当社は曽山(そやま)部落の西端にある。明治中期以前は
三州街道(中馬街道)がこの集落を通り抜けていたので、この社は著名であったと思われる。
現在、旧三州街道は中央自動車道によって大野方面と分断されてしまったが、曽山から大野に向かう上り坂を
庚申坂といい、現在も石仏群や馬頭観世音が道端に見られる(写真下)。
曽山は駒場村下町分であった。この地の庄屋であった
佐々木家(四つ目屋)に天保15年(1844)に書かれた由来書がある。それによると、この社の由来は次の様である。
近江国細江庄の住人だった佐々木左近太夫は、天文年中まで近江にいたが、国乱で浪々の身となり駒場村曽山に落ち着いた。天正10年(1582)に、子の佐々木采女が近江から守護神である
白髯明神を迎えた。この際、笹弥右衛門という者を守護として同伴して帰り、勧請はこの2名で行った。その後、疫痢流行や病虫害の際には、近所の禰宜を頼んで湯立神楽など祭祀を行ってきた。
元禄年中(1700前後)より、
新羅明神(安布知神社)の神主が祭礼を行うようになったが、森は先祖代々の控山であり、佐々木家で管理した。現在では人家も増え、曽山平全体の産宮(うぶすな)として、毎年9月9日に神事を行っている。
伊邪那岐命、伊邪那美命の2神は、後に合祀されたようだ。天保15年の文書では、末社が9社あったという。
118段の石段と鳥居は大正末年(鳥居には大正14年とある)の建造である。昭和6年には信濃大衆新聞社主催の
伊那峡谷霊顕十社に投票で選ばれた。それを記した旧社標は拝殿横(向かって左側)に横たえられていた。
(平成16年4月11日 記)
→ 『阿智村誌』 p.737
→ 『探史の足あと』 第5章より
童顔の石仏