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楓橋夜泊(張継)
 

 【題意】

 楓橋に、夜停泊(船泊まり)して。

 楓橋は、蘇州(今の江蘇省蘇州市)の西郊にある楓江に架けられた橋の名。

 昔は「封橋」とも書き、運河に架けられた石橋。

 【詩意】

 月が沈み、烏が鳴いて、夜空に冷たい霜の気が一面満ちわたっている

 川岸の紅葉したかえでの間には、赤い漁火が点々として

 旅愁の為に眠りかねている私の目の前に浮かんでいる

 折りしも、蘇州の町外れにある寒山寺で

 夜中に打ち鳴らす鐘の音が、旅を続けて来たこの船の中にまで伝わって来る

 【語釈】

 霜満天=中国では昔から、霜の気が先ず天に満ちて、やがて地面に落ちて霜になる、

  と考えられていた。ここでは、いかにも晩秋の寒気のみなぎった空の様子。

 江楓=川岸の(紅葉した)かえで。  愁眠=愁いながら、うつらうつらとしている浅い眠り。

 姑蘇城外=蘇州の町外れ。姑蘇は、春秋時代の呉の都で、蘇州の古名。

 寒山寺=蘇州の西郊、楓橋の近くにある寺の名。唐代の詩僧、寒山と拾得(じっとく)が

 住んだ寺として古来有名。  客船=旅の途中にある船で、旅人である作者の乗船を指す。

 【参考1】

 寒山と拾得は、天台山国清寺を訪れ豊干(ぶかん)に師事する。この三人を三隠と称する。

 生没年は不詳。寒山は文殊菩薩の化身、拾得は普賢菩薩の化身とされる。

 禅画の「寒山拾得図」等、画題としても多くとりあげられる。

 【鑑賞】

 「霜」と云えば、先ずこの詩が口をついて出る。”旅愁”を優れた感覚で詠じた、秋の夜の詩

 の究めつけとも云うべき名作。その為、後世の詩人の当地での詠草は数多い。

 冷涼の気の満ちわたる秋の真夜中、江楓越しに漁火を見、寒山寺の鐘声を船中に聞きつつ、

 旅愁を募らせたという作者の感懐は、古来多くの人々の共感を得、人口に膾炙されている。

 語句の中に誤解を招く要素が有った為、解釈に異説が生じ、多くの人々の間で論議された。

 【参考2】

 宋代に歐陽脩(おうようしゅう)が、夜中に鐘が鳴り渡るのはおかしいと異議を唱え、論争に

 発展した。結局そのような表現が他の唐詩にもあることが指摘され、唐代には夜中に鐘を撞く

 こともあったのだろうということになった。

 張   継(ちょうけい)  

 生没年未詳。中唐初期の詩人。襄州(じょうしゅう)、今の湖北省襄樊市(じょうはんし)の人。

 字は懿孫(いそん)。天宝12年(753)、玄宗の末年に進士の試験に合格し、諸州を管轄

 する節度使の幕僚や塩鉄判官等を経て、大暦年間(766〜779)に中央に召され、

 検校祠部郎中(局長代理)に至って退官した。

 代々詩人の家柄で、彼自身、工夫を凝らさずとも自然に美しい詩が出来たという。

 清らかな風采で道者の風があった。博覧有識で談論を好み、治世の道を心得ていて、

 政治家としての名声も高かったらしい。

 今日、47首が伝わるのみだが、この1首で不朽の名を残した。

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山行(杜牧)
 

 【題意】

 秋の日、山行(山歩き)した杜牧が、紅葉に心を打たれて詠じた作品。

 【詩意】

 遠く物寂しい山道を登って行くと 石ころ道が斜めに続く

 彼方の白雲が生じる辺りに人家が見える

 車を停めさせて しみじみと夕暮れの楓林の景色を愛で眺めた

 霜にあたって紅葉した楓の葉は 春二月の桃の花よりも艶やかに色づいている

 【語釈】

 寒山=晩秋になって木が色づいたり葉が落ちたりした、物寂しげな山。

 前半の2句で、山の静かな雰囲気、脱俗の世界が描かれている。

 坐に=気の向くままに。   愛す=めでる。観賞する。

 二月の花=桃の花だろうか。詳細は不明。

 杜   牧(とぼく)  

 803〜853年、字は牧之(ぼくし)。晩唐時代第一の詩人といわれる。

 長安、今の西安の人で、祖父の杜佑(とゆう)は有名な歴史学者で宰相。

 一家は高級官僚が多く出た家柄。26歳で進士合格、官僚としてエリートコースを歩み出した。

 若い頃揚州に赴任し、大いに遊び暮らした。揚州は繁華な都で、酒は旨いし女性も綺麗、

 杜牧は家柄も良く、秀才だったのでたいへんもてたらしい。

 しかし、中年過ぎから地方官を歴任。その才も認められたが、結局出世には縁がなかった。

 その一因として弟の眼病があったという。弟も高級官僚だったが30歳位の若さで盲目となり、

 杜牧は弟の為に名医を訪ね歩き金もかかったらしい。その為、中央の官僚よりも収入の良い

 地方長官を志望した。

 中年になっての挫折感を詠った詩がある。晩年も地方暮らしが多かった。

 盛唐の杜甫を大杜(又は老杜)と云うのに対し、小杜と云われる。また李商隠と共に「李杜」

 と併称される。惜しいことに死に臨んで詩文の大半を焼き捨ててしまったという。

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雁を聞く(韋應物)
 

 【題意】

 韋應物がK州(現在の安徽県K県)の刺史(長官)であった時に作った詩。

 雁の鳴く声を聞いて、望郷の念に駆られる思いを詠んだもの。

 【詩意】

 故郷は遥かに遠くどの辺りか分からない

 望郷の念は果てしなく胸中に広がっていく

 この淮南の地で秋雨降る夜

 官宅にて、雁の声が悲しく過ぎるのを聞けば尚更のことだ

 【語釈】

 渺=遠く遥か様。   淮南=淮水の南の地名。

 高斎=高楼のある官舎。斎は郡守の居る役所の官宅。

 【参考】

 雁は季節を告げる鳥であり、前漢の蘇武が匈奴に捕らわれた時、雁の足に手紙をつけて

 放し、それを都の天子へ届けたという故事から、人に特別の感慨を催させる鳥であった。

 また、転じて「雁の使い」といえば手紙や消息を意味するようになった。

 韋 應 物(いおうぶつ)  

 737頃〜804年頃(諸説有る)。長安の人。あるいは洛陽の人ともいわれる。号は蘇州。

 15歳の時、資蔭(父祖の功労によって子孫が官位につくこと)によって、玄宗の三衛郎(宮中

 警護の職)となった。若い頃は任侠を好み、帝の寵をたのんで横暴な振る舞いが多かった。

 安禄山の乱後、職を失って一時放浪する。それから行いを改め勉学に励み進士にも及第。

 官職に復帰し、783年からはK州・江州の長官を歴任。後に蘇州へも赴任した。

 その人となりは高潔で、地方の長官として善政を施した。州民の人望も厚かったという。

 唐代自然詩人の代表とされ、王維、孟浩然、柳宗元と共に「王孟韋柳」と称される。

 また、東晋の大詩人、陶淵明と比して「陶韋」ともいわれる。

 白居易は韋應物の詩について「其の五言詩は高雅閑澹にして自ら一家の体を成せり」

 (高尚優雅ゆったりと落ち着いて淡く静かでおのずと独自の世界を作り上げている)と述べて

 とりわけ敬慕したという。

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九月十五夜(菅原道真)
 

 【題意】

 延喜元年(901)太宰府に左遷となった年の秋、その悲運を嘆じた。

 教本によっては「秋夜」となっている。有名な「九月十日」の詩の数日後の作。

 【参考】

 旧暦の延喜元年(901)9月15日は現在の暦に換算すると11月3日頃。

 普段つい新暦でイメージしてしまいがちだが、まさに晩秋の物寂しさが胸に迫る季節である。

 【詩意】

 私の顔は黄色く生気が無い、頭はすっかり真っ白だ

 まして千里も離れた所への左遷、この上説明には及ぶまい

 かつては華やかな貴族としての生活に縛られ

 今は流されて草深い田舎暮らしとなる

 月は鏡に似ていても真実を映し出しはしない

 風は刀の様でも私の愁いを断ち切ってはくれない

 月を見るにつけ、風を聞くにつけ身の毛のよだつ思いがする

 今年は秋の全ての悲しみが私だけにやって来たようだ

 【語釈】

 黄萎=黄色く弱々しい。   千余里外=京都から太宰府までのこと。

 簪組縛=束縛の多い窮屈な官吏の生活。   貶謫=配流。

 草莱=荒れ地。未開の地。   惨慄=恐ろしさに身震いする事

 【鑑賞】

 「見るに随い聞くに随うて皆惨慄 此の秋は独り我が身の秋と作る」の表現には鬼気迫るもの

 がある。後の道真怨霊伝説を連想させる。

 菅原道真(すがわらのみちざね)  

 845〜903年。平安初期の公卿、学者。本名は三。幼名は阿呼。

 代々家系には学者が多く、曾祖父、祖父、父も大学頭、文章博士を務めた。

 祖父・清公は最澄、空海らと共に遣唐使として渡唐している。

 5歳にして和歌を詠み、12歳で梅の詩を創作して神童と称される。33歳で文章博士となった

 道真は元慶7年(883)渤海大使接待の折、詩文を贈答し、その見事さに白楽天の再来と称

 された。宇多天皇に重用され、寛平6年(894)遣唐使に任命されたが唐の国情不安や文化

 の衰退を理由に建議してこれを廃止。これより平安時代国風文化が盛んとなった。

 

 899年2月左大臣に藤原時平、右大臣に菅原道真が任命された。

 更に、901年正月7日藤原時平と共に従二位に叙せられるが、その直後に時平により

 「道真が時の醍醐天皇を廃して、自らの三女が嫁いだ斉世親王を擁立しようと企んでいる」

 との嫌疑をかけられ、正月25日には大宰権帥(ごんのそち・ごんのそつ)に左降されることが

 決定する。宇多法皇は道真を弁護すべく宮中に駆けつけたが蔵人頭・藤原菅根が頑として

 中にいれず、空しく帰られた。道真は2月1日大宰府への出立となる。

 我が家を出立する際に詠んだ「こちふかばにほひおこせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ」

 はあまりにも有名。

 道真は過去一度42歳の時に讃岐守として左遷を経験しているが、それとは異なり大宰府への

 左遷は実質上藤原時平派による政敵の配流であった。

 大宰府では定められた居宅に蟄居謹慎して一歩も外へ出る事が無かったという。日々、国家

 の安泰と天皇の平安を祈り、京への帰還を夢見て過ごしたが二度と都の土を踏むことなく、

 2年後の延喜3年(903)2月25日59歳で死去した。

 道真は自分の遺体を車にのせて牛に引かせ、牛が立ち止まった場所に葬ってくれと遺言。

 味酒安行によって遺言は実行され、その墓の所に小さな祠廟が建てられた。十数年後には

 大きな社殿に建て替えられ、現在の太宰府天満宮にいたるといわれる。

 

 没後、宇多天皇を内裏に入れなかった藤原菅根や追放の主役・藤原時平、またその縁者が

 相次いで亡くなった。更に時平の妹と醍醐天皇の間に生まれた皇太子・保明親王が急逝する

 にいたって道真の祟りとの噂が起こり始めた。

 道真は右大臣に復され左遷詔書は焼却、正二位を追贈されるが更に異変は続き、時平の娘

 が生んだ新皇太子も死去、また宮中への落雷で多くの死傷者が出る事故、醍醐天皇の崩御

 や天候不順などが重なった。

 永延元年(987)一条天皇が勅命で道真公を祀るお祭りを行い、これを北野祭と称して、その

 神社は北野天満宮と呼ばれるようになる。道真は正暦4年(993)没後90年を経て、最高位

 の正一位太政大臣を贈られた。

 現在、道真を祀る神社は全国に一万以上あるといわれ、学問の神、文化の神として人々の

 信仰を集めている。

 大宰府での生活は道真にとって大きな憂患事であったことは間違いない。しかし、この境遇の

 大変化が詩人として、歴史上の人物として、道真をより輝かせることとなったのは確かであろう。

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和歌奥山に(読人知らず)
 

 【歌意】

 紅葉散り敷く深い山奥で鹿が鳴いている。

 その声を聞く時、秋はひとしお悲しく感じられる。

 【出典】

 古今和歌集。

 【参考】

 「紅葉ふみわけ」の主語は、「作者」と「鹿」の両説がある。

 すなわち「作者自身が紅葉ふみわける奥山に居り、鹿の声を聞いた」というものと、

 「奥山で鳴く鹿の声を作者は別の場所で聞いている」と採るものである。

 ここでは後者を採っている。

 作者不詳  

 読人知らず。小倉百人一首では、三十六歌仙の一人、猿丸大夫となっている。

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