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秋風の引(劉禹錫)
 

 【題意】

 秋風に対して、感じ易い旅人の気持ちを詠った。左遷の地で作ったものであろう。

 「引」とは、元来は詩の一体で、事の本末を述べたもの。

 詩題としては単に 「詩」「歌」「曲」「行」と同意。

 【詩意】

 いったいこの秋風は何処から吹いて来るのだろうか

 秋風は物寂しい音を立てながら、雁の群れを南の方へ吹き送っている

 今朝方から庭前の植え込みに吹き込んで、梢をさらさら鳴らしていたが

 真っ先にその音を聞きつけて秋を噛みしめているのは、独りぽっちの旅人、この私である。

 【語釈】

 何處=いったい何処から…のか。驚きいぶかる意が含まれている。

 朝来=朝から。朝早くから。

 孤客=独りぽっちの寂しい旅人。「孤」は「雁群」の「群」に対する。

 最先聞=旅人は季節の移り変わりに敏感である。「もう秋か」と、そぞろに帰思をそそられ

 ながら、他人に先だって耳を傾ける。

 【鑑賞】

 劉禹錫は官僚生活の多くの期間を、地方官として寂寥感にさいなまれながら送った。

 なにしろ20年余りも左遷されていたのだ。作者は、都に久しく帰れない自分を、孤独な旅人

 ”孤客”として感じていた。まだ誰も気付かない秋風の訪れを”孤客”なるが故に、真っ先に

 聞きつけるのである。

 我が国の読み人知らずの歌に、「我がために来る秋にしもあらなくに虫の音聞けば先ずぞ

 悲しき」というのがある。よく似た趣といえよう。

 劉 禹 錫(りゅううしゃく)  

 772〜842年、中唐の詩人。字は夢得(ぼうとく)。劉禹錫の出身については諸説有り、

 定まっていないが、中山(河北省)出身説が通説になりつつある。

 貞元9年(793)22歳の時に、柳宗元と共に進士に及第し、更に天子が直接に試験して

 任用する制度で、彼は累進して蘇州(江蘇省)の刺史となる。

 32歳で監察御史となり、王叔文の政治改革に柳宗元と共に参画し、将来を嘱望されたが、

 王叔文の失脚と共に、805年連州(広東省)の刺史に、更に朗州(湖南省)の司馬に、左遷

 され当地で約10年過ごした。後に連州、和州(安徽省)、蘇州等の刺史職を、転々とするが

 20年以上の左遷生活を経て、都に復帰すると中央で高官にまで昇った。

 晩年は洛陽で過ごし、71歳で歿した。

 

 彼は硬骨の人となりが災いして、幾度も左遷の憂き目にあっているが、詩風は気骨があり

 力強く詩文共に優れていた。晩年、白楽天と親交を結び、詩のやり取りをしている。

 白楽天との唱和詩「劉白唱和集」他多数を残している。

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山間の秋夜(真山民)
 

 【題意】

 山あいの静かな秋の夜。

 【詩意】

 更け行く夜の気配と月明かりが欄干を包んでいる

 心ゆくまで夜の気を腹に吸い込んだ

 独り私の立つ軒端には青桐の影が差して

 コオロギの鳴く声、山上の月に一層の寒さを覚える

 【語釈】

 闌=欄に同じ。欄干。   風露=秋風と白露。   白露=白く光って見える露。

 脾肝=脾臓と肝臓。腹の中。   虚檐=高い軒。立派な建物。誰もいない軒。

 絡緯=こおろぎ、くつわむし。秋の虫。

 真 山 民(しんさんみん)  

 生没年不詳。南宋末期の詩人。姓名、出身地ともに不詳。

 自分自身を「山民」と呼んだので、この称がある。

 真徳秀(南宋中期の政治家、儒学者)の子孫と自称するが真偽は明らかでない。

 滅亡した宋人である為、世を逃れ、自らの存在を公にしなかったのではないかといわれる。

 浙江省麗水県の人で、宋末に進士の試験に合格したという説もある。

 「我は愛す山中の月」(山中月)など「我は愛す」で始まる四部作が有名。

 詩は亡国の悲哀を詠ったものが多い。詩集は明治の思想家・中江兆民等にも愛読された。

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秋怨(魚玄機)
 

 【題意】

 尼となりながらも、恋に身を灼く女心を詠ったもの。

 【詩意】

 つくづく嘆かわしいのは、自分が多情である為に愁いの多いことだ

 ましてや今宵は秋風が吹き、月の光が庭一面に射し込むもの哀しい夜だから尚更のこと

 私の寝室に聞こえて来る、時を告げる太鼓の音のなんと近いことよ

 夜毎夜毎に、灯し火の前でその音を聞かされると、私の頭は白髪頭になってしまいそうだ

 【鑑賞】

 男性詩人が女心の哀しさを詠う詩は多いが、女性が自身の心の表白を詩に託したのは、

 漢詩の世界では珍しい。

 前半の二句は、秋の夜の物寂しい気配とは異なり、何かむせる様ななまめいた、ため息が

 聞こえて来る心地がする。

 「風月」の語には、ただの風と月以外に、「色恋」という意味が隠されている。

 「風月の筆墨」と云えば「色恋を書いた本」の意である。

 美貌と詩才を持ち合わせていた魚玄機だったが、李億との灼熱の恋も夢も、無残に破れて

 しまった。森鴎外は彼女の生涯を、小説「魚玄機」に仕立てている。

 魚 玄 機(ぎょげんき)  

 843〜868年。晩唐の詩人。長安の妓楼の娘。

 中唐の薛濤(せっとう)と並び称される唐代を代表する女流詩人。

 20歳の時、恋人の高級官僚・李億(りおく)と漢陽へ来たが、この地で李億に捨てられる。

 道教の尼となった魚玄機は再び恋をするが、その恋人李近仁(りきんじん)をまたも使用人

 に奪われてしまう。

 魚玄機は嫉妬のあまり、使用人を鞭で打ち殺してしまい、これが発覚して処刑された。

 数奇な運命をたどった情熱の女性。26年の短い生涯だった。

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秦淮に泊す(杜牧)
 

 【題意】

 晩秋の一夜、秦淮河に舟泊まりした折の感慨を賦した。

 【詩意】

 靄が寒々とした秦淮の川面を覆い、月明かりは砂を包み込むように照らしている

 今宵私は秦淮に泊している。川沿いには料亭が建ち並んでいる

 女は自分の歌っている曲を知るまい。かつてこの地に繁栄した亡国の歌ということを

 河を隔てた私の元へ、さんざめきに混じって「玉樹後庭花」の唄が聞こえてくる

 【語釈】

 秦淮=江蘇省西南部に発し、南京(陳代は建康、唐代は金陵)市内を流れ長江に注ぐ河。

 秦代に淮水に通じる運河として造られた為、こう呼ばれるという。

 商女=酒楼の歌姫。妓女。

 後庭花=六朝最後の陳の皇帝・陳叔宝が自ら作詞作曲したといわれる「玉樹後庭花」。

 「玉樹後庭花」の詩中に「玉樹後庭花 花開くも復久しからず」とあり、世の人々は陳国の

 滅亡を予感したといわれる。

 陳叔宝は文才に恵まれていたが、詩歌管弦や酒宴に溺れ、政治を顧みなかった。

 その為、隋の軍勢が攻め寄せて来ても為す術を知らず、陳は滅ぼされてしまう。

 【鑑賞】

 「玉樹後庭花」は陳の繁栄と滅亡を象徴する歌である。その歌を何も知らない妓女達は

 無邪気に歌っている。陳の滅亡は杜牧の時代から250年程前のことであった。

 杜牧はその平和な光景の中に栄枯盛衰の無常を感じ、更には唐の行く末を見ていた

 のかもしれない。

 杜   牧(とぼく)  
 作者略歴については、栞/秋の訪れ一に詳述。
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玉階の怨み(李白)
 

 【題意】

 玉階怨。大理石や玉の類で作られた宮殿の階段(きざはし)で悲しむ宮女の姿を詠じたもの。

 李白四十代半ばの作と云われる。

 【詩意】

 美しき階(きざはし)には、はや露が降り

 夜も更けて、薄絹の靴下を通し冷気が身にしみてくる

 水晶の簾を下ろし

 澄んだ秋の月を簾越しに眺めるばかり

 【語釈】

 怨=もの思い。   白露=草木等に付いて白く見える露。二十四節季の一つの名でもある。

 立秋から三十日、現在の暦で九月八、九日頃。   羅襪=薄絹の靴下。

 水晶簾=紐で水晶の玉を連ねて簾とした。

 【鑑賞】

 天子の訪れを待ちわびる宮女の悲怨を詠っている。

 透明感のある言葉が散りばめられた美しい作品。

 李   白(りはく)  

 ※作者については解説の栞・酒にまつわる詩で詳述しています。

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