あなたに会いたい
《7》
目立たないように広い校庭の端を走りながら、壱哉は口を開いた。 「お前、悪魔って信じるか」 「は?悪魔?」 唐突な言葉だったためか、樋口が目を丸くする。 「悪魔は、確かにいる。まぁ、漫画とか映画とかに出てくるような威厳のある奴ではないがな」 ここにネピリムがいたら本気になって反論して来るだろうな、などと考えながら、壱哉は言った。 樋口は、どう答えればいいのか判らない様子だった。 「信じられないだろう?」 壱哉だって、ネピリムに直接会わなければ悪魔など信じなかった。 「えっと‥‥信じられないって言うか、会ったことないから、よくわかんないや」 樋口の素直な言葉に、壱哉は苦笑した。 何かがつく程正直で、物事を真っ直ぐに考える樋口は、この頃から変わっていなかったのだろう。 「信じられないなら、それでもいい。とにかく俺は、その悪魔に、この世界に飛ばされたんだ」 樋口は、真面目な顔で壱哉の話を聞いている。 「昼間‥‥お前に名を聞かれた時、嘘をついた。お前を変な事に巻き込みたくなかったんだ」 言ってしまっていいのかどうか、壱哉はまだ迷っていた。 しかし、ここまで巻き込んだ樋口に、真実を全て伏せたままで置くのは胸が痛んだ。 「俺の、本当の名前は‥‥‥」 壱哉は、ひとつ、息を吸い込んでから口を開いた。 「黒崎壱哉、と言う」 「!!」 余程驚いたのだろう、樋口の足が止まる。 しかし、足を緩めない壱哉に慌てて走り出す。 「えっと、それって‥‥‥大人になった黒崎、ってこと?!」 樋口は、混乱した表情だった。 無理もないと思う。 この時代の人間に真実を告げる事が、何かを変えてしまう事だってあり得る。 しかしそれでも、こんな危険まで冒させた樋口に何も知らせずに終わりたくはなかったのだ。 「‥‥そっか。だから、サンダーもあんなになついたんだ」 納得したように、樋口が頷く。 「だから、黒崎と会えない、って言ったのか。同じ黒崎が二人いたらおかしいもんな」 この事実を素直に受け入れている樋口に、壱哉は少なからず驚いた。 「やっぱり、最初に会った時、お兄さん、悪い人じゃないって思ったんだ。大きくなった黒崎なら、当たり前だよな」 満面の笑顔に、今度は壱哉が言葉を失う番だった。 こんなにも真っ直ぐ、純粋な信頼を寄せてくれている樋口に、自分がした――いや、これからするであろう仕打ちに、胸が酷く痛んだ。 と、樋口が足を止めた。 「黒崎‥‥黒崎が来てる!」 樋口が、校門の方を見て言った。 同時に、壱哉にもあの頭痛が始まった―――。 何となく早足で、壱哉は学校へと急いだ。 得体の知れない不安と、胸騒ぎのようなものは益々強くなる。 灯り一つない校舎が見えてくると、壱哉はホッとして足を緩めた。 やっぱり、あの男の言った事はデタラメだったのだ。 学校には、何も起こっていない。 それならば、多分樋口にも‥‥‥。 が、すぐにはっとする。 校舎の入り口近くに、動く人影があったのだ。 遠目にも大人と知れるスーツ姿の人影と、小学生くらいの子ども。 そして、子どもの足元には、小さな犬がいるのが見えた。 そう言えば樋口は、時々、サンダーの散歩を夜にすると言っていた。 危ないからやめろと言った事があるが、こんな形で現実になってしまうとは。 「樋口!!」 気付けば、壱哉は叫んでいた。 しかし樋口らしき子どもは、一旦足を止めたものの、すぐにスーツ姿の大人と校舎に入って行く。 「何考えてるんだ‥!」 壱哉は、理由の判らない衝動のまま、塀を乗り越えていた―――。 壱哉と樋口は、追い立てられるように走っていた。 音を立てれば警備員に気付かれる事は判っていたが、この時代の壱哉本人が来ているのだ、ゆっくりしてはいられない。 向こう側の校舎の窓から懐中電灯らしき灯りが見えた。 巡回している警備員がこちらに気付いたのか。 壱哉達は、屋上まで階段を一気に駆け上がる。 階段を登り切り、踊り場になった突き当たりには、分厚い金属の扉が行く手を塞いでいた。 「あ‥‥鍵‥‥!」 樋口は、落胆した顔をする。 「いや。多分‥‥‥」 壱哉は、ノブを掴む。 力を籠めると、それはあっさりと回った。 重い手応えと共に、扉がゆっくりと開いた。 悪魔のくせに妙に正直な所のあるネピリムの事だ。 『歪み』を前に鍵を掛けたままにして、辿り着けないようにはしないだろう。 そう思ったのだが、案の定だったようだ。 扉を開くと、一瞬、強い風が吹き込んで来た。 夜の屋上に灯りはなかったが、天空に浮かぶ月の光が冷たく辺りを照らし出していた。 だだっ広い屋上の丁度真ん中の辺りに、黒いコートと銀髪の男が一人。 あの黒い翼とねじくれた角はないが、それは間違いなくネピリムだった。 「おめでとう、黒崎壱哉。まさかたどり着けるとは思わなかったよ」 ネピリムが、楽しそうに笑った。 「今は結構、穏やかな気持ちなのかな?『歪み』が、こんなに小さくなっているよ」 ネピリムの斜め後ろに、淡い七色の光を放つ『何か』が浮かんでいた。 それは、淡く光りながら、不可視のレンズのように辺りの景色を歪めている。 しかし、壱哉が飛ばされる時に見たそれと比べると、今にも消えそうな程小さかった。 「『歪み』が小さくなれば、お前も出て来られないんじゃなかったのか」 壱哉の言葉に、ネピリムは小さく笑った。 「夜は、我々の世界だからな。それに、さっきお前が大きく育てた負の感情のおかげで、僕は随分力を得る事ができた」 そう言ったネピリムは、壱哉の後ろにいた樋口を見付けて目を細めた。 「あぁ、そっちのチビも一緒か。だから、お前の感情は静まったのかな」 「チビって言うな!」 コンプレックスをもろに逆撫でされ、樋口が憤然として言う。 その足元で、サンダーが足を踏ん張って低く唸っている。 「とにかく、ここまで来てやったんだ、ネピリム。ゲームは俺の勝ちだ」 壱哉は、ネピリムを睨み付けた。 「ふん‥‥‥。あれだけ酷い目にあっても、ほとんどエナジーを失ってない。その上、この状況でも偉そうなその態度。本当に腹が立つけど、さすがだよ、黒崎壱哉」 「それだけ感心したなら、手土産のひとつも出るのか?」 喧嘩を売っているようにしか聞こえない壱哉の言葉に、一瞬、ネピリムは怒りの表情を浮かべた。 しかしすぐにそれを押さえ込むと、ネピリムは薄い笑いを浮かべた。 「まぁ、不本意だけど、僕の負けを認めてやろう。ただし、お前が元の世界に戻れるかどうかはまた別の話だ」 「なに‥‥!」 「僕は、ゲームをしようとは言ったけど、お前が勝ったからと言って、すぐに元の世界に戻すとは一言も言ってない」 小賢しい詭弁を口にするネピリムに、怒りが湧く。 「この『歪み』にお前が触れれば元の世界に帰れる。簡単に言えばそう言う事ではあるけどね」 ネピリムは、まるで通せんぼをするかのように『歪み』の前に立つ。 「だったら、貴様を蹴倒して行けばいいだけの話だろう」 「たかが人間が、僕に手を出せるとでも思ってるのか?」 「そんなもの、やってみなければわかるまい」 その時、サンダーが、扉の方に向けて大きく吠えた。 「ほら、この時代の黒崎壱哉がそこまで来てるぞ?」 「く‥‥貴様っ!」 しかし、動くのは樋口の方が早かった。 ドアのノブを掴むと、壁に足を掛けて必死に踏ん張る。 その手の中で、ノブが乱暴に回されるのが判った。 ネピリムがここで待ち構えていた事、そして妙に口数が多かった事、それらは全て時間稼ぎだったのか。 激しい怒りの衝動が湧くと同時に、ネピリムの背後の『歪み』が一回り大きくなった。 「いいねぇ、その感情。もっともっと、負の感情を抱くがいいさ」 ネピリムが、嬉しそうに目を細めた。 「く‥‥‥」 壱哉は、怒りの衝動のままにネピリムに突っ込んだ。 もしネピリムが避ければ、背後には『歪み』がある。 そのまま触れてしまえばいい、と思ったのは甘かった。 ネピリムが腕を一振りした、と、何をどうされたか判らないうち、壱哉は吹き飛ばされていた。 粗いコンクリートの床が背中を擦り、一呼吸遅れて打撲の痛みが全身に広がる。 「お兄さん!」 必死に扉を押さえながら、樋口が叫んだ。 「人間ごときが、僕にかなうつもりなのか?身の程を知るがいい!」 ネピリムの背には、コウモリのそれを思わせる漆黒の翼が広がっていた。 長い銀髪の下からは、ねじくれた角が生えている。 「‥‥悪魔‥‥‥?」 樋口が、半ば呆然とした様子で言った。 その時、扉を向こうから叩いているらしい鈍い音がした。 「樋口!そっちにいるのか?なにしてるんだ!」 「黒崎‥‥‥」 扉越しのためにくぐもった声だったが、それは子どもの壱哉のものだった。 扉が開けられようとするのを、樋口が慌てて掴む。 それを、目を細めで眺めていたネピリムが、ふと、楽しげに唇の端を吊り上げた。 「そうだ。いい事を思いついた」 どこか子どもっぽいような笑みを浮かべたネピリムの手に、長い鎌が現れる。 そして、楽しい事この上ない、と言った様子で壱哉を見る。 「この世界の住人ではないお前には、残念ながら、今、これを使う事はできないんだ。だから代わりに、このチビの魂を狩ってやる事にするよ」 「なんだと‥‥!!」 まるで、軽い世間話でもしているような口調、しかしその言葉の意味に、壱哉は背筋に氷でも当てられた気がした。 「この世界にいるべきでないお前や、悪魔である僕と接触を持った事は、魂に手を出す理由にはなるからな」 ネピリムは、気取った仕草で肩に掛かる銀髪をはらう。 「もちろん、それにはここから離れなきゃならない。その間にお前はこれに触れて、さっさと元の世界に帰ればいいさ」 ネピリムは、嬉しそうに喉の奥で笑った。 「あぁ、そこのチビ」 薄笑いと共に向けられた視線に、樋口は竦み上がった。 「僕の鎌が触れたら、お前は死ぬ。だが別に、他人に義理立てしなくていいんだぞ。さっさとそれを離して逃げればいい。ここから出て行ったら、僕は追わないと約束しよう」 悪魔の笑みに、樋口の体が震えた。 しかし樋口は、きつく唇を噛み締めて、ドアノブを掴む手に力を籠めた。 「‥‥ふぅん。チビのくせにいい度胸じゃないか」 不快げに唇を歪め、ネピリムは鎌を握り直した。 「せいぜい、バカな自分を後悔するんだな!」 鎌を構えて、ネピリムが樋口に襲いかかる。 「!!!」 反射的に、壱哉は動いていた。 考える間もなく、樋口の方に走る。 目の前で、闇の刃が振り下ろされるのが、奇妙にゆっくりとした動きで見えた。 ―――間に合わないっ! 走る勢いそのままに、壱哉は刃の下に身を投げた。 次の瞬間。 真っ白い光が全身を包み込み、壱哉の意識を塗り潰した―――。 |
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もうすぐ最後です。色々とお約束な展開ですが、好きなんですよ、お約束。いいのです、自分が盛り上がれば。
でもまぁ、樋口はいい子ですよねー。昔の樋口はお馬鹿というより素直に可愛いと思います。大きくなるとただのお馬鹿(笑)だけど。
しかし、今更ですが、つくづく自分、副題つけるの下手だと思いました。他のサイト様で見たりして格好いいなぁと思うんですが。まぁ、タイトルつけるのも下手な時点で仕方ないですけど。