Lost…

《5》


 一緒に遊園地に出掛けてから、樋口の様子は少し変わったように新には思えた。
 今までよりは、新を見てくれている気がする。
 樋口の方から話し掛けて来る事も、ほんの少しだが増えたのではないか。
 樋口との距離も、ほんの少し、縮んだのではないか。
 ‥‥‥もっとも、それはほんの僅かな違いで、もしかすると新の勝手な思い込みなのかも知れなかったが。
 でも、樋口が少しでも近くなった気がして、新は嬉しかった。
 相変わらず生活はそう楽な訳ではないし、樋口が自分の身体に頓着しないのも同じだったけれど。
 それでも新は、両親が蒸発して以来、初めて、穏やか、と言っていいような日々を過ごしていた。
 こんな時間が、ずっと続けばいい。
 そんな事は有り得ないと判ってはいても、新は、そう思わずにはいられなかった。


 その日、発注のトラブルで仕事が早く終わったのは偶然だった。
 今日は別なバイトは入っていなかったから、樋口はそのままアパートに戻る。
 と、アパートを伺っている、人相の悪い三人組がいるのに気付いた。
 樋口が気付くのと同時に、三人組もこちらに気付いたようだ。
「おい。ここに、清水新、ってガキが住んでるだろう」
 新の名前が出て来て、樋口は目を見開いた。
「お前、どうやら知り合いらしいな‥‥」
 リーダー格らしい、目つきの悪い男が笑った。
 ―――――――――
 新がアパートに戻ったのは、空が茜色に染まった頃だった。
 窓に明かりが灯っていた事に、新は少し驚く。
 バイトを掛け持ちしている樋口の方が、いつもは遅く帰って来るのだ。
「ただいまー」
「あ、おかえり、新」
 部屋に入ると、樋口が出迎えてくれて、たったそれだけの事なのに、とても嬉しくて、胸が熱くなる。
 両親が蒸発して以来、ずっと一人暮らしだったから、こんな風に誰かが迎えてくれる事などなかった。
 以前は特に気にしていた訳ではなかったけれど、実際、樋口と暮らしてみると、それだけの事でもとても大切なのだと実感出来た。
「崇文さん、早かったんだ?」
 照れ隠しにそう聞いてみる。
「うん‥‥バイト先で、なんか発注の中身が違ってたとかで。今日の工事は取りやめになったんだ」
「そうなんだ‥‥」
 頷きながら荷物を置いて台所を見回した新は、もうご飯が炊きあがっていて、みそ汁も鍋で湯気を立てているのに気付く。
 新が模試の時などは、樋口が気を回して食事の支度をしてくれたりした事もある。
 普段は新の方が帰りが早いので、必然的に新が食事を作る事になっていた。
「崇文さん、夕飯、作っててくれたんだ?」
「あ‥‥うん」
 照れているのか、樋口は少し赤くなって下を向いた。
「新が作ってくれた方が何十倍も美味いけど。いつも、世話になってるから」
 ぼそぼそと言い訳のように呟く樋口は、とても新より年上とは思えなかった。
「そんなことないって!崇文さんが作るメシ、俺、好きだぜ?」
 きっと樋口は判っていないと思う。
 自分の為に作られた食事は、どんな御馳走よりも美味しいのだと言う事を。
 いつもより美味しく感じられる夕飯を終え、布団を敷いていた新は、部屋の片隅に見覚えのあるものが置かれているのに気付く。
 手に取ってみると、それは、あの街から出る時、樋口の家の押し入れにぽつんと残されていた大学ノートとアルバムだった。
 あの時以来、忘れていたのだが、それがどうして今頃出て来たのだろう。
 と、その時樋口が部屋に入って来た。
「あ‥‥それ、今日整理してる時に見つけたんだ」
 樋口は、苦笑した。
「あの家と一緒に潰されちゃったと思ってた。新が、持ち出してくれてたんだな」
 樋口の表情は笑顔なのに、何故か、とても切なく感じた。
「‥‥押し入れの中。戸が少し開いてたから、見えたんだ。他に何もなくなってたのに、これだけ残ってたから、大事な物なんじゃないかと思ってさ‥‥‥」
「うん。ありがとう」
 樋口は、新の手からノートとアルバムを受け取った。
 少し古ぼけたノートをめくると、その中には横文字や、数式に似たメモがびっしりと書き込まれている。
「これ‥‥薔薇の交配してた時のメモなんだ。大体は頭に入ってるけど、親父が一人で交配してた時の事まではわからないからさ。詰まった時とか、良く見てた。だから‥‥自分の手では捨てられなくて」
 樋口は淡く笑って、今度はアルバムを開く。
「あの時は、もう見ることなんかないから、捨てようって思ったけど。‥‥こうしてみると、やっぱり、なくならなくて良かった気がする」
 独り言のように呟いて、樋口はアルバムをゆっくりとめくり始めた。
 昔を思い出すのは辛いのだろうか。
 写真に目を落とす樋口の表情は、懐かしげで‥‥しかし、とても悲しそうに見えた。
 そんな樋口を見ているのが辛くて、目を逸らした新は、アルバムの中の可愛い男の子に気付く。
 まるで女の子のような可愛い顔立ちをしたその子どもは、ふわふわの茶色い髪と大きな瞳が、どこか人懐こい子犬を連想させる。
「まさか‥‥これ、崇文さん?」
 意外そうな新の言葉に、樋口は苦笑した。
「うん。これ、俺」
「へえぇぇ。崇文さん、こんなにかわいかったんだ?」
 良く見れば、顔立ちに少し今と同じ面影がある気もする。
「俺、中学の時まではチビだったんだよな。クラスで女子より背が小さくて。頭も悪かったし、スポーツもだめだったし。高校になって、背はものすごく伸びたんだけど」
 確かに、今の樋口を見たら、この小柄な子どもを想像するのは難しいだろう。
 ページを繰るうち、その間から一枚の写真が落ちた。
 拾い上げてみると、それには樋口ではない少年が写っていた。
 バスの中らしい場所で、学生服の少年がうたた寝をしている所だった。
「‥‥‥‥‥‥」
 やや幼い顔立ちではあるが、それが誰なのかは一目で判った。
 その名を思い浮かべたくもない相手に、新は写真を黙って返すので精一杯だった。
 そんな新の内心に気付いていないのか、樋口は、返された写真を懐かしそうに眺める。
「これ‥‥修学旅行の時の写真なんだ。黒崎、バスの中で寝ちゃって‥‥あいつ、いつも隙がなかったから、男子連中がおもしろがって撮ったんだよな。そしたら、他のクラスの女子までこの写真をほしがってさ‥‥‥」
 樋口は、どうしてあんな奴の事を、そんなに懐かしそうに話す事が出来るのだろう。
 樋口が、何もかも失ったのは全部あいつのせいのはずなのに。
 そう言おうとした新は、樋口の、真っ直ぐな視線に言葉を呑んだ。
 樋口の瞳には、今まで見た事もないような、真剣な、強い光が宿っていた。
「新が、黒崎のことが嫌いなのはわかってる。裏切られて、ひどい目にあったんだってこともわかってる。けど‥‥‥」
 樋口の視線は、痛いほど真剣だった。
「黒崎は、本当は優しい奴なんだ。不器用だから、自分の気持ちをうまく表せないだけで‥‥‥」
 どこか哀願するような樋口の言葉を、しかし新はまともに聞く事は出来なかった。
 樋口がどう言おうと、あんな、人を平然と裏切るような人間を、許す事など出来ない。
 結局何もかも奪われたのに、まだそんな事を言っている樋口にも、こんなに思われているのに救いの手ひとつ差し伸べなかった壱哉にも腹が立った。
「そんなの‥‥昔の話だろ!大体、崇文さんだってあいつの会社のために住む場所もなくしたんじゃないか!」
 とうとう我慢出来なくなって、新は言い返していた。
 この言葉が、樋口を傷付ける事は判っていたが、止まらなかった。
「ずっと育ててきたバラだって、あいつのせいでなくしたんだろう?あの人くらい金持ちなら、なんだってできたはずじゃないか。それなのに、何もしてくれなかったんだろう?!」
 新の言葉に、樋口の表情が辛そうに曇る。
 しかし樋口は、思い切るように口を開いた。
「それでも‥‥俺には、黒崎が本当に変わってしまったとは思えない。きっと黒崎は‥‥新が困った時には、助けてくれる。それだけは‥‥知っててもらいたいんだ」
「――っ」
 尚も重ねられる言葉に、新は絶句する。
 樋口だって、壱哉に裏切られているはずなのに。
 生きる気力をなくしてしまうくらい、深い心の傷を負わされたのに。
 一途、とも言える程、迷いもなく壱哉を信じ続けている樋口を、もう見ていたくなかった。
「‥‥‥もう、そんな話、聞きたくない!」
 新は、そのまま、布団にくるまって樋口に背を向ける。
「ごめん、新‥‥だけど‥‥‥」
「うるさいってば!そんな事言う崇文さんは、だいっきらいだ!」
 そう怒鳴って、布団を頭から被る。
 しばらくして、樋口がそっと、立ち上がる気配がした。
「ごめん‥‥‥」
 樋口の言葉が小さく聞こえた。
 戸締まりを確かめて、樋口も布団に入ったようだった。
 しかし遠慮しているのか、部屋の隅の方で小さく布団の音がする。
「‥‥‥‥‥‥」
 大嫌い、などと言うつもりはなかった。
 しかし、樋口があまりにも壱哉を真っ直ぐ信じているのが苦しくて、見ていられなかった。
 それ程までに、樋口の中で壱哉の占めていた場所は大きかったのか。
 それが、切なくて、悔しくて、腹が立って。
 樋口に当たる事など間違っていると判っていても、止まらなかったのだ。
 壱哉の事を思い出すだけでも、胸の辺りが重苦しくなる。
 あの、裏切られた時の事を思い出すと怒りで身体が熱くなる。
 あんな奴は最低だ。
 樋口が何と言おうと、これだけは譲れない。
 けれど、言い過ぎてしまった事も事実だった。
 本当は、今すぐ、謝るべきなのだろうけれど。
 今顔を合わせたら、また感情的になって樋口を傷付けてしまいそうな気がした。
 だから、明日、一番に謝ろう。
 そう思いながら、新は布団の中で目を閉じた。
 ―――――――――
 翌朝、新が目を覚ました時、樋口は既に出掛けていた。
 そんなに早いバイトはなかったはずなのだが、樋口は、時給のいい短期のバイトなどを急に入れてしまう事もあった。
 何も聞いていなかったが、昨日、喧嘩したまま寝てしまったから、言い損ねたのかも知れない。
 それにしても、樋口が出て行く気配に気付かなかったのは、ここしばらく、夜遅くまで模試の勉強をしていたからだろうか。
 まだ朝も早い時間に出て行ったのなら、朝食も食べずに出掛けたのだろう。
 もし、次のバイトに行く前にここに寄る事があったら食べられるように、新はちゃぶ台の上に樋口の分の朝食も用意しておく。
 一番に謝ろうと思っていたのに、何となく気が削がれてしまった。
 夜、帰って来たら何をするよりもまず、謝ろう。
 そう心に決めて、新もバイトへと出掛けた。
 ―――――――――
 夕方。
 帰って来た新は、部屋に踏み込んだ時、何となく違和感を感じた。
 何とも言えない、嫌な気持ちが胸の中に広がる。
 ふと見れば、朝、用意して行った樋口の分の朝食は、茶碗もきちんと片付けられていた。
 その代わりに、何か封筒と折り畳んだメモがある。
 慌てて開いて見てみると、それは樋口の書き置きだった。
『新へ。
昨日、新のご両親の分の取り立てだ、って言う借金取りが来ました。返せないと新を連れて行くと言うので、一日、待ってもらってお金を調達してきました。こんなことしたら新は怒ると思うけど、でも、新にはもういやな思いをしてほしくないから。
借金を返して、少しお金が残ったので、使ってください。部屋のカギは、郵便受けに入れます。
今まで、一緒にいてくれてありがとう。
新に会うと、止められると思うので、このまま行きます。ごめんなさい。
あ、ごはん、すごくおいしかったです。
樋口崇文』
 添えられていた封筒には、二つに破かれた借用書と、小切手が入っていた。
 小切手に記入されていた額は、少しどころか、新のしばらくの学費を賄えそうな金額だった。
 借用書と、小切手の金額を合計すると、かなりの額になった。
 こんな額を一度に貸してくれるなど、普通は有り得ないだろう。
 だとしたら。
「‥‥なんだよ‥‥それ‥‥‥」
 両親の借金、と言うからには、新が壱哉の裏切りを知る事にもなった、あの連中だろう。
 新を追って、この街まで来たに違いない。
 あの時、あの下衆な連中に言われた事を思い出す。
 借金を返せなければ身体で払え、と無理矢理犯されそうになったのだ。
 それに、中には、内臓を売らせる悪徳業者もいるらしい。
 この金は‥‥もしかして、そう言う事なのか。
「崇文さん‥‥結局、なんにもわかってないんじゃねえか‥‥!」
 こんな事をしても新が喜ばないと言う事は、多分樋口も判っているだろう。
 しかし樋口はきっと、どうして新が怒るのか判っていない。
 新は、樋口の書き置きをもう一度読み返した。
 すこし癖のある文字。
 きっと樋口は、いつもと同じ様子でこれを書いていたに違いない。
 そんな姿を想像するだけで胸が痛い。
「こんなの‥‥納得いかねえよ‥‥‥」
 これっきり、樋口とはもう二度と会えないのか。
『崇文さんなんか、だいっきらいだ!』
 昨夜、樋口に投げた言葉。
 あの直後にさえ後悔していたのに、あれが最後になってしまうなんて。
 絶対、そんな事にはさせない。
 新は、書き置きを強く握り締めた。



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