辺塞詩 戦争
 
涼州詞(王翰)
 

 【題意】

 歌曲の名前。王翰の涼州詞は二首連作であり、これは其の一。

 涼州は現在の甘粛省武威市。唐代には辺境の警備の要衝であった。

 【詩意】

 葡萄の旨酒を白玉の杯に注ぐ

 杯を傾けようとすると、それを促すように馬上で琵琶が弾き鳴らされる

 したたか酔って砂上に倒れようとも笑ってはいけない

 古来、戦に赴いて無事故郷に還る者が何人いただろうか

 【語釈】

 葡萄の美酒=西域産の上質な葡萄酒。  夜光の杯=西域産の玉で造った杯。

 王   翰(おうかん)  

 687?〜727?年。盛唐の官僚、詩人。晋陽(山西省太原県)の人。字は子羽。

 710年進士に及第。張説の後押しもあり、順調に官僚を歴任する。

 豪放な性格で酒を好み、名馬や歌妓を集め、その言動が周囲の反感をかうことも多かった。

 726年、宰相張説の失脚にともない、中央を追われ地方に左遷された。

 しかし、そこでも狩猟や酒宴に明け暮れたので、更に僻地である道州(湖南省)の

 司馬(軍を司る役職)を命ぜられ、そこで没した。

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己亥の歳(曹松)
 

 【題意】

 「つちのと・い」の年の意。唐代僖宗の乾符6年(879)のことといわれる。

 【詩意】

 この美しく豊かな水郷の地も、戦渦に巻き込まれてしまった

 こんな状況人々はどうやってささやかな生活さえ営むことができるだろうか

 どうかあなたにお願いしたい 戦争で出世する事など話題にされぬようにと

 一人の将軍が手柄を立てる時、その陰では数え切れぬ犠牲が払われているのだから

 【語釈】

 沢国=河や湖沼の多い低湿な地方。水郷。ここでは黄巣の乱の主戦場であった

 荊楚江淮(四川、湖南、湖北、安徽、江蘇)地方を指すといわれる。

 何計=反語。どんな方法があろうか。(いや、ない)

 樵蘇=樵は木を伐採する。蘇は草を刈る。   憑君=君に頼む。

 封侯=大名にとりたてられること。

 【参考】

 結句の「一将功成って万骨枯る」は有名で、今日では格言としても知られる。

 曹松が生きた時代、長年に渡り隆盛を誇った唐王朝も衰退の一途を辿っており、

 各地で反乱が頻発していた。己亥の歳の冬、黄巣の乱が起きる。

 これにより唐王朝の崩壊は決定的なものとなった。907年、唐は滅亡する。

 【黄巣(こうそう)】

 生年不詳〜884年。中国、唐末の群雄の一人。

 王仙芝が乱を起こすとこれに呼応し山東で挙兵。878年、王仙芝の軍が鎮圧されると、

 余衆を従えて各地を攻略、ついに都長安を陥れて、国号を斉とし、自ら斉帝と称した。

 唐の武将、李克用と戦って敗れ、自決。

 曹   松(そうしょう)  

 生没年不詳。一説に830年頃〜901年。唐代末期の詩人。

 舒州(安徽省懐寧県)の人。詩を賈島に学んだといわれる。

 901年、70歳を過ぎて進士の試験に及第。

 この年、70歳以上の合格者が5人いたため、彼らは「五老榜」と呼ばれた。

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平蕃曲(劉長卿)
 

 【題意】

 異民族を平定した際の凱旋詩。「蕃」は西方南方の異民族の意。

 連作ともいえる平蕃曲の其の二。

 【詩意】

 ゴビの大砂漠を横断して大軍が凱旋した

 砂漠の平原には僅かな守備兵だけが残り静かなものである

 わずかに、建立された一つの石碑だけが

 燕然山の上で、遥か後世に功績を伝える

  【語釈】

 絶漠=砂漠を横断すること。 戍=守り、陣地。国境を守る兵士。

 【鑑賞】

 「一将功成り萬骨枯る」と詠った曹松の『己亥の歳』や、乃木将軍の『凱旋感有り』、

 『金州城下の作』などに通ずるものがある。

 【参考】

 以下は平蕃曲の其の一にあたる

 渺渺として戍烟狐なり 茫茫として塞艸枯る

 隴頭那ぞ閉づることを用いん 萬里胡を防がず

 (詩意)

 果てしない原野には一筋の煙だけが見える 草は枯れ尽くし目を遮るものは何もない

 隴山の関所ももう閉じるに及ばない 遥か遠征し胡の兵と戦う必要もなくなった

 劉長卿(りゅうちょうけい)  

 709?〜785?年。盛唐の詩人。字は文房。河間(現在の河北省)の人。

 733年、進士及第。粛宗の時、監察御史となる。以後出世街道を歩むも讒言にあい、

 姑蘇の獄に繋がれ、次いで播州南巴(広東省茂名市)へ左遷された。

 その際同僚が更に遠方へ左遷となったのを送別して詠った詩「重ねて裴郎中の吉州に

 貶せらるるを送る」も有名。

 後に弁護するものがあって、睦州(浙江省建徳県)の司馬(軍事を司る役職)に移され、

 随州(湖北省随県)の刺史(州の長官)となって没した。

 剛直な性格から、しばしば権力者と衝突したという。

 詩は五言を得意とし、世に「五言長城」と評された。最終の官職から劉随州とも呼ばれる。

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家兄に寄せて志を言う(広瀬武夫)
 

 【題意】

 日露戦争出征に際し、その決意を兄に語ったもの。

 兄は後の海軍少将広瀬勝比古。

 【詩意】

 君に忠義を尽くす事は、今更言うまでも無い明らかな道理である

 国に報いる我が心は、かの楠木正成となんら変わるものではない

 殊に我が家はその志を先祖からも脈々と伝えられている

 先祖や楠木正成にも負けぬ武勲で、必ずや兄弟ともに誉れを得ようではないか

 【語釈】

 丹心=まごころ。嘘偽り無い、ありのままの心。

 七生=ここでは、楠木正成が湊川の戦で残した言葉に基づく。

 正成は自刃の際、弟達と「七生まで人間に生れて朝敵を滅ぼさん」と誓ったといわれる。

 伝家一脈=先祖が楠木正成と意を同じにした、南朝の忠臣菊池氏であることから。

 【参考】

 広瀬中佐の勤皇報国の志は長詩「正気歌」の中により詳しく詠われている。

 私人としての広瀬武夫はロシア留学・滞在を通じ、たいへん親露家であったといわれる。

 その広瀬中佐がロシアとの戦いで倒れたことは甚だ皮肉であり、残念な事である。

 広瀬武夫(ひろせたけお)  

 1868(慶応4年)〜1904(明治37)年。海軍中佐。豊後国竹田(現在の大分県竹田)出身。

 元号が明治と改められる年、豊後岡藩士の次男として生まれた。海軍兵学校卒業。

 1897年、ロシア留学に抜擢。また駐在武官として西欧各国を視察。1902年まで滞欧した。

 日露戦争の第2回旅順港閉塞作戦において閉塞船福井丸を指揮。

 退船の際、行方不明となった部下杉野孫七上等兵曹を船内に戻り捜索したが発見出来ず、

 ボート上で被弾戦死。軍神として国民的英雄となり、軍歌や学校唱歌にも歌われた。

 ※旅順港閉塞作戦=ロシア旅順艦隊に対する港内封じ込め作戦。

 バルチック艦隊との合流を阻止すべく、旅順湾口に艦船を沈め、港入口の閉塞を計った。

 3次に渡り決行されたが、ロシア軍の激しい砲撃や天候不順等で作戦は中止された。

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九月十三夜陣中の作(上杉謙信)
 

 【題意】

 天正5年(1577)七尾城攻略の際、落城目前の七尾城を前に、九月十三夜の明月を賞し、

 酒宴の席上で賦した。現在の暦(新暦)では十月の後半頃か。

 【詩意】

 霜は真っ白に陣中に降りて、秋の気が清々しい

 雁の群れが列をつくり、夜半の月は冴え渡っている

 七尾城を落とし、越中越後に能州をも併せた大きな景色が見渡せる

 郷里の家族はさぞ我々の身を案じているだろうが、今宵は心ゆくまで月を楽しもう

 【語釈】

 三更=おおよそ午後11時か午前零時からの2時間。  

 能州=能登の国。現在の石川県北部一帯。

 遮莫=然(さ)もあらばあれ。それはそれでしかたがない。

 【七尾城の戦い】

 実質的には能登畠山氏の七尾城をめぐる織田信長勢力との戦い。

 織田信長の越前侵攻、石山本願寺宗徒弾圧等を受け、謙信は信長との同盟を破棄。

 天正4年(1576)暮れ、七尾城を包囲。翌年九月十五日落城させた。

 更に九月二十三日、落城を知らず七尾城援軍に駆けつけた柴田勝家率いる織田信長軍を

 加賀・手取川にて迎え撃ち撃破した。

 北方へも勢力拡大を図る織田信長との避けられない戦いであった。

 上杉謙信(うえすぎけんしん)  

 1530〜1578年。戦国時代の武将。越後守護代長尾為景の子。初め景虎(かげとら)・政虎、

 のち輝虎。永禄4年(1561)上杉憲政から譲られて関東管領となり、上杉氏を名乗った。

 謙信は法名。信仰に篤く、武将として特に毘沙門天を尊信した。

 北条氏康と戦った小田原攻め、武田信玄との五度にわたる川中島の合戦は有名。

 越中を平定後には織田信長と対決。七尾城援軍に駆けつけた織田信長軍を加賀・手取川

 に破った後、上洛を図るべく大軍を動員する準備を進めたが出陣を目前にして病に倒れた。

 謙信は義侠心が強く、私利私欲の為の戦いはしなかったといわれる。

 敵対していた武田信玄に塩を送った話など、人柄は律儀、正直で大義名分を重んじた。

 四書五経など内外典に通じており、和歌を良くし、書にも巧みであったといわれる。

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磧中の作(岑参)
 

 【題意】

 砂漠の中の作。磧は小石混じりの砂地。

 【詩意】

 馬を走らせ西へ西へと進めば、何処までも果てが無く、天に届いてしまいそうだ

 家を出立してから月が二度満ちるのを目にした

 今晩はどこに宿すことになるのだろうか

 見渡す限りの砂の海に人家の煙など見えない

 岑  参(しんしん、しんじん)  

 715〜770年。没年には異説もある。盛唐の官僚、詩人。

 744年、進士の試験に合格。749年には辺境へ派遣される軍に伴って西域へ赴き、

 その後も軍や地方の要職を歴任した。

 特に辺塞詩が有名で高適などと並び称されている。

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