あなたに会いたい
《4》
小さな後ろ姿が角を曲がるまで見送った壱哉は、大きく息を吐き出した。 樋口と一緒に町を回って、ある程度、『歪み』があるであろう場所に見当は付き始めていた。 商店街や公園などには『歪み』はなかった。 考えてみれば、人通りの多い場所にそんなものがあれば、目に付くだろうし、触れる人間も出てくるだろう。 そもそも、あのネピリムの事だ、人目に付かない場所を選んでいるはずだ。 しかし、壱哉が絶対に立ち入る事が出来ないような場所にもないだろう。 壱哉に戻らせない手段としては考えられるが、ネピリムは悪魔のくせに、妙に正直だ。 そこまで徹底した手段は取れないと壱哉は確信していた。 そして、ネピリムは『ゲーム』と言った。 ネピリムは、この時代ではないが、この町を歩く壱哉を見ていたはずだ。 『歪み』が、壱哉が良く足を踏み入れていた場所にある事は充分考えられた。 壱哉が頻繁に足を運んでいた場所のうち、オフィス街、商店街、病院、河川敷に怪しいものはなかった。 公園も、こうして樋口と話をしながら歩いていて、異常は感じられなかった。 次に考えられるのは、将来、ビルが建つ辺りだ。 しかし、そこに行くには樋口花壇に行かなければならない。 さっき樋口と一緒にいた時は、家の近くに行くと父親に見付かるから、と敢えて避けていた。 今は、また樋口と顔を合わせれば、つい、離れがたく話し込んでしまいそうだったから、後回しにした方がいいと思った。 後、思いつくのは‥‥‥。 そこまで考えて、壱哉はふと、家の事を思い出す。 壱哉が戻って来た時には、既に空き家になっていた実家。 けれど今なら、母もまだ生きているはずだ。 母の顔が見たい。 唐突に浮かんだ考えに、壱哉は戸惑った。 一人で葬儀を執り行った時、母との決別は済んだはずだった。 『母』は大好きだったけれど、彼女の中の『女』は、壱哉にとって理解しがたい存在だった。 だから、楽しかった思い出も、西條が訪れる時の嫌悪感も、母に関わる思いの全ては、あの葬儀の時に心の奥底に仕舞い込んだ。 けれども。 こうして、生きている母の姿が見られると思っただけで、胸がざわめくのを感じた。 自分の中にも、まだ、そんな子どもじみた感情があったのか、と壱哉は苦く思った。 しかし、ふと気付けば、壱哉の足は無意識に、家への道を辿っていた。 家の近くに『歪み』がないかどうか確かめるだけだ。 この時代の『黒崎壱哉』に出会う危険もあるが、自分はあの頃、学校が終わればあまり出歩いてはいなかった。 西條が来る日以外は家にいる事が多かったし、そうでなければ図書室で調べ物をしたりしていた。 だから、まずここで出会う可能性は低い。 それに、見かけたら、すぐ立ち去ればいいのだ。 そんな、誰に向けるでもない言い訳を思い浮かべている自分に苦笑する。 学生時代の記憶そのままに、歩いて行くと、覚えのある建物が見えてくる。 当然の事ながら、まだ古ぼけてはいない、記憶の中にあるそのままの姿だった。 小さな、しかし親子二人だけで住むにはかなり大きい家を斜めに見渡せる位置で、壱哉は足を止めた。 案の定、と言うか、見渡す限りでは『歪み』など存在しない。 しかし、すぐに立ち去る気にはなれず、壱哉はぼんやりと家を眺めた。 物心ついてから、母を亡くすまで、ずっとこの家で暮らしてきた。 西條に買い与えられた家は、決して好きにはなれなかったが、それでもここには、母と暮らした思い出があった。 感傷、と言う程のものではないが、複雑な内心に、壱哉は目を細めた。 道端に立っている壱哉の前を、郵便配達のバイクが通り過ぎて行く。 配達員は、黒崎の家の郵便受けに封書を差し込み、曲がり角へと消えて行った。 と。 ポストの音を聞きつけたのか、家の戸が開いた。 思わず、壱哉は息を詰めた。 黒っぽい服を着た美しい女性。 懐かしい母の姿に、壱哉は思わず、立ち竦んだ。 呆然と眺めている視線に気付いたのか、彼女は、壱哉の方に視線を向けた。 美しい眉が、僅かに顰められる。 「どなた‥‥?」 呆然としていた壱哉は、とっさに答えられない。 厳しく壱哉を睨み付けていた瞳が、何故か和らいだ。 「あなた‥‥あの人の、縁者の方かしら?」 紛れもない期待の籠もった言葉に、心のどこかがすうっと冷えて行く。 『あの人』が誰を指すのか、考えたくもなかった。 「違うの?あの人の若い頃にとても似ているから、そうだと思ったのだけれど‥‥」 彼女は、どこか子どもっぽいような仕草で首を傾げた。 いつも、物静かで楚々とした風情の母は、あの男の事になると、急に子どものような無邪気さを見せるのだ。 「知らないな。俺は、ここを通りかかっただけだ」 胸に渦巻く、どす黒い澱のような感情を堪え、壱哉は辛うじてそう言った。 「‥‥そうなの‥‥ごめんなさいね」 彼女は、あからさまに落胆した表情で、肩を落とした。 あの男と関係ない相手には興味がないのか、もう壱哉を見る事もなく、家に戻ってしまう。 「‥‥‥‥‥‥」 壱哉は、唇を噛み、空を振り仰いだ。 青く澄んだ空の色すらも苛立たしい。 ゆっくりと流れる雲にさえ腹が立った。 胸の内にわだかまる憎悪、怒り、ありとあらゆる負の感情が、全身に広がって行くようだ。 こんなにも激しい憎悪を抱くのは、久しぶりだった。 あぁ、そう言えば、樋口と想いを伝え合ってからは、こんな事はなかった。 何故、母の顔を見たいなどと思ってしまったのだろう。 結局、彼女の中で何が一番大きな割合を占めているのか、それを思い知らされただけだった。 しかも、自分が、あの男に似ているだと? この身体にあの男の血が流れている事すら嫌悪の対象であるのに、まして、容姿まで似ているなど。 今すぐにこの顔を、身体を引き裂き、消し去ってしまいたいような、凶暴な衝動がこみ上げる。 「いいねぇ。実に素晴らしい感情だ」 楽しげな声が降ってきて、壱哉は、破滅的な感情の渦から我に返った。 どこからともなく現れた銀髪の悪魔が、ふわりと傍らに降り立つ。 「貴様‥‥!」 眉を吊り上げる壱哉に、ネピリムは、楽しげに笑った。 「言っただろう?お前の中でマイナスの感情が増えれば、僕は実体化できる、と。あぁ、もちろん、『歪み』はかなり大きくなってるよ?よかったじゃないか、見つけやすくなって」 ネピリムは、わざと壱哉の気持ちを逆撫でするような口調で言う。 挑発に乗っては負けだ。 壱哉は、大きく息を吐き出した。 胸の内の激情はまだ収まらないが、大分、冷静さは戻って来ていた。 「見つけやすくなった、か。どうだかな」 壱哉は、唇の端を上げた。 「俺がたどり着きそうになったら、『歪み』の場所を変えるくらい、貴様ならやりかねんだろう」 壱哉の言葉に、ネピリムはむっとした顔になる。 「僕は、そんな事はしない」 「口では何とでも言えるがな。直前で場所を変えて、『ここではなかった』と言えばそれで終わりだ。後は、とてつもなく高い空の真ん中とか、俺が絶対に行き着けない場所にでも設置すればいい」 全く信用していないような壱哉の口調に、ネピリムは怒りのためか、真っ赤になる。 「だから、そんな事はしないと言っているだろう!大体、あの『歪み』は簡単にできるものじゃない。移動どころか、開くのさえ難しかったんだ。本来、お前がいないこの世界をつなぐのに、僕がどれだけ苦労をしたか!」 「指を鳴らす程度で苦労もないだろう」 「そんな簡単な話じゃない!過去のお前が良く行っていた場所を選んで、しかも儀式に何時間もかけたんだ。あの、寒い‥‥」 そこまで言いかけて、ネピリムは我に返ったように口を押さえた。 さすがにそこまで失言はしないか、と壱哉は内心、舌打ちした。 「危ない危ない。あそこの場所を言ってしまうところだった」 首を振って、ネピリムはふわりと空に浮き上がった。 「とにかく、お前のさっきの感情で、僕はかなり動きやすくなった。これから、本気で妨害するから、そのつもりでいるんだね」 それ以上の失言を怖れるかのように、ネピリムは姿を消した。 「ふん‥‥‥」 壱哉は、小さく鼻を鳴らした。 ネピリムをからかって、多少は気が晴れた気がする。 それに、今までの言葉で、かなり場所が絞り込めた。 学生時代の自分の行動範囲など高が知れている。 母がうるさかったから、同級生のように遊び回る事もなかった。 学校と、家と、せいぜい、本屋と図書館。 寒かったと言うなら、おそらく外だ。 しかし、夜とは言え、数時間も儀式を行ったと言うのだから、道路などは除かれるだろう。 本屋は商店街を回った時に見ていたが、店内にも周りにも何もなかった。 家も、見える範囲内では何もない。 そもそも、ここがその場所なら、ネピリムの反応はもっと違うものだったのではないか。 とすると、残るのは図書館と学校だ。 どちらも、屋上にでも上がれば、人目には付かない。 どちらにするか、一瞬迷った壱哉だが、可能性としては学校の方が大きいのではないかと思う。 学校の屋上は、学生時代、何度か足を踏み入れていた。 壱哉の中学は不良はあまりいなくて、屋上で授業をサボる者も見なかった。 一日程度なら、屋上に妙なものがあっても、気付く者はいないのではないか。 既に、太陽は西に傾きかけている。 学校、と言う選択が違っていたら、間に合わないかも知れない。 一瞬、浮かびかけた弱気な考えを、壱哉は頭を振って追い払った。 絶対に、帰ってみせる。 大切な人がいる、あの時代に。 |
|
←BACK |
NEXT→ |
綾子さん、難しいなぁとか思いながら書いてました。私が書くと育ちの良さが出ない(苦笑)。普通、そこらに立ってるにーちゃんに声掛けるか?とか言うツッコミはなしで。
個人的に、壱哉様は若き日の西條貴之に似てるのが希望。いや、ある意味で正当な後継者じゃないか?でもって吉岡もお父さんの若い日に似てるといいなぁ。