あなたに会いたい

《6》

 サンダーの前足をそっと下ろし、壱哉は立ち上がった。
 何かを感じ取っているのか、サンダーはおとなしく樋口の側に戻り、見上げてくる。
「おそらく、俺が探しているものは屋上にある。ここで、お別れだ」
 壱哉の言葉に、樋口は、少し驚いたように見上げて来た。
「お兄さん、学校に忍び込むつもり?」
「あぁ」
「でも、警備員さんとかいるんだぜ」
「‥‥‥どうにかなる」
 『歪み』に辿り着いてさえしまえば、どう転んだとしても、自分はこの世界からいなくなる。
 見付かったとしても、何とか逃げ切ってみせる。
 そんな壱哉の横顔を見詰めていた樋口は、何かを決めたようだ。
「じゃあ、俺、案内してやるよ」
 驚いて見下ろすと、そこには、とても真剣な顔があった。
「見つからずに入れるところとか、俺、知ってるから。屋上に行ければいいんだよな?」
「だが、学校に忍び込んだりしたら、お前が怒られるじゃないか」
 これは壱哉の問題なのだ。
 幼い樋口を、そこまで巻き込みたくはない。
「だいじょうぶ。見つかったときは、サンダーが、何か怪しいものをみつけて入っちゃった、ってことにするから」
 屈託なく笑う、その表情は、あの日、サンダーを引き取ると言った時と同じに見えた。
「しかし‥‥‥」
 尚も躊躇う壱哉を、樋口は真剣な表情で見上げた。
「よく、わかんないけど。お兄さん、すごく大変なことに巻き込まれてるんだろ?それに、なんか、嫌な予感がするんだ」
 嫌な予感とは、と聞き返そうとした時。
「――っ」
 刺すような頭痛を感じ、壱哉は額を抑えた。
「お兄さん?」
 樋口の声が遠く感じられた。
 まるで昨日の事のような鮮やかさで、その記憶が『思い出された』―――。
 その日。
 夜になって、壱哉は、珍しく外へ出掛けた。
 机の中にあったはずの予備のノートが見当たらない。
 明日の授業にどうしても必要だったから、やむなく、壱哉は買いに行く事にしたのだ。
 母は、夜遅くの外出に眉を顰めたが、勉強に必要だと言えば何も言わなかった。
 暗い夜道を、商店街に急いでいた時。
「君、ちょっといいかな?」
 いつの間に現れたのか、後ろに背の高い男が立っていた。
 黒いコートに、夜目にも明るい銀髪、色の白い肌。
 見た覚えのない男だが、外国人だろうか。
「君。黒崎壱哉、だろう?」
 自分の名前を呼ばれた事で、壱哉は警戒心を募らせる。
 その気配は相手にも伝わったのか、男は大きく両手を広げ、敵意のない事を示す。
「誰だ、お前は」
 警戒を解かないまま、壱哉は相手を睨み付けた。
「うーん‥‥あぁ、君に関わりがあるもの、と言うところかな」
 あからさまに怪しい事をぬけぬけと言って、男は笑った。
「まぁ、僕が何者かはいずれわかるよ。今日は、君に教えたい事があって来たのさ」
「‥‥‥‥‥」
 警戒心を解かない壱哉にも、男はにやにやとしながら口を開く。
「君のお友達。樋口崇文、だっけ?悪い大人に欺されててね。このままだと、大変な事になるかもしれないよ?」
「樋口が?」
 知った人間の名に、壱哉は思わず聞き返してしまう。
「あぁ。その大人はとんでもない奴でね。今日、町の中で火事とかビルが壊れたりとかいろいろあったろう?全部、そいつがやった事なんだよ。そして今、そいつは学校に行ってる。勿論、お友達も一緒にね」
 あの、お人好しな樋口の顔が浮かぶ。
 人を疑う事を知らなくて、いつも、幸せそうに笑っている。
 何でも信じ込む樋口なら、変な大人に引っかかっても不思議はない。
 しかし。
「どうしてそれを、俺に言うんだ?」
 壱哉は、男を睨み付けた。
 そもそも、樋口が悪い奴について行ったのが本当だったら、どうしてこの男は、それを止めなかったのだ?
 そんな壱哉の内心に気付かないように、男は首を傾げた。
「だって、君の友達なんだろう?」
「‥‥‥ただのクラスメートだ」
「ふぅん?」
 男は、不思議そうにまた、首を傾げる。
 どことなく子どもっぽい仕草に、壱哉は不快感に似たものを覚えた。
 男は、まるでこちらを伺うように見詰めて来る。
 その瞳に、訳もなく悪寒が走った。
「‥‥まぁ、友達じゃない、って言うなら別にいいさ。とにかく、僕は伝えたからな。急いだ方がいいよ?」
 薄い笑みと共に言って、男は背を向けた。
 ふわり、と黒いコートが翻ったかと思うと、次の瞬間、男の姿は消えていた。
 何度瞬きしても、男の後ろ姿はどこにも見えない。
「‥‥‥なんだったんだ、あれは」
 思わず、独り言が口を突く。
 あの会話は夢だったのだろうか。
『君のお友達。樋口崇文、だっけ?悪い大人に欺されててね。このままだと、大変な事になるかもしれないよ?』
 何故だろう。
 胸が息苦しいような、痛いような、そんな不快な感覚。
 言葉に出来ないような不安な気持ちが広がる。
「別に、樋口はそんなに親しい訳じゃない」
 口に出して言ってみる。
 しかし、それでも、胸の中に広がる嫌な不安は消えてはくれなかった。
「くそっ‥‥‥!」
 樋口はただのクラスメートだ。
 自分には関係ない。
 そう、心の中で呟きながら、壱哉は商店街へと急いだ―――。
「‥‥‥くそ、ネピリムの奴‥‥!」
 まだ軽く痛む頭を押さえ、壱哉は舌打ちした。
 今の今までなかったはずの『記憶』。
 その中に現れたのは、羽と角はないものの、間違いなくネピリムだ。
 壱哉が『思い出している』この記憶は、おそらく、今現在、この時代の壱哉が経験している事だ。
 この時代の壱哉にネピリムが接触している理由はただ一つ。
 ネピリムは、この時代の壱哉を学校に呼び寄せようとしているのだ。
 『歪み』に辿り着かないうちに、この時代の壱哉と顔を合わせたら何が起こるのか。
 自分が帰れなくなるのか。
 或いは、この時代の壱哉に何か起こるのか。
 少なくとも、この時代の樋口を悲しませる事はしたくないと思った。
 まだ『思い出していない』けれど、自分の性格を考えれば、今後の行動は見当がつく。
 おそらく、壱哉は学校に来る。
 通り掛かっただけだ、と言い訳しながら、樋口の事が気になって学校に来るだろう。
 過去の自分と顔を合わせる前に、『歪み』に辿り着かなければならなかった。
「すまん。屋上に、一番早く行ける方法を教えてくれ。ここに、黒崎壱哉が来る前に行かなければならないんだ」
「え‥‥黒崎が?」
 樋口は怪訝そうな顔をしたが、それ以上問う事はせずに頷いた。
「じゃあ、ついてきて!」
 樋口は、そう言って走り始めた。
 リードの先のサンダーも、嬉しそうに、しかし吠えたりせずに走り出す。
「‥‥ここ。少しせまいけど、お兄さんなら平気だと思う」
 樋口が示したのは、フェンスが何かの理由でひしゃげて、人が一人通れるくらいの隙間が出来ている場所だった。
 近くに草や低灌木が茂っていて、ちょっと見には外からさえ判らない。
 まして今は夜で、街灯の灯りが届かないから、誰も気付かないだろう。
 月明かりを頼りに、背の高い草をかき分け、壱哉は苦労してフェンスを通り抜ける。
 と、壱哉に続いて、樋口までフェンスを越えて来る。
「お前‥‥!」
 ここで充分だ、と言おうとした時。
「―――っ」
 また、あの頭痛だった。
 今までずっと忘れていたものがはっきりと思い出せたかのように、『記憶』が蘇る―――。
 商店街でノートを買った壱哉は、何となく落ち着かない気持ちだった。
 理由は判っている。
 樋口の事だ。
 あんなうさんくさい人間の言う事など信じられない。
 そう思う傍らで、万が一、あの話が本当だったら、とも思う。
 お人好しな樋口の事だ、欺されていようが、何か危険な場所に連れて行かれようが、逃げ出したりなどしないのではないか。
 忘れようとすればするほど、不安と、根拠のない悪い想像が大きくなる。
 どうせ学校は、少し道を外れればすぐだ。
 変な気配がなければ、そのまま帰ればいい。
 壱哉は、自分にそう言い聞かせ、学校への道を歩き始めた―――。
「くそっ、やっぱりか‥‥!」
 自分の事とは言え、予想通りの行動に、壱哉は苛立ちを覚えた。
 心配そうに見上げてくる樋口に視線を戻す。
「すまん。やっぱり、ちょっと手伝ってもらえるか」
 巻き込んでしまう事に罪悪感を感じつつも、もし、ここにこの時代の黒崎壱哉が現れたら、樋口なら、何とか足止めしてくれるのではないかと思う。
「もちろん!」
 笑顔で、樋口は答えた。
 その傍らで、サンダーも、吠えはせずに胸を張った。


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とりあえず大詰めになってまいりました。タイムパラドックスとか色々ありますが、この際却下です。つーか、そう言う事を気にしてたらタイムスリップネタを軽い気持ちで書けなくなるし(開き直り)。
サンダーがやたら出番があるのは個人的な好みから。だって、賢いですよ、サンダー。ちび樋口よりはもちろん、壱哉様より(笑)