Lost…
《4》
新が樋口と共にここに流れて来てから、もう半年近くが過ぎていた。 数日置きに肌を合わせるようになってからも、樋口の普段の態度は変わらなかった。 屈託ない表情を見せていながら、樋口は決してこちらに踏み込んでは来ない。 それは、新自身が壁を作っているせいなのかどうか判らなかった。 そんな、ある日。 新は、バイト先の店の常連客から、近くにある小さな遊園地のチケットを二枚もらって来た。 なんでも、かなりの枚数を仕事先でもらったのはいいが、自分は人混みが嫌いなので行く気になれず、また、期限が短かったから引き取り手があまりなかったらしい。 『使わないなら、捨ててもらってもいいから』 そうは言われたものの、人がわざわざくれたものをそのまま捨てるのは良心が痛んだ。 そうすると、行き着くのは樋口を誘う事、だった。 「なあ樋口さん。今度の日曜、遊びに行かないか?」 夕食の後、新は樋口にそう言ってみた。 「えっと‥‥‥」 戸惑ったような樋口に、新はチケットを振って見せた。 「これ、もらったんだ。捨ててもいい、って言われたんだけど、それもなんか悪いしさ」 新の言葉に、樋口はちょっと笑った。 「いいよ。別に予定がある訳じゃないから」 樋口の答えに、なんとなく嬉しくなった自分が、新は不思議だった。 日曜日。 澄み切った青い空に、眩しい太陽が輝いている。 絶好のデート日和だ、などと妙な考えが浮かぶ。 遊園地に来るなど、小学生の頃以来だった。 あの頃は、まだ父の会社も順調で、忙しい父が久しぶりに家族で遊びに行ってくれたのが嬉しかった。 昔を思い出して、少しだけ胸が痛んだけれど、樋口の嬉しそうな笑顔を見たら、そんな気持ちは吹き飛んでしまった。 そこそこの大きさの遊園地は、親子連れやカップルなどで賑わっていた。 男二人と言うのは確かに珍しかったが、人混みに紛れてそうは目立たなかった。 ジェットコースターなどに乗って、樋口が微妙に引きつった顔をするのに笑ったり、お化け屋敷ではかえって新の方が大騒ぎをしてしまったり‥‥。 こんな風に、休日誰かと一緒に出掛けるなんて、本当に久しぶりだった。 いや、独りぼっちになってから初めてかも知れない。 騒ぎすぎたせいか、疲れてしまって、二人は中央広場のベンチに腰を落ち着けた。 「‥‥はい、新」 樋口が、近くの屋台で買ってきたアイスクリームを差し出した。 「ありがとう‥‥」 大きな三段重ねのアイスクリームを買ってくるあたりが、とても樋口らしいと思う。 そして樋口は、新の隣りに腰を下ろして、嬉しそうにアイスクリームを嘗め始める。 その口元がとてもなまめかしく見えて、新はドキリとした。 思わず、鼓動が早くなってしまったのが自覚出来た。 「?‥‥新、早く食べないと、溶けちゃうぞ」 視線に気が付いたのか、樋口は不思議そうに新を見た。 「あ!あ、そうだよな」 慌てて新は、自分のアイスクリームを嘗め始める。 そうしながらも、何となく樋口が気になって、新はそっと横目で盗み見る。 とても嬉しそうにアイスクリームにかぶりついている樋口は、むしろ子どもっぽく見えて。 ずっと、ずっとこんな風に、二人で過ごしていたい。 そんな気持ちが浮かぶ。 ―――あぁ、そうか‥‥‥。 自分は、樋口が好きなのだ。 唐突に、そう納得する。 樋口が怪我をして帰って来た時、あんなに腹が立ったのも。 他人なんか信じられないと思いながら、樋口との同居を続けていたのも。 そして――樋口をつなぎ止める為に、あんな手段を使ったのも。 あの街を、一緒に出ようと誘ったあの時、多分、もう樋口を好きになりかけていたのだ。 お人好しで、疑うことを知らなくて、他人ばかりか自分の気持ちにまでとんでもなく鈍くて。 年上で、身体も新よりずっと大きいけれど、放っておけない気がする。 優しくて、とても強そうに見えるけれど、本当はとても傷付きやすいこの人を、ずっと見守っていたい。 もう、一人ではないのだと、ずっと自分が側にいるのだと、そう知らせてあげたい。 そう――初めて新は、自分の気持ちを自覚したのだ。 丸一日遊んで、軽い疲労をむしろ心地よく感じながら、二人は家に帰った。 新より、更に無邪気に喜んでいた樋口は、修学旅行の時以外に遊園地など来た事はなかったと言う。 本当に喜んでいた樋口を見て、誘って良かった、と新は思う。 そして、新は‥‥‥ある、小さな決意をした。 せっかく出て来たのだから、と、少しだけ奮発して外食すると、アパートに戻ったのはかなり遅い時間だった。 簡単に明日の朝食の用意をしながら、新はそっと樋口を横目で盗み見る。 樋口は、やる事もないようでぼんやりとしている。 新は、大きく息を吸い込んだ。 「崇文さん、風呂、沸かしてくんない?」 新の言葉に、樋口は我に返ったようにこちらを振り向いた。 「‥‥あぁ、わかった」 いつもと変わりない様子で樋口は立ち上がる。 何も気が付いていないらしい樋口に、新は拍子抜けした。 こっちは一大決心をして名前で呼んでみたと言うのに。 名前で呼べば、ほんのちょっとでも距離を詰められるような気がしたのだけれど。 樋口は、元々そんな距離を感じていなかったのだろうか。 或いは、新との距離などどうでもいいと思っているのだろうか。 樋口の様子はどちらにも解釈出来てしまって、新は思わず、ため息をついてしまった。 と、そこに樋口が戻ってくる。 「新、疲れたのか?手伝おうか?」 ため息を聞きとがめたのか、樋口は心配そうな顔をする。 「別に、疲れたわけじゃねえよ」 慌てて、新は首を振る。 「ならいいけど‥‥‥」 首を傾げた樋口は、何故か、新の方へ寄って来る。 「なに?崇文さん」 ちょっとどきどきしてしまった新は、ついぶっきらぼうな口調になってしまう。 「俺、今日すっごく楽しかった!ありがとな、新!」 樋口の満面の笑顔が、とても眩しく感じられて、新は目を細めた。 「‥‥別に、俺がなんかしたわけじゃねーよ。たまたま、チケットもらっただけなんだし」 「うん、でも、誘ってくれたのは新だから。ほんとに、楽しかった」 樋口は、とても嬉しそうで。 思わず、新の心臓が跳ね上がる。 とりあえず、ガスは元栓まで閉めてある。 ほとんど下ごしらえも終わって、包丁は今しまったばかりだ。 新は、樋口の襟元を掴み、伸び上がるようにしてその唇にキスをした。 驚いたように固まる樋口の顎から喉元へ唇を這わせる。 「っ、新、なに、いきなり‥‥!」 「だって、崇文さんが誘惑するから、したくなったんだぜ」 「ゆ、誘惑?!」 目を白黒させる樋口がちょっと可愛く見えてしまって、新の鼓動はまた早くなる。 「で、でも、こんなところで‥‥」 「じゃあ、向こうに行く?」 「‥‥‥うん」 耳まで真っ赤にして、樋口は小さく頷いた。 茶の間のちゃぶ台をどかせ、新は樋口を組み敷いた。 耳元に口付けると、樋口の吐息に甘さが混じる。 いつものように、樋口は新のする事に何も抵抗しない。 しかし、見上げて来る視線が、今日はちゃんと新を見てくれているような気がする。 ただの、新の一方的な思い込みかも知れないが。 「崇文さん‥‥‥」 呼ぶと、樋口は少しだけ笑った。 それがとても嬉しくて、新は我を忘れて樋口にのめり込んだ。 ―――――― 沸き過ぎてしまった風呂に大騒ぎしながら汗を流すと、思ったより疲れていたのか、新はもう起きていられなかった。 同じ布団に入り、何となく樋口に擦り寄るようにする。 体温を感じる肌と、樋口の匂いが心地良い。 「‥‥‥なあ、新」 「‥‥なに‥‥?」 樋口の声に、反射的に答えたものの、新はもう眠りに落ちる寸前だった。 「なんで、新は‥‥を、‥‥‥‥だ?」 樋口は何を言いたいのだろう。 しかし、聞き返そうと言う思考は闇の中に沈み、新は深い眠りに落ちて行った。 |
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