845〜903年。平安初期の公卿、学者。本名は三。幼名は阿呼。
代々家系には学者が多く、曾祖父、祖父、父も大学頭、文章博士を務めた。
祖父・清公は最澄、空海らと共に遣唐使として渡唐している。
5歳にして和歌を詠み、12歳で梅の詩を創作して神童と称される。33歳で文章博士となった
道真は元慶7年(883)渤海大使接待の折、詩文を贈答し、その見事さに白楽天の再来と称
された。宇多天皇に重用され、寛平6年(894)遣唐使に任命されたが唐の国情不安や文化
の衰退を理由に建議してこれを廃止。これより平安時代国風文化が盛んとなった。
899年2月左大臣に藤原時平、右大臣に菅原道真が任命された。
更に、901年正月7日藤原時平と共に従二位に叙せられるが、その直後に時平により
「道真が時の醍醐天皇を廃して、自らの三女が嫁いだ斉世親王を擁立しようと企んでいる」
との嫌疑をかけられ、正月25日には大宰権帥(ごんのそち・ごんのそつ)に左降されることが
決定する。宇多法皇は道真を弁護すべく宮中に駆けつけたが蔵人頭・藤原菅根が頑として
中にいれず、空しく帰られた。道真は2月1日大宰府への出立となる。
我が家を出立する際に詠んだ「こちふかばにほひおこせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ」
はあまりにも有名。
道真は過去一度42歳の時に讃岐守として左遷を経験しているが、それとは異なり大宰府への
左遷は実質上藤原時平派による政敵の配流であった。
大宰府では定められた居宅に蟄居謹慎して一歩も外へ出る事が無かったという。日々、国家
の安泰と天皇の平安を祈り、京への帰還を夢見て過ごしたが二度と都の土を踏むことなく、
2年後の延喜3年(903)2月25日59歳で死去した。
道真は自分の遺体を車にのせて牛に引かせ、牛が立ち止まった場所に葬ってくれと遺言。
味酒安行によって遺言は実行され、その墓の所に小さな祠廟が建てられた。十数年後には
大きな社殿に建て替えられ、現在の太宰府天満宮にいたるといわれる。
没後、宇多天皇を内裏に入れなかった藤原菅根や追放の主役・藤原時平、またその縁者が
相次いで亡くなった。更に時平の妹と醍醐天皇の間に生まれた皇太子・保明親王が急逝する
にいたって道真の祟りとの噂が起こり始めた。
道真は右大臣に復され左遷詔書は焼却、正二位を追贈されるが更に異変は続き、時平の娘
が生んだ新皇太子も死去、また宮中への落雷で多くの死傷者が出る事故、醍醐天皇の崩御
や天候不順などが重なった。
永延元年(987)一条天皇が勅命で道真公を祀るお祭りを行い、これを北野祭と称して、その
神社は北野天満宮と呼ばれるようになる。道真は正暦4年(993)没後90年を経て、最高位
の正一位太政大臣を贈られた。
現在、道真を祀る神社は全国に一万以上あるといわれ、学問の神、文化の神として人々の
信仰を集めている。
大宰府での生活は道真にとって大きな憂患事であったことは間違いない。しかし、この境遇の
大変化が詩人として、歴史上の人物として、道真をより輝かせることとなったのは確かであろう。
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