Lost…

《2》


 身元をごまかして生活して行くのに都合のいい都会。
 その片隅で、新と樋口はひっそりと暮らしていた。
 怪しまれないように、回りには腹違いの兄弟、と言ってある。
 こんな風になる前は顔しか知らなかった二人が同じ部屋で暮らす、奇妙な同居生活だった。
 ここに落ち着いてから、樋口はすぐに働くようになった。
 体力のある樋口は、道路工事など、体を使う仕事を好んで引き受ける。
 真面目な樋口はバイト先でも重宝されているらしく、毎回、かなりの額を持って来た。
 しかも、以前の新のように、いくつものバイトを掛け持ちして、早朝から夜遅くまで働き続けている。
 休日だって、早朝の新聞配達だけは行っているのだ。
 お陰で、新は以前より働かなくてもかえって生活が楽なくらいだった。
『新は、家のことと勉強だけしてればいいんだから』
 樋口は、良くそう言うようになっていた。
 そんな風に、休みなしに働くのは、何かを‥‥あの街で失ってしまったものを忘れようとする為なのだろうか。
 樋口の体を心配しつつも、そう思うと止める事が出来なくなってしまう。
 疲れ切って、何も考えず、何の夢も見ないで眠りたい。
 そう思った事は、新にも何度もあるのだから。
 こうして、同居するようになってからも、樋口はあまり新の事には触れようとしなかった。
 あの街を出た時より、大分明るさを取り戻したように見えるものの、新に気を遣っているのかそれ程喋りかけては来ない。
 勿論、新から話しかければちゃんと会話は弾むのだが、それでも他愛のない話しかしなかった。
 そんな樋口の様子を知りながら、だからと言って新は、以前のように屈託なく他人と接する気にはなれなかった。
 そう‥‥自分はあの時以来、本当に変わってしまったのだと強く思う。
 だが、それでいて、赤の他人であるはずの樋口と生活を共にしている自分が良く判らない。
 もう何も信じるまい、そう心に決めたはずなのに、こうして、他人と共に過ごす時間が、心安らぐのは何故だろう。
 信じても、気を許しても最後には裏切られるのだ、そう痛感したはずなのに、樋口の事は気になってしまう。
 あんな風に、『死』を匂わせられたせいなのだろうか。
 自分のお人好しさ加減に呆れながらも、新は、樋口を見ている時間が増えている事を自覚していた。
 そんな生活を送るうち、瞬く間に数カ月が経った。
 ここに来た直後より、樋口は良く喋るようになっていた。
 時折見せてくれる笑顔も、以前のように無理が読み取れるものではなくなっていた。
 忙しく働く事が、心の傷を忘れさせてくれたのだろうか。
 樋口は、『死』すら覚悟した『痛み』を乗り越える事が出来たのだろうか。
 新は、そんな樋口が羨ましく、僅かに妬ましく思えた。
 自分は‥‥‥何も、変わる事は出来ない。
 未だに壱哉を許す事は出来ないし、こうして樋口と暮らしていても、他人なんか信用出来ないと言う思いが常に心の奥にある。
 他人と身近に過ごしている現状と、心の奥にわだかまる暗い思いと‥‥矛盾を感じながらも、新は樋口との距離を計りかねていた。
 だが――樋口もまた、何も変わってはいなかったのだと、新は思い知らされる事になるのだった。


 樋口にばかり頼るのは嫌だったから、新も近くの店にバイトに出ていた。
 夕方には終わるバイトだったから、アパートに帰って来ると、樋口が帰って来るまでに家事や夕食の支度をするのが日課だった。
 そういえば今日は、樋口は新しいバイトに行っているはずだ。
 結構好条件だった今までの現場がなくなって、別の工事現場に行く事になったのだ。
 そんな事を考えていると、あまり分厚くないドアにノックがある。
「ただいまー」
 どこか呑気にも聞こえる声は、聞き慣れたものだった。
「おかえり、樋口さ‥‥」
 内鍵を外してドアを開けた新は、ぎょっとした。
 何があったのか、樋口の作業着は泥だらけだった。
「いったい、なに‥‥」
 どうしてこんなになったのだろう、と、良く見てみた新は、泥汚れに混じって鉤裂きや赤黒い染みがあるのに気付いた。
「何だよこれ?!何があったんだよ!」
 新の厳しい言葉に、樋口は首を竦めた。
「ごめん‥‥汚しちゃって‥‥‥」
「そう言う話じゃないだろ!」
 思わず腕を掴むと、樋口は僅かに顔をしかめた。
 嫌な予感がして、新は樋口を風呂場に連れて行く。
「脱いで、樋口さん」
「‥‥‥えぇと‥‥‥」
 新の言葉に、樋口は居心地が悪いようにもじもじしている。
「脱いで。ここなら、泥で汚れても大丈夫だから」
 そこまで言われ、樋口は渋々、作業着を脱ぎ始めた。
 固まった泥がパラパラと作業着から落ちる。
 やはり泥に汚れた、筋肉質の身体が露わになる。
 だが、樋口の身体を見た新は、眉を寄せた。
 あちこちに擦り傷や切り傷がある。
 中には、血が固まっているような傷も見えた。
 そして、左の二の腕は酷く腫れ上がっていた。
「なにがあったんだよ、これ?!」
 新の言葉に、樋口はまた、首を竦めた。
「なにって、別に‥‥‥」
「別に、じゃねえだろ!」
 思わず手を掴むと、樋口は痛そうに顔をしかめた。
 まさか、折れたりしているのではないか。
 心配になって、新はそっと腫れている辺りに触れてみる。
 覚悟していたのか、今度は樋口は反応を見せなかった。
 しかし、樋口の体が熱を持っているのが判る。
「別に、たいしたことないんだ。ちょっと、今日の現場で資材が崩れた所にいたもんだから‥‥‥」
 それは立派に『大した事』だと思う。
「今日の現場、あんまりいい所じゃなかったんだな?」
 工事現場などは、その会社の方針によって大きく条件が変わる。
 あまり高い時給でなくても、その分安全対策に金を掛けている会社。
 逆に、時給が良くても安全管理や現場の監督などいいかげんで、作業員の事故が多かったり、悪くするとバイトに死傷者さえ出ているような会社。
 新もバイトは長かったから、その辺りの事は良く知っていた。
「こんなケガしたのに、休ませてもらえなかったのか?」
 しかし、樋口は首を振った。
「別に‥‥ちょっと痛いくらいだったから、そのまま働いた。動くのには困んなかったし‥‥‥」
 俯いたままの樋口を、新は唖然として眺めた。
 どんな事故に巻き込まれたのかは判らないが、傷だらけで、腕もこんなに腫らしていて、『ちょっと痛い』程度で済む訳がない。
 落ち着かないように目を伏せて身じろいでいる樋口を見て、新は理解した。
 樋口は、もう、自分への執着をなくしてしまっているのだ。
 死のうとさえ思い詰めた痛みを、樋口は忘れてしまったのではなかった。
 あの街を出た時に、樋口はもう何もかも、どうでもよくなってしまったのだ。
 自分の体を労る気などないし、きっと、今回のように事故に巻き込まれてしまって、酷い怪我を負ってしまったとしても何の感情も抱かないに違いない。
 新とこうして一緒にいるから、普通通りの生活をしているだけで。
 もし、樋口が一人で暮らしていたら、食事をする事さえ忘れてしまっているのではないか。
 しかも樋口は、自分がそんな異常な状態である事を全く自覚していない。
 決してかすり傷とは言えない怪我をして、なのにその痛みも気にせず、黙って働き続けていた樋口。
 それを考えると、新は、理由の判らない怒りのようなものを感じる。
「‥‥‥ごめん‥‥‥」
 表情に出てしまっていたのか、樋口が身を縮めるようにして詫びの言葉を口にした。
 けれど、樋口は新が一体何に腹を立てているのか全く判っていないに違いない。
「‥‥‥とにかく、動けるならシャワー浴びちまえよ。服、置いとくから」
「うん‥‥‥」
 樋口が小さく頷いたのを確かめ、新は風呂場を出た。
 着替えを用意してから、近くのドラッグストアで湿布を買って来る。
 前にも樋口が擦り傷や切り傷を作って来た事があったから、消毒薬はまだ残っていたはずだ。
 押し入れの中に仕舞って置いた消毒薬を引っ張り出した頃、樋口がシャワーを終えて出て来た。
「ちょっと、傷、見せてみろよ」
 新の言葉に、樋口はあからさまに嫌な顔をした。
 しかし、諦めたのか、おとなしくされるままになっている。
 樋口の上半身にはあちこちに擦り傷や切り傷があった。
 そう大きいものはないが、数はかなり多かった。
 元々筋肉質のしっかりした身体をしているから、消毒をしておけば大丈夫だろう。
 そして、左の腕から肩にかけては赤く腫れ上がっていた。
 何か、固い場所に強く打ちつけたのだろうか。
 少し痛そうにしていながらも動かせるようだから、折れてはいないのではないか。‥‥と思いたい。
 取り敢えず湿布を貼って、同じく買って来た包帯で止める。
 せめて、今日一晩で腫れが引けば越した事はない。
 いずれにせよ、これだけの怪我をするのだからかなりの『事故』があったのだろう。
 それに、いくら樋口本人が働くと言っても、事故に巻き込まれた今日くらいは帰らせるのが普通だろう。
 それらを考えてみても、今日の現場が悪いものだった事が推測出来る。
「明日、病院行くからな。それまで、これで我慢してるんだぜ」
 新の言葉に、樋口は少し困ったような顔をした。
「でも‥‥バイト、行かないと‥‥‥」
 一体何を気にしているのか、と、新は呆れた。
「バイトより、身体が大事だろ?!それに、いくら日雇いって言ったって、そんな事故に巻き込むような現場なんかやめちまえよ」
 新の怒った口調に、樋口は少し不思議そうな顔になる。
 どうして新が怒っているのか、全く判っていない顔だった。
 鈍いと言うか、あまりにも自覚のなさすぎる樋口に、新は思わずため息をついてしまった。
「‥‥‥とにかく、メシにしようぜ。バイトのことはその後考えよう」
 食事、と聞いて、樋口は嬉しそうな顔になった。
 まるで子供のような反応には、いつも呆れていたけれど。
 今日ばかりは、いつもと変わらないその顔に、新はホッとしていた。



←BACK

NEXT→

back