Lost…

《3》


「んっ‥‥ぅ‥‥‥」
 窓の外から射し込んで来る、街灯の薄明かりが淡く照らし出す部屋の中に、甘い喘ぎが響く。
 自分の下にある、体格の良い身体。
 目立つ程大柄ではないが、滑らかな肌の下にしっかりとした筋肉があるのが感じられる。
 きっと、こんな事でもなければ、小柄な自分が押し倒す事など出来ないだろう。
 うっすらと汗の浮かんだ額に、色素の薄い茶色の前髪が張り付いている。
 ほの赤く上気した顔は、とても綺麗に見えた。
「ひぐち‥さん‥‥」
 新は、掠れた声で呼んだ。
 やや茶色がかった瞳が向けられる。
 どこか、無垢な動物を思い出させるような、不思議な色をした眼だと、いつも思う。
 ふっ、と、その瞳に笑みのようなものが浮かんだ気がした。
 その色に惹かれるように、口付ける。
 体内を犯すものの角度が変わった為か、樋口は眉を寄せて微かに呻いた。
 その反応が酷く扇情的に思えて、新の背筋を熱いものが這い上がる。
 熱い衝動に促されるまま、新は再び樋口の体内を突き上げ始めた。
―――どうして、こんな事になったんだろう。
 熱を帯びる頭の片隅で、他人事のように眺めている自分がいる。
 男を『抱く』と言う行為は、これが初めてではなかった。
 壱哉に騙され、薬を使われた挙げ句に、とてつもなく恥ずかしい思いをさせられた。
 隙を見て何とか逃れたまでは良かったが、仕返しの名の元に、自分は壱哉に対して同じような事をした。
 そればかりか、薬が生む欲望に煽られて、壱哉を――男を犯したのだ。
 今思えば、あれも壱哉の手の内で遊ばれていたのだと気付く。
 思い出すだけで、自己嫌悪のあまり闇雲に叫び出したくなるような行為だったはずなのに。
 今は、薬もなにもないのに、自分の欲望で樋口を犯しているのだ。
 そう――そもそものきっかけは、樋口がまた、怪我をして来た事だった。
 この前、左腕にはひびが入っていたのに、樋口は数日経つとまたバイトに出て行った。
 そして、一月も経たないうち、今度はもっと酷い怪我をして帰って来たのだ。
 酷い暴行を受けた樋口は自力では帰れず、同じ現場にいたと言う青年が肩を貸すようにして連れて来た。
 その青年の話では、現場は暴力団系の建設会社で、バイトに対する酷い扱いに抗議した少年がいて、袋叩きに遭っていた所を樋口が助け、代わりに暴行を受ける羽目になったと言う。
 しかも、少年を庇ったものの、樋口は暴力を振るってくる相手に全く抵抗しなかったらしい。
 骨折だの酷い怪我にならなかったのは、肉体労働などでしっかりとした体をしていたおかげだろう。
 それでも、腫れた顔が元に戻り、動くのにも痛みを感じなくなるのに一週間以上かかった。
『俺がいない方が、新はもっと楽になるんじゃないかな?』
 下手をすれば死んでいた、と詰問した新への答えがこれだった。
 その答えに唖然とした新が、次に感じたのは怒りだった。
 しかし、怒りのあまり言葉もない新を、樋口は不思議そうに見ていた。
 自分に、何の執着も持たない樋口。
 生きる意味さえも、樋口は感じていない。
 そう、まるで樋口は、少しでも早く死ぬ為に、今を生きているようだ。
 そんな樋口を見ている、新の方が辛かった。
 二度と人には関わるまい、そう心に決めたはずだけれど、だからと言ってこんな樋口を放って置く事は出来なかった。
 どうすれば、樋口は生きる目的を持つのだろう。
 新は、樋口が回復するまでの間、ずっとそれを考え続けていた。
 そして‥‥‥。
「‥‥んっ‥‥‥あら‥た‥‥‥」
 樋口が、どこか甘い吐息を漏らす。
 初めて樋口を抱いたのは、二度目に怪我をしてきてからしばらく経った頃だったと思う。
 傷も回復した樋口は、夜寝る前、済まなそうな顔で口を開いた。
 このままだと、新に迷惑がかかるから、ここを出る。
 俯いてそう言う樋口に、新は言葉を失った。
 そして、胸の中に、徐々に怒りと苛立ちが広がって行く。
 きっと樋口は、ここを出たら食べる事も忘れ、何の当てもなくただ死んで行くのだろう。
 それを想像しただけで胸が痛い。
 そして、何も出来ない自分にも、やりきれない怒りを覚える。
 何とかして、樋口をつなぎ止めなければ。
 そして‥‥‥。
 新は、気付けば樋口を畳に押し倒していた。
 その時の自分は、怒った顔をしていたらしい。
『ごめん‥‥』
 自分が悪い訳でもないのに、済まなそうに詫びてくる樋口に、胸苦しさと苛立ちを覚えた。
 しかし、身の内に湧き上がった衝動は止まらなかった。
 そのまま、赤い唇に口付けた。
 驚く程柔らかい唇に、我を忘れた。
 どうしてそんな事をしようと思ったのか、後から考えてもはっきりとは判らなかった。
 しかし多分、自分の存在を樋口の中に刻み込もうと思った気がする。
 そうすれば‥‥樋口が一人で消えてしまったりはしないような気がした。
 ろくに経験のない新は、すぐに余裕がなくなってしまい、初めての行為の事も細かくは覚えていない。
 しかし樋口は、全く抵抗しようとせず、黙って新のするに任せていた。
 男に犯されると言う行為をどう考えていたのか判らないが、やや痛そうな顔をしただけだった。
 行為が終わった後も、何も聞かず、何も言わず、いつもと同じように新に接した。
 もしかすると樋口の中では、新に抱かれた事など、どうでも良くなっているのかも知れない。
 そんな事を考えて、泣きたいような気持ちになったのを覚えている。
 だからそれから、新は数日置きに樋口を求めた。
 たとえそれが、樋口の中で殆ど大きさを占めていなくても。
 こうして抱いている限り、樋口はここにいてくれるように思えた。
「あらた‥‥?」
 思いに耽って手が止まっていたのか、樋口が怪訝そうに見上げて来た。
「‥‥‥なんでもねぇよ!」
 乱暴に言って、樋口の乳首を口に含んだ。
「ふっ、ぁ‥‥!」
 途端、樋口が押し殺した声を上げる。
 樋口は、ここを責められると弱い。
 それ以外にも、樋口はどちらかと言えば敏感な方で、新が丁寧に愛撫するとすぐに昂ぶって来るのだ。
 その素直さが‥‥酷く不安を煽る。
 樋口は、新が求めれば、嫌な顔すらせず、素直に体を開く。
 年下の自分を呆れながら甘やかしている、それならばまだいい。
 本当は、何もかも、どうでもいいと思っているからなのか、新は確かめられずにいた。
 いや、樋口の口から『そうだ』と言われるのが怖かった。
「樋口さん‥‥」
 呼ぶと、不思議な色をした瞳が向けられる。
 どこか透明な色をしたその瞳は、新ではなくもっと別の何かを見ているようにも思えた。
 熱を帯びる体とは裏腹に、胸の内は冷やされて行く。
 樋口は、待ち望んでいる『死』だけを見詰めているのだろうか。
 目の前にいる、自分を抱いている相手の事など、見えていないのだろうか‥‥。
 泣きたくなりそうな思いを振り払うように、新は樋口との行為にのめり込んだ。



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