すぐそこにあるぬくもり
デスク脇に視線を移せば、そこには茶色い毛並みの大型犬がいる。 いつもは退屈して、うとうとと微睡んでいる事が多い。 しかし今日は、さっきの壱哉の呟きを聞き咎めたのか、どこか落ち着かない様子で見上げて来ていた。 「来い」 呼ぶと、ゆっくりと這い寄り、足下に蹲って見上げてくる。 やや癖のある柔らかい髪や、同じ色の耳を撫でてやると、心地良さそうに目を閉じる。 そんな仕草も、従順さも犬そのものだった。 最近は、喋る事もあまりなくなった。 勿論、訊かれた事には答えるし、気紛れに遊んでやる時には多少喋るけれど、自分から言葉を発する事は殆どなくなったように思える。 だからより、本当の犬そのものに見えるのかも知れない。 「‥‥‥樋口」 呼ぶと、樋口はゆっくりと目を開いた。 茶色い瞳は、どこか、あの日拾った子犬と同じ色をしているような気がした。 ただ純粋に、真っ直ぐに見詰めてくる瞳が、ふと、哀れになる。 全てを賭けていた薔薇も、家も失った。 信じていたはずの壱哉に裏切られ、魂を奪われ、まるで動物のように扱われている。 壱哉に会う事さえなければ、こんな事にはならなかったのに。 もう――解放してやってもいいのではないか。 そんな事を思う。 「‥‥お前は、望む事はないか」 壱哉の言葉に、樋口は、意味が判らないかのように首を傾げた。 「今なら、多分、人間に戻る事もできるかも知れん」 壱哉が消えれば、捕らえられた魂は解放されるはずだ。 悪魔の力で、それを戻してやる事も不可能ではないのではないか。 しかし樋口は、不安そうに壱哉を見上げて来た。 「黒崎‥は?」 そう聞き返されるとは思っていなかった壱哉は、口を噤む。 「‥‥‥俺は‥‥‥」 やりたい事もなくなったし、もう、消えてもいい。 そう言う前に、樋口は激しく首を振った。 「嫌だ!黒崎がいなくなったら、俺だって、生きてる意味なんかない」 必死な顔で見上げて来る樋口に、苦笑する。 「馬鹿だな、お前は‥‥」 奪うだけの悪魔から解放されると言うのに、自分から囚われようとしてどうするのだ。 「人に戻れれば、また、薔薇を作る事だってできるだろう」 壱哉の言葉に、樋口はそっと目を伏せた。 「もう‥‥昔のことなんか、覚えてない。それに‥‥‥」 樋口の表情が、とても悲しげに、寂しげに見えて、壱哉は言葉を呑む。 「見せたい人がいなかったら‥‥がんばっても、意味がないから‥‥‥」 あぁそうか、と壱哉は思う。 樋口を手に入れてから、人間の寿命を遙かに超える時間を過ごして来た。 既に、樋口の知っている人間は生きてはいないし、あの町だって大きく変わっているのだ。 言葉のない壱哉を、樋口は真っ直ぐ見上げて来た。 「俺‥‥黒崎が消えるなら、一緒に消えたい。俺だけ残されるなんて‥‥嫌だ」 縋るような言葉に、何故か安堵してしまった自分に、壱哉は戸惑った。 解放してやろうと思いながらも、樋口を手放したくないと思っていたのか。 「あ‥‥黒崎」 ふと、思い付いたような樋口の言葉に、壱哉は視線を向けた。 「やっぱり、ひとつだけ、頼んでもいいかな」 樋口の望みが何なのか、壱哉は、興味を惹かれる。 「言ってみろ」 促すと、樋口は、僅かに赤くなりながら口を開いた。 「一度で‥‥いいから。俺のこと‥‥‥名前で、呼んでくれないか」 全く予想もしていなかった言葉に、壱哉は一瞬、意味が判らなかった。 しかし意味を理解すると、困惑が湧き上がって来る。 そんなものが望みだと言うのか。 「ダメ‥‥か?」 不安そうな樋口に、苦笑する。 ふと、悪戯心を起こして、壱哉は樋口を抱き寄せた。 戸惑ったように身じろぐ、その耳元に口を寄せる。 「‥‥崇文」 囁くと、樋口の体がビクリと震えた。 「――っ」 樋口が、体当たりするような勢いで抱きついてきた。 首の後ろに腕を回し、強く、強くしがみついてくる。 「好き‥‥大好きだよ‥‥‥――‥‥‥っ」 壱哉の胸に衝撃が走った。 それは、殆ど声になるかならないかの呟き。 きっと樋口は、聞こえていないと思っているだろう。 しかし、壱哉には、その小さな呟きがはっきりと聞き取れた。 好きだ、などと言う言葉は、今まで遊びの中で何度も聞いていた。 それなのに、今日は、同じ言葉が胸に突き刺さった。 けれど、それは、不快な痛みではない。 突き刺さった場所から、熱い何かが全身に広がって行くようだった。 震える手を、樋口の背中に回す。 軽く抱き締めると、樋口は益々しっかりとしがみついてくる。 もしかすると。 ずっと欲しいと思っていたものは、手に入らないと諦めていたものは、本当はとても近くにあったのではないか。 気付きさえすれば‥‥手を伸ばせば届く場所に、あったのではないか。 今頃になってそれに気付いた自分は、本当に何も見えていなかったのだろう。 「‥‥崇文‥‥‥」 今度は、心からの気持ちを籠めて、口にする。 樋口の肩が震えた。 その顔が埋められた肩に熱いものを感じる。 今、樋口がどんな顔をしているのか、見たい気もしたが、やめておく。 きっと自分も、見られないような顔をしているだろうから。 だから壱哉は、樋口の柔らかな髪に顔を埋めた。 消えてしまっても、ずっと抱き締め続けていられるように、腕に力を籠める。 もう二度と、大切なものを手離さないように。 |
闇の玉座へ |