あなたに会いたい

《8》

 気が付けば、壱哉はあの、どことも知れない空間に浮かんでいた。
 何が起こったのか。
 いや、子どもの樋口は無事なのか。
 と、目の前にネピリムが現れる。
「‥‥‥全く、忌々しい」
 憎々しげな口調で、ネピリムは言い捨てた。
「二度も、あんな不愉快な感情に触れる事になるなんて‥‥」
 憎しみと怒りを露わに、ネピリムは壱哉を睨み付けて来る。
「何の話だ」
 ここはあの『歪み』の中なのか。
 しかし、壱哉は触れた覚えはないのにどうして?
「見返りを求めず、自分の命すら捧げる無償の献身。人間は『奇跡』とか呼ぶのかもしれないが」
 苛立たしげなネピリムに、おそらくは、彼の企みが潰えたのであろう事が推測出来た。
 一体、どうしてだったのかは判らないが。
「ふん‥‥貴様の浅知恵など、所詮成功しないと言う事だ」
 壱哉の言葉に、ネピリムは眉を吊り上げた。
「僕に手も足も出なかったくせに‥‥っ!」
 怒りのせいか、無防備になったネピリムの腕を掴んで引き寄せる。
 そのまま、壱哉はネピリムと唇を合わせた。
「んっ、〜〜〜〜!!!」
 もがきかけるのをがっちりと捕まえ、思いっきりエナジーを吹き込んでやる。
 貧血のような目眩を感じるまで唇を合わせていると。
 ぼんっ!!
 と、間の抜けた音がして、ネピリムの姿が縮んだ。
「こっ、こっ、この〜〜〜!」
 二等身のチビキャラになってしまったネピリムは、口元を押さえて涙目になっている。
 壱哉のエナジーは濃すぎて、悪魔には毒だと言われた事があるが、どうやらそれは今も変わらないようだ。
「人間のくせに、悪魔の唇を何度も何度も‥‥‥!」
「あれだけの目に遭わせてくれたんだ。せめてこのくらい礼はしなければな」
 薄く笑う壱哉の顔を見ていると、どちらが悪役か判らない。
 と、その時、空間が振動した。
 元々上下も左右も判らない空間だったが、更に、自分が立っているのか逆さまになっているのかも判らなくなってくる。
 小さい体の分、影響が大きいのか、ネピリムは風に煽られたようにフラフラと落ち着かない動きをしている。
「ここで、オレに変なことをしたら空間が不安定になるだろ!」
「そんな事は俺が知るか。この程度で動じるお前が悪い」
「こっ、この〜〜〜!」
 実の所、壱哉もその危険性は考えないではなかったが、それよりもネピリムに仕返しをする衝動の方が強かったのだ。
 言っている間にも、空間の揺れは酷くなり、壱哉は軽い飛行機酔いのようなものを覚える。
「う゛ぇ゛‥‥‥きもちわるい‥‥‥」
 ネピリムはもっと酷いらしく、悪魔のくせに真っ青になっている。
「お前、このまんまだと、どこに戻るかわかんないぞ!」
 逆さまになって浮かび、ネピリムが言った。
「悪魔のくせに無責任だろう。勝手に人を巻き込んだなら最後まで責任を取れ」
 悪魔に掛けるとは思えない言葉だが、ネピリムはそれに怒る余裕もないようだった。
「そんなこと言われても‥‥‥う゛え゛え゛っ。も、もうダメ‥‥‥」
 ネピリムが目を回した、次の瞬間。
 ガラスが割れるような音を立てて、空間が壊れた。
 放り出されたのは、真っ暗な空間だった。
 浮遊感が全身を包む。
 目の前には、星空が広がっていた。
 これで、高層ビルの屋上辺りに中途半端に戻ったら、落ちて死ぬだろうか、などと言う思いが浮かぶ。
 次の瞬間。
 何かが自分を受け止めて‥‥ぺしゃりと潰れた。
 目を落とすと、壱哉は、樋口の体の上に座ったような状態だった。
 どうやら、樋口が体を張って壱哉を受け止めてくれたらしい。
「ひぐ‥‥崇文。どうして‥‥‥」
「壱哉っ!」
 言い終わる前に、樋口が抱きついてきた。
「よかった‥‥‥無事で、ほんとによかった‥‥‥」
 樋口は、ぼろぼろと泣いていた。
 大人になった、樋口。
 子どもの時からは想像も出来ないくらい広い背中に腕を回す。
 その、確かな感触とぬくもりに、樋口の無事と、元の世界に戻って来た実感がゆっくりと湧いて来る。
 柄にもなく鼻の奥が熱くなって来て、壱哉は、背中に回す腕に力を籠めた。
 どれだけの時間、抱き合っていたろう。
 名残惜しさを感じながらも、どちらからともなく腕を緩め、顔を見合わせる。
 我に返ったように、樋口が困った顔になる。
「壱哉‥‥ごめん、ちょっと、重い」
 気が付けば、壱哉は樋口に受け止められて、腹と言うか足の上に座った状態のままだった。
「すまん‥‥が、お前も、もっと早く言え」
 照れくさいような気持ちも手伝って、壱哉はつい、素直でない言葉を返してしまう。
「うん‥‥壱哉が無事だったのが嬉しくて、忘れてた」
 樋口は、恥ずかしそうに下を向いた。
 素直な反応に壱哉まで恥ずかしいような気がしてきて、照れ隠しに辺りを見回した。
「ここは‥‥‥学校、か?」
 少し古くなって、周りに見えるビルは大きな物が随分増えているけれど、そこは見覚えのある屋上だった。
「うん。頼んで、特別に入れてもらった」
 今も学校の花壇に薔薇などを寄付したり、手入れに来ているから大目に見てもらえたのか。
 いや、それよりも。
「どうしてお前、ここにいたんだ?」
 壱哉がここに落ちてくる事など、偶然が重なった結果ではないのか。
 そこに偶然樋口がいるなど、出来過ぎだ。
「あ、うん‥‥‥」
 樋口は、表情を曇らせた。
「今日の午前中、吉岡さんから、壱哉が行方不明だって連絡が来て。心配してたら、なんか、いきなり昔のこと、思い出したんだ」
 それは、壱哉があちらで『思い出した』のと同じ現象だったのだろう。
「記憶の中に出てきたのが、今の壱哉で。信じられないけど、壱哉、昔に行っちゃったんだと思ったんだ」
 樋口は、とても辛そうな顔をした。
「壱哉がどうなったのか、必死に思い出そうとしたんだけど、ゆっくりしか思い出せなくって。だからきっと、今、壱哉が向こうで大変な目にあってるんだって思った。先がぜんぜんわかんなくて、壱哉が無事に戻って来られるところとか、必死に想像した」
 思い出したのか、樋口は、俯いて強く拳を握りしめた。
 樋口の事だ、きっと、必死になって祈ったのだろう。
「あの、悪魔とか、すごく怖かった。壱哉はあんな奴に酷い目にあってたんだってわかって‥‥‥本当に戻れるのか、って、すごく心配だった」
「‥‥‥そうか」
 子どもの樋口の目を通して見たから、ネピリムがより、怖く感じたのか。
 実際にはそこまで怖い気はしなかったが、そう言っても樋口は信じないだろう。
「壱哉が、学校に行ったところを思い出して。なんか、いても立ってもいられなくて、頼んで、学校に入れてもらった。無事に戻ってくるように、って、それだけ考えてた」
 ふと、樋口の後ろの空に視線を移せば、山の向こうがうっすらと明るくなっていた。
 一晩中、樋口はここで祈り続けていたのか。
 その、樋口の強い想いが壱哉をここに引き戻したのかも知れない。
「お前も‥‥無事で、本当に良かった」
 ネピリムが、樋口の魂を狩ると言った時の事を思い出し、壱哉は身震いした。
 もしあそこで間に合わなかったら、ここに戻って来たとしても、樋口は存在していなかったのだ。
「俺は‥‥‥ほとんど何もしてないから」
 恥ずかしげに、樋口は下を向く。
「だが、怖かっただろう?」
「それは‥‥でも、あの時、壱哉のために何かしなくちゃ、って必死だったみたいだ」
 そんな会話がきっかけになったかのように、壱哉の脳裏に最後の記憶が蘇る―――。
 樋口を追って屋上への扉に辿り着いた壱哉は、得体の知れない不安に苛まれていた。
 扉を開こうとしてみれば、向こうから誰かが引っ張って押さえているのが判った。
 樋口の声は聞こえなかったが、複数の話し声がした。
 犬の吠える声も聞こえたから、多分樋口は、屋上にいる。
 必死になって扉を叩き、樋口の名を呼ぶ。
 何故か、樋口がいなくなってしまうような不安があった。
 と‥‥。
 僅かに開いた扉の隙間から、眩い光が漏れてきた。
 ふっ、と、扉の抵抗がなくなって、重いはずの扉が勢いよく開く。
 同時に、何かがぶつかって来て、壱哉は固まるように床に転がった。
 全身の疼痛に眉を寄せながら顔を上げると、息が触れるくらい近くに樋口の顔があった。
「ごっ、ごめん!!」
 その距離を認識したのは樋口も同時だったらしく、慌てて、壱哉から離れる。
 同じく転がって来たサンダーは、樋口と壱哉の間に座って、困ったように見比べている。
「あ‥‥お兄さん!」
 何かを思い出したのか、樋口が屋上に飛び出した。
 壱哉もそれを追って屋上に出たが、そこには何もなかった。
 無論‥‥あの、得体の知れない光を発したものも。
「一体、何があったんだ?」
 樋口の無事な姿に安堵しつつ、壱哉は言った。
 すると、樋口は何故か、壱哉の顔をまじまじと見詰めた。
 口を開きかけ、しかし、樋口は目を伏せた。
「ごめん‥‥やっぱり、言えない」
「樋口!」
 我知らず、強い口調になっていたらしい。
 樋口がビクリと身を震わせた。
 しかし、樋口の答えは変わらなかった。
「‥‥‥ごめん。心配させて」
 済まなそうにしながらも、何があったのか言う気は全くないようだった。
「‥‥別に、心配して来た訳じゃない」
 ぶっきらぼうに言って、壱哉はそっぽを向いた。
 何も言わない樋口に怒りは感じたが、それよりも、こうして無事でいる事への安堵の方が強かった。
 と、そこへ大きな足音がした。
「そこで、何をしてるんだ!」
 警備員が、懐中電灯を翳して駆け上がって来たのだ。
「あ‥‥‥」
 どうしよう、と、うろたえている樋口の内心が手に取るように判り、壱哉はため息をついた。
 その後、二人はそろって事情を聞かれた。
 夜中に学校に入り込んだ理由は、壱哉が、怪しい人影が学校に忍び込むのを見て追いかけた、と言いくるめた。
 誤魔化しをさせているせいなのか、樋口は済まなそうにしていたが、別に嘘を言っている訳ではない。
 警備員が大人の姿を目撃していたから、その言い訳は通ったようだ。
 もっとも、子どもだけで追いかけた説教は、先生に散々されたが。
 親も呼び出され、壱哉はしばらく、学校からどこにも寄らずに帰る事を強いられた。
 樋口は、翌日、頭に大きなたんこぶを作ってきた。
 それからしばらく、二人は、何となく言葉を選びかねているような、そんな微妙な距離感でいたけれど。
 いつしかそれは、日常の中に埋もれてしまい、その一夜の事は口に出す事もなくなっていた―――。
 思考が現実に戻ってきて、壱哉は樋口に視線を向けた。
 樋口も同様だったらしく、複雑な顔で壱哉を見詰めてきていた。
「あいつの鎌の前に壱哉が飛び込んで来たら、あの『歪み』から凄い光が溢れてきたんだ。あとは‥‥覚えてない」
 一体何が、壱哉をあの時代からここへ戻したのか。
 ネピリムも消えた今となっては判らないけれど、きっと、樋口のおかげだ、と壱哉は思う。
 昔は、小さい体で、それでも必死に壱哉を守ろうとしてくれた。
 そして今も、必死で、壱哉のために祈ってくれた。
 樋口がいなかったら、今の自分は存在しない――色々な意味で。
「崇文‥‥‥」
 壱哉は、樋口を見詰めた。
「な、なに?」
 樋口が戸惑った顔をする。
「ありがとう。それから‥‥すまなかった」
「えっと‥‥なんで、お礼を言われて謝られるんだ?」
 樋口は、本気で首を傾げる。
「お前は、二度も、俺の命を救ってくれた」
 一度は、壱哉が人を捨てようとした時。
 そして、今回。
 どちらも、樋口は自分の命が危険にさらされても、壱哉を救おうとしてくれた。
「なのに俺は、昔のお前を危険に巻き込んでしまった。そして、命を救ってくれたお前に‥‥将来、あんな事をするんだ」
 壱哉がネピリムの誘惑に乗って、樋口を陥れ、その魂にも、心にも酷い仕打ちをする事は、既に決まった事実なのだ。
 大人になった壱哉と知って向けられてきた、あの、純粋な瞳が忘れられない。
「それは‥‥いいよ。もう、終わったことなんだからさ」
「しかし‥‥‥!」
 罪の意識に息が詰まる。
 そんな壱哉に、樋口は笑ってみせる。
「壱哉が十年ぶりにここに来て、あんな事があって‥‥でも、そのおかげで、今、こうしてるんだろ?何かひとつなくなったら、もしかして壱哉とこうなってなかったかもしれないんだ。そしたら‥‥‥今までの事、全部、あった方がいいよ」
 何のわだかまりもなく笑う樋口。
 全てを許し、受け入れてくれる樋口に、壱哉は何をしているのか。
「そんな風に言ってくれるお前に‥‥‥俺は、我が儘を言ってばかりだ。この間だって‥‥‥」
 壱哉の言葉に、あの喧嘩の事を思い出したらしい樋口は、赤くなった。
「ごめん。俺こそ、悪かったよ」
 逆に謝られ、壱哉は言葉もない。
「壱哉だって忙しいんだし。それに、会社とか、社員の人の生活とか、壱哉の方がもっといろんなものを背負ってるんだから、俺こそ、わがままなんか言っちゃいけないんだ」
「崇文‥‥‥」
 どこまでも優しくて、そして、全てを受け入れてくれる。
 そんな樋口が愛しくて、大切で。
 改めて、ここに戻って来られた事、そして失わずに済んだ事に安堵する。
 見詰めれば、樋口も、真面目な、しかし少し照れたような顔でこちらを見詰めてきていた。
 どちらからともなく顔を寄せ、唇を合わせる。
 自分の命に代えても惜しくはないくらい大切な人との口付けは、とても甘く、そして熱かった。

END


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やっと完結しました。いやー、長かった。テキスト量にして、今まで出した同人誌の二冊近くだったですよ。喧嘩と、子どもの樋口の妄想と、壱哉様とちゅうひぐが会う、と言うネタでどうしてここまで長くなるのかと思いました。
ちょっと最後があっさりだったかなぁとは思いますが、ここまで引っ張ると、更にらぶいちゃにする気力がなくなってしまったもので。
ゲームとか、風呂敷広げすぎて畳みきれなくなってるー、とか散々言う(あがけの事じゃないですよ?勿論)奴ですが、自分もそうじゃん、とちょっぴり突っ込みました。