこと。なくなっちまったんだろ?」
 新の言葉に、壱哉は、目を見張った。
 そんな気持ちは全くなかったけれど、言われて考えると、その通りだった。
 西條貴之を簡単に超え、世界を手に入れた。
 一度はそれも手放して、本当に、自分の力だけで再び頂点に立った。
 これ以上、何をする事があるのか。
 これ以上、ここにいる意味があるのか。
 ふと、壱哉は酷く空虚な気持ちに襲われた。
 人を捨ててから今まで、ずっと走り続けて来た。
 人ではあり得ない時間を、脇目もふらずに走り続けて来た気がする。
 ―――もう、終わってもいい。
 そんな事を思う。
 壱哉は、新を見上げた。
「お前は‥‥望みはないのか」
「はぁ?俺?」
 新が、驚いたように目を見開く。
「あぁ。今なら‥‥何でも、叶えてやれると思う。お前を、人間に戻す事もできるかも知れない」
 自分が消えれば、この胸の中に捕らえた魂も、戻せるのではないか。
 そうすれば、新は人間として、普通に生きられるのではないか。
 しかし、新は、大きなため息をついた。
「はー‥‥。まったく、あんたって人は‥‥‥」
 大袈裟に項垂れて見せる新に戸惑う。
「あのさぁ。今更、そんなこと言われて、どうしろって言うんだよ。俺が、人間じゃなくなってどれだけたつと思ってるんだ?人間に戻れたとしても、また一から勉強して出直せっての?」
 そう言われれば、その通りだ。
 既に新が知っている人間達は寿命で死んでしまっているし、世の中だってあの頃とは変わって来ている。
 新から奪った時間の長さに、今更ながら壱哉は思い至った。
 思わず俯いた壱哉に、新はもう一度、ため息をついた。
「ほんとにあんたって人は‥‥‥。まぁ、わかってたけどさ」
 呆れたような新の声は、どこか柔らかかった。
「そうだなぁ。望み、だったらひとつだけ」
 顔を上げた壱哉は、悪戯っぽい瞳が間近にあって、驚きに目を瞬かせた。
 そのまま、新の顔が近付いて来て、唇に柔らかなものが触れる。
 キスされたのだと気付いた時には、新の顔は離れていた。
「黒崎さんはもう、この世に未練がないんだろ?だったら、黒崎さんが消える時、俺も一緒に消えたい」
 新の言葉に、壱哉は思わず、その顔を見詰めてしまう。
 笑みさえ含んだ新の表情は、とても優しくて、少年の純粋さと大人びた落ち着きを漂わせていて。
 唐突に、鼻の奥が熱くなる。
「‥‥なに、泣いてんだよ、黒崎さん」
 新が、呆れたように言った。
 言われて初めて、壱哉は自分が泣いている事に気が付いた。
 涙を流すなど、もう、どれくらいぶりだろう。
 いつ泣いたのか、いや、そもそも泣いた事があったのかさえ思い出せなかった。
 ずっと尽くしてくれた吉岡が逝った時でさえ、涙など出なかったのに。
「‥‥あんたは、自分の気持ちに鈍すぎるんだよ」
 新が、苦笑した。
 机から降りた新は、今度は壱哉の椅子の肘掛けに腰掛ける。
 まるで体重を感じさせないその動きは、本当に猫のようだった。
「俺の望みは、ひとつだけだよ。黒崎さんが消える瞬間まで、ずっと一緒にいたい」
 新は、壱哉の目元の涙をそっと舐めた。
「そして、俺も黒崎さんと一緒に消える。――そうしたら、黒崎さん、寂しくないだろ」
「俺は別に、寂しいなんて‥‥‥」
「はいはい、言ってないね」
 宥めるような新の言葉も、不思議と気にはならなかった。
 新の腰に手を回して引き寄せると、華奢な体は抵抗なく腕の中に収まる。
「言ったろ。俺が、あんたの『良心』になってやるって。心は、絶対に体と離れられないんだからな」
 新が、しっかりと背中に腕を回しながら言った。
 間近で見下ろした新の瞳は、吸い込まれそうなくらい綺麗に見えた。
 柔らかなぬくもりが、涙が出そうなくらい心地良い。
 このまま消えてしまえるのなら、もしかして自分は幸せ者なのではないか。
 壱哉は、そんな事を思った。



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