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     ※下記の漢詩は春を御覧下さい。
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湖上に飮し初め晴れ後に雨ふる(蘇軾)
 

 【題意】

 西湖が天候に関わらず美しいことを、絶世の美女・西子になぞらえて詠った。

 【詩意】

 水面にきらきらと陽光が踊って、晴れの日の景観は誠によろしい

 霧に覆われ山の姿もぼんやりとした、雨の景色もそれはそれ良いものだ

 この西湖を伝説の美女・西子にたとえてみよう

 彼女は化粧の薄い時も、濃い時も、どちらも美しかったに違いない

 西湖も晴れて良し、降って良し、天候に関わらず素晴らしい風情だ

 【語釈】

 瀲N=水が満ち溢れる様。さざなみが光りきらめく様。

 空濛=小雨や霧などで、ぼんやりと薄暗い様子。

 西子=西施。中国春秋時代・越の美女。戦いで呉に敗れた越王勾践(こうせん)から、

 呉王夫差(ふさ)に献上される。夫差は西子の美しさに溺れ、越に滅ぼされる因となる。

 濃抹=「抹」は、ぬる。濃い化粧。

 【鑑賞】

 明るくきらめく湖面と仄暗くそぼ降る霧雨の対照。見事な起承転結、非凡な比喩。

 だが感受性豊かな蘇軾の素直な表現が、そういった技巧を意識させない。

 湖の美しい光景が浮かんでくる。酒が入ればなおのことだろう。

 湖面に吹く心地良い風までも感じられそうだ。

 【参考1】

 副知事として赴いた蘇軾がこの地の美しさを詠った250年程前、白居易が知事として

 この地に赴任し詩を賦している。

 白居易はそれだけでなく大工事を行い西湖に堤を造り桃等を配してより美しく見せた。

 蘇軾もまたそれに習い堤を造った。前者のを白堤、後者のを蘇堤という。

 【参考2】

 松尾芭蕉が「奥の細道」の中で、松島のことを洞庭湖、西湖に負けない好景と記している。

 また「象潟や雨に西施がねぶの花」と詠い。蘇軾の詩が胸中にあったことが分かる。

 蘇   軾(そしょく)  

 1036〜1101年。北宋の政治家、文学者。眉山(びざん)、現在の四川省の人。

 字は子瞻(しせん)、号は東坡(とうば)。蘇東坡の名でも親しまれている。

 北宋第一の詩人と謳われ、父の洵(じゅん)、弟の轍(てつ)と共に、三蘇と称せられる。

 22歳で進士に合格し、高級官僚への道は順風満帆かと思われたが、王安石らの改革に

 反対する旧法党側に属した為、左遷や投獄の憂き目をみることになる。

 1079年、詩文の内容が讒言を招き、投獄、黄州へ流された。

 その際、当地において一家で開墾した耕地を東坡(東の丘)と名づけた。

 古文作家としても、この地で、赤壁の戦い(当時既に千年近く昔のこと)を偲んで作った大作

 「赤壁の賦」がある。実際の古戦場とは離れているが、おかげでこの地も有名になった。

 大臣にまで復活したかとおもうと、62歳で海南島まで流されたり、政争に振り回される波瀾

 の人生だった。

 父・蘇洵の老蘇、弟・蘇轍の小蘇の対して大蘇と呼ばれ、父、弟と唐宋八大家に数えられる。

 詩文の他にも博学で知られ、儒教、仏教、道教の三教に通じ、書画でも名を成した。

 流された先で「思ったより魚やたけのこが旨い」などと詩に詠ったりしている。

 前向きで楽観的な性格だったのではないだろうか。

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近江八景(大江敬香)
 

 【題意】

 元来は「近江八景の図に題す」。近江八景の画に書き付けた詩。

 近江八景は近江国(現在の滋賀県)、琵琶湖南部湖畔にみられた八つの景勝。

 明応九年(1500)、中国の洞庭湖に注ぐ瀟水と湘水付近の「瀟湘(しょうしょう)八景」に

 擬して近衛政家が選定したと伝えられる。

 三井の晩鐘、唐崎の夜雨、堅田の落雁、粟津の晴風、矢橋(やばせ)の帰帆、比良の暮雪、

 石山の秋月、瀬田の夕照。

 浮世絵「近江八景」は歌川(安藤)広重(1797〜1858)の作。

 【詩意】

 堅田の落雁、比良山の暮雪

 湖上の素晴らしい風景はこの辺りに良く現れている

 (東に)夕もやが帰り舟の白帆を包む矢走の渡し

 (西に)風が山の緑を吹き送る粟津の砂浜

 (北に)寒々と夜雨降る唐崎の松

 (南に)冴えた月に照らされた石山寺の秋

 厳かに響く三井寺の晩鐘 夕影に浮かぶ瀬田の唐橋

 この地を訪れた旅人は、忽ち心動かされ懐郷の念にとらわれることであろう

 【語釈】

 落雁=地上に舞い降りてくる雁の群れ。   罩む=籠める。つつみこむ。

 嵐翠=山の緑の気配。

 【参考】

 有名な漢詩であるが、大江敬香の詩集には掲載されておらず、一説には作者不詳。

 大江敬香(おおえけいこう)  
 1857〜1917年。明治・大正期の漢詩人。名は孝之。中村敬宇を慕い敬香と号した。
 安政4年12月、徳島藩士大江孝文の長男として、江戸八丁堀に生まれた。
 聡明で、幼くして『唐詩選』を暗記、周囲を驚かした逸話がある。郷里の藩校修文館にて
 漢文の他、英・独・仏の三カ国語を修めた。
 明治5年、慶応義塾、外国語学校を経て東京大学文科に入学するも病により中退。
 浜松の父のもとに身を寄せ、療養生活をおくった。
 明治10年、二宮尊徳の高弟岡田良一郎が掛川(静岡)で英学塾(冀北学舎)を開くと、敬香
 は教師に迎えられ多くの知名人を育てた。明治11年、静岡新聞主事、更に岡山、神戸にて
 新聞の主筆等を歴任。その後上京、大隈重信の改進党に参画した。
 明治24年に職を辞し、以降漢詩文学の普及に努めた。
 白楽天、陸游、高啓らの詩風を好んだといわれる。
 詩文雑誌『花香月影』などを創刊、後進の指導にもあたった。
 大正5年2月1月26日没。
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 【題意】

 遠くの美しい山並みを詠んだ。

 【詩意】

 山の景色は遠くのものも近くのものもどれも趣深い

 一日、山を眺めながら歩く

 峰々はそれぞれ違った姿を見せているが

 私がその名を知るよしもない

 【語意】

 峯巒=尖った峰、丸い峰。   行客=旅人、登山者。ここでは自分のこと。

 歐 陽 脩(おうようしゅう)  

 1007〜1072年。北宋の政治家、文学者。字は永叔(えいしゅく)。自ら酔翁と称した。

 幼くして父と死別、母と共に貧しい少年期を送ったが24歳の時、進士に首席で合格した。

 歴代の皇帝の下で有能ぶりを発揮、2度の左遷にあっているがその度に中央に復帰し、

 官僚として参知政事(副宰相)にまで昇りつめた。

 北宋第6代皇帝・神宗の時、富国強兵をめざした王安石の新法が採用されると、それに

 反対して退官、隠棲。翌年没した。

 北宋中後期詩壇の盟主であると同時に散文にも優れ唐宋八大家の一人に数えられる。

 因みに蘇軾(蘇東坡)が科挙試験に臨んだ際、科挙を司る立場にあり彼を推挙したという。

 【唐宋八大家】

 唐代、宋代の優れた散文作家。

 唐の韓愈、柳宗元。宋の歐陽修、王安石、曾鞏(そうきょう)、蘇洵、蘇軾、蘇轍。

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金峰雲仙(徳富蘇峰)
 

 【題意】

 金峰山と雲仙。熊本の金峰山と長崎の雲仙は有明海を挟んで向かい合うようにしてある。

 それぞれ山頂に登り、もう一方の峰を望んだ様子を賦された。昭和4年、67歳の作。

 【詩意】

 金峰山から雲仙を望めば

 海上、神の山(雲仙)が青空に聳えていた

 今日、雲仙の山頂に立つと

 金峰の頂きはぼんやりと雲に隠れていた

 【語釈】

 金峰=金峰山。熊本市西方に位置する熊本市民にとって身近な山。夏目漱石「草枕」の

      舞台にもなった。蘇峰先生も幼少の頃、麓の兼坂止水塾に通われた。

 徳富蘇峰(とくどみ・とくとみそほう)  

 ※作者については解説の栞・熊本漢詩紀行1で詳述しています。

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